
地位や名声と必ずしも人格が同格にならないのが世の常らしい・・。最近、つくづくそう思うことがあります。会社を外から見ると良く解る・・。
画家にも同じことが言える人がいます。今週の日曜日の日経新聞「文人って何だ 下」で取り上げた岸田劉生などもその例です。ともかく癇癪もちでたいへんだったようです。
短期は損気といいます。短気のよって人望を損なうことは慎まなくてはなりません。短期は周囲に対する脅しにしかすぎません。机を叩いたり、威嚇するような文言で人の話も聞かず、自分の考えを押し通すやり方はいつか災いが自らにふりかかってきます。。
さて本日は冷泉為恭の作品です。この画家は尊皇攘夷派に命を奪われた画家です。
「茶を楽しむ男たち」(樫崎 櫻舟 著 出版社 里文出版)の中に 「茶は 楽しくなくっちゃ…福田行雄」の項のなかで冷泉為恭の描線を高く評価しています。まさしくその評価が的を得ている画家の力量です。
初音(仮題) 冷泉為恭筆
紙本水墨 合箱
全体サイズ:縦1970*横340 画サイズ:縦1130*横300
虫に喰われた跡があり、そこが裏打ちされていますので一度は改装されているようです。

近代やまと絵の名手というか描線のしっかりしている点は同時期の画家の中では抜きんでている。
右上に描かれているの「ほととぎす」と推察されます。
「ほととぎす 鳴きつる方を 眺むれば ただ有明(ありあけ)の 月ぞ残れる(後徳大寺左大臣(81番) 『千載集』夏・161)」の歌が有名であり、意味は「ホトトギスが鳴いた方を眺めやれば、ホトトギスの姿は見えず、ただ明け方の月が淡く空に残っているばかりだった。」といいうことであり、ほととぎすは、初夏を代表する事物としてよく歌に採り上げられます。
日本には夏に飛来するため、夏の訪れを知らせる鳥として平安時代には愛され、初音(はつね=季節に初めて鳴く声)を聴くことがブームでした。
本作品は二作品目の出品となります。
一作品目は下記の作品となります。
人丸像 冷泉為恭筆紙本水墨 合箱
全体サイズ:縦1970*横410 画サイズ:縦108*横290

岡田(冷泉)為恭:文政6年生まれ、元治元年没(1823年~1864年)、享年41歳。
狩野永泰の子で普三と呼び、さらに自ら冷泉三郎と称し、蔵人所衆岡田家の養子となり近江守従五位下となる。よって世に冷泉為恭とも呼ぶ。
訥言、一恵の先輩らと共に復古大和絵派の中でも最も幅の強い画家で大樹寺の襖絵を初め多くの遺作がある。勤皇思想により政治運動に関与し、文久2年(1862年)師願海を頼って紀州粉河寺に逃げて心蓮坊光阿と称して、さらに堺に隠れたが、浪士に惨殺された。古画の研究にも優れていた。
本ブログに登場している関連画家
浮田一恵
武者絵 浮田一恵筆
紙本着色額装 画サイズ:横312*縦797
田中訥言
月明之図 田中訥言筆
絹本着色絹装軸 江上瓊山鑑定箱入
全体サイズ:横468*縦1920 画サイズ:横318*縦937
以下は補足事項でちょっと専門的になります。
式部省とは
式部省:律令制で、太政官八省の一。文官の考課・選叙・禄賜など人事一般を取り扱い、大学寮・散位寮を管理した。のりのつかさ。天皇の秘書のような役目。
文官の人事考課、礼式、及び選叙(叙位及び任官)、行賞を司り、役人養成機関である大学寮を統括するため、八省の内でも中務省に次いで重要な省とされてきた。そのために長官である式部卿は重要な役とされ、弘仁3年より四品以上の親王が任ぜられる慣例ができあがっていった。これに近いものとして、同じく四品以上の親王から選出された中務省の長官である中務卿などが挙げられる。ただし、南北朝時代に二条良基が『百寮訓要抄』の中で式部卿の就任要件として「第一の親王是に任ず」と説き、諸親王の中でも血筋・経歴・学識にもっとも秀でた者が就任する官職と考えられていた。実際、平安時代前期の式部卿は葛原親王や時康親王などに代表されるように政治的な見識の高い実務に通じた親王が補されることが多かった。
次第に見識よりも天皇との血筋関係が任官において重要視されるようになると、式部卿である親王に代わって式部大輔が実質的な長官となった。式部大輔は儒学者で天皇の侍読(家庭教師)を務めた者が就任する慣例となっており、儒学者である日野家や菅原氏・大江氏の中から任ぜられ、特に菅原氏や大江氏の人間が参議になるための要路としての役割も果たしていた。そして参議となってからも式部大輔を兼帯することは差し支えなかった。そして式部省の次官である大輔及び少輔については、両方の権官を同時に任ずることはできないこととなっていた。
以上で述べた式部省の重要性から、式部省の判官である式部大丞(正六位下相当)及び式部少丞(従六位上相当)は顕官とされ、毎年正月の叙位では四人いる式部丞のうち上者(在職年数の長い者)1名が従五位下に叙せられるのが慣例(巡爵)であった(従って、式部少丞に任官後、四年後に叙爵されて従五位下となり、式部丞を離れる。式部丞が六位蔵人を務め、蔵人の労で叙爵される例も多かったため、式部丞に任官後三年以内で叙爵されて従五位下に昇る者も少なくなかった)。式部丞などの顕官を務めて五位に叙された者には受領に任じられる資格があった。五位となった式部丞のことを式部大夫と称した。
また、六位蔵人で式部大丞または式部少丞を兼職した者は、特に昇殿を許されたために殿上の丞(てんじょうのじょう)と言われた。
職員
• 卿(正四位下相当) … 一人
大輔以下の定員は以下のとおり。
• 大輔(正五位下相当) … 一人
• 少輔(従五位下相当) … 一人
• 大丞(正六位下相当) … 二人
• 小丞(従六位上相当) … 二人・・・・「人麻呂」の作品の頃
• 大録(正七位上相当) … 二人・・・・本作品の制作の頃、ただ位は「六位」
• 少録(正八位上相当) … 二人
• 史生 … 二十人
本作品の落款は下記の通りです。

