
一昨日は午前中にさいたまアリーナの骨董市、その後有給休暇中ながらお客様に挨拶回り、その後仲間と送別会を兼ねた食事会とまたも面白い一日を過ごしました。
米吉さんが飲み会に掛け軸を持ち込んで「是非見てほしい」とお店のテーブルの上に広げだしました。とても大きな掛け軸で野村文挙の立派な作品でした。しかも二作品です。米吉さんの祖父が野村文挙と親交があったようです。いつもの仲間と愉快な話で盛り上がりました。
お花と米吉さんの娘さんの描いた作品までいただきました。
本当にお世話になりました。
本日の作品は描かれた女性の美しさに惹かれて購入した作品です
和歌三神図 阪田耕雪筆
絹本水墨着色 軸先象牙 共箱
全体サイズ:縦2030*横660 画サイズ:縦1280*横510

和歌に三人の神様がいたとは・・。

箱書に「大正丙寅歳夏日」とあることから、大正15年(1926年)制作の作品と推察されます。

和歌三神とは和歌を守護する3柱の神のことで、普通には、住吉明神・玉津島明神・柿本人麻呂。その他、衣通姫(そとおりひめ)・柿本人麻呂・山部赤人とするなど諸説があるそうです。
絵から判断すると、住吉明神、柿本人麻呂、玉津島明神(衣通姫)と推察されます。






女性の衣通姫をご存知の方はかなりの知識の方ですね。私は知りませんでした。本朝三美人の一人らしいですが、そもそも本朝三美人というのは誰々でしょうか?
骨董と言うものは人にいろんなことを教えてくますが、何事も疑問に思うことがないと新しい知識は身につきません。疑問に思ったら調べることですね。
衣通姫(そとおりひめ):記紀に絶世の美女と伝承される人物。衣通郎姫(そとおしのいらつめ)・衣通郎女・衣通王。大変に美しい女性であったため、その美しさが衣を通して輝くことからこの名がある。
本朝三美人の一人とも称される。記紀の間で衣通姫の設定が異なる。『古事記』には、允恭天皇皇女の軽大郎女(かるのおおいらつめ)の別名とし、同母兄である軽太子(かるのひつぎのみこ)と情を通じるタブーを犯す。それが原因で允恭天皇崩御後、軽太子は群臣に背かれて失脚、伊予へ流刑となるが、衣通姫もそれを追って伊予に赴き、再会を果たした二人は心中する(衣通姫伝説)。
『日本書紀』においては、允恭天皇の皇后忍坂大中姫(おしさかのおおなかつのひめ)の妹・弟姫(おとひめ)とされ、允恭天皇に寵愛された妃として描かれる。近江坂田から迎えられ入内し、藤原宮(奈良県橿原市)に住んだが、皇后の嫉妬を理由に河内の茅渟宮(ちぬのみや、大阪府泉佐野市)へ移り住み、天皇は遊猟にかこつけて衣通郎姫の許に通い続ける。皇后がこれを諌め諭すと、以後の行幸は稀になったという。
紀伊の国で信仰されていた玉津島姫と同一視され、和歌三神の一柱であるとされる。現在では和歌山県和歌山市にある玉津島神社に稚日女尊(わかひるめのみこと)、神功皇后と共に合祀されている。
美人というのは必ずしも幸福にはならないようですね。イケメン、美人というのは一時的なこと、心根が大切ですね。
思文閣 墨蹟資料目録 「和の美」 第452号 作品No12「桃太郎」との比較すると下の写真のようになります。



この作品はとても愉快です。
阪田耕雪:挿絵画家。金沢生。尾形月耕に浮世絵を学ぶ。大阪毎日新聞社で新聞小説の挿絵を担当し好評を博した。代表作に菊地幽芳著「己が罪」「乳姉妹」等の挿画がある。退社後は能画の研究に専念した。大阪城天守閣内郷土歴史画中の豊太閣の肖像は天覧の光栄に浴した。昭和10年(1935)歿、65才。
米吉さんが飲み会に掛け軸を持ち込んで「是非見てほしい」とお店のテーブルの上に広げだしました。とても大きな掛け軸で野村文挙の立派な作品でした。しかも二作品です。米吉さんの祖父が野村文挙と親交があったようです。いつもの仲間と愉快な話で盛り上がりました。
お花と米吉さんの娘さんの描いた作品までいただきました。
本当にお世話になりました。
本日の作品は描かれた女性の美しさに惹かれて購入した作品です

和歌三神図 阪田耕雪筆
絹本水墨着色 軸先象牙 共箱
全体サイズ:縦2030*横660 画サイズ:縦1280*横510

和歌に三人の神様がいたとは・・。

箱書に「大正丙寅歳夏日」とあることから、大正15年(1926年)制作の作品と推察されます。



和歌三神とは和歌を守護する3柱の神のことで、普通には、住吉明神・玉津島明神・柿本人麻呂。その他、衣通姫(そとおりひめ)・柿本人麻呂・山部赤人とするなど諸説があるそうです。
絵から判断すると、住吉明神、柿本人麻呂、玉津島明神(衣通姫)と推察されます。






女性の衣通姫をご存知の方はかなりの知識の方ですね。私は知りませんでした。本朝三美人の一人らしいですが、そもそも本朝三美人というのは誰々でしょうか?
骨董と言うものは人にいろんなことを教えてくますが、何事も疑問に思うことがないと新しい知識は身につきません。疑問に思ったら調べることですね。
衣通姫(そとおりひめ):記紀に絶世の美女と伝承される人物。衣通郎姫(そとおしのいらつめ)・衣通郎女・衣通王。大変に美しい女性であったため、その美しさが衣を通して輝くことからこの名がある。
本朝三美人の一人とも称される。記紀の間で衣通姫の設定が異なる。『古事記』には、允恭天皇皇女の軽大郎女(かるのおおいらつめ)の別名とし、同母兄である軽太子(かるのひつぎのみこ)と情を通じるタブーを犯す。それが原因で允恭天皇崩御後、軽太子は群臣に背かれて失脚、伊予へ流刑となるが、衣通姫もそれを追って伊予に赴き、再会を果たした二人は心中する(衣通姫伝説)。
『日本書紀』においては、允恭天皇の皇后忍坂大中姫(おしさかのおおなかつのひめ)の妹・弟姫(おとひめ)とされ、允恭天皇に寵愛された妃として描かれる。近江坂田から迎えられ入内し、藤原宮(奈良県橿原市)に住んだが、皇后の嫉妬を理由に河内の茅渟宮(ちぬのみや、大阪府泉佐野市)へ移り住み、天皇は遊猟にかこつけて衣通郎姫の許に通い続ける。皇后がこれを諌め諭すと、以後の行幸は稀になったという。
紀伊の国で信仰されていた玉津島姫と同一視され、和歌三神の一柱であるとされる。現在では和歌山県和歌山市にある玉津島神社に稚日女尊(わかひるめのみこと)、神功皇后と共に合祀されている。
美人というのは必ずしも幸福にはならないようですね。イケメン、美人というのは一時的なこと、心根が大切ですね。
思文閣 墨蹟資料目録 「和の美」 第452号 作品No12「桃太郎」との比較すると下の写真のようになります。




この作品はとても愉快です。
阪田耕雪:挿絵画家。金沢生。尾形月耕に浮世絵を学ぶ。大阪毎日新聞社で新聞小説の挿絵を担当し好評を博した。代表作に菊地幽芳著「己が罪」「乳姉妹」等の挿画がある。退社後は能画の研究に専念した。大阪城天守閣内郷土歴史画中の豊太閣の肖像は天覧の光栄に浴した。昭和10年(1935)歿、65才。
ところで昨日の快食?有難うございました。いつかいつかと思っていました掛け軸の御披露目がようやく叶いました。
曾祖父(1916年歿)が残してくれた思いのこもった物に対峙する際、その取扱いに細心の注意を払うべき!と改めて感じ入ったひと時でした。
また、次女の作品まで御紹介いただきありがとうございます。
野村文挙と縁のあったのは曾祖父様でしたか、・・失礼しました。
飲み会で掛け軸を広げる御仁も久しぶりに見ました。
飲み会で陶磁器を披露する人は珍しくはありませんが、珍しいのでは刀を披露する御仁には閉口します
またのコメントを楽しみにしています。