人丸の作品の落款は下記の写真のとおりですので、位が違いますので描いている時期がずれているのでしょう。両作品とも真作に相違はありません。

落款に自分の位を署するというのは、ちと嫌らしいですが歴代の宮廷画家は通例となっていたようです。
冷泉為恭に関する補足資料
冷泉 為恭(れいぜい ためちか):文政6年9月17日(1823年10月20日)~ 元治元年5月5日(1864年6月8日))は、幕末期の公家召抱えの復古大和絵の絵師。幼名は晋三。通称は永恭のち為恭に改める。別名は岡田為恭。号は心蓮。冷泉の姓は自らが冷泉家に無断で名乗ったもので、公家の出自ではない。画家としての才能は優れており、障壁画や仏画に当時としては傑作といわれるほどの名画を残している。2010年、彼の手になるとされる伴大納言絵詞の模写の存在が公にされた(当時、伴大納言絵詞は酒井忠義が所有していた)。
狩野派から大和絵へ
京狩野の絵師狩野永泰と、俳人北川梅價の娘織乃の第三子として生まれる。京狩野9代目の狩野永岳は父永泰の実兄で、為恭の伯父にあたる。父方の祖父も景山洞玉(狩野永章)という絵師であり、三代にわたる絵師の家系である。京狩野に連なる絵師の家に生まれながら、大和絵復興を志し、特定の絵師に師事せず、高山寺、神護寺、聖護院などの社寺に所蔵される古画の模写や古物の写生を重ね、国学者や有職学者を訪ねて有職故実を学んだ。12歳で既に画才に優れていたことが記され、18歳で故実家を驚かせるほどの知識を得ている。天保14年(1843年)幕府の奥絵師で模写に情熱を燃やしていた狩野養信から、『年中行事絵巻』の模写を依頼されており、為恭は江戸の御用絵師で最高の格式を持っていた養信からも技量を認められたことを物語る。一説に、若年時に為恭が模写した絵巻は、およそ90種にもおよぶと伝えられる。
貴族志向と円熟
嘉永3年(1850年)には蔵人所衆である岡田家の養嗣子となり、蔵人所衆の役に就く。嘉永6年(1853年)仏書にも通じていた為恭は、天台僧大行満願海が著した『勧発菩提心文』の挿絵を描いたことが切っ掛けで願海と深く交流、彼の依頼で多くの仏画を描く。安政2年(1855年)三条実万の斡旋により御所へ出仕し小御所北廂襖絵を描き、翌年には関白・九条尚忠の直廬預となる。この頃、社会的な身分も上昇と並行して画技も成熟し、大樹寺の障壁画を始めとして多くの作品を残している。
非業の最期
黒船来航により尊王論が巻き起こると、為恭も否応なく巻き込まれることになる。為恭は倒幕派から王朝擁護と見られていたにもかかわらず、佐幕派の要人宅に出入りするなど、その行動に勤王派から疑問が持たれ出していた。こうした日和見的・軽率な態度が、勤王の志士たちから「倒幕派の情報を漏らしているのではないか?」という疑心暗鬼を抱かせる事となり、命を狙われるハメになる。
当時代々の藩主により美術品を多く持っていることで知られた京都所司代・酒井忠義から『伴大納言絵巻』を観る為に接近する。願いはかなって絵巻を閲覧・模写する事は出来たが、京都所司代は、尊王攘夷派からすれば敵の出先機関であり、ここに出入りしただけで佐幕派と見做されてしまった。文久2年(1862年)8月過激な尊攘派から命を狙われ、逃亡生活が始まる。為恭は願海のいる紀伊国粉河寺に逃れ9ヶ月潜伏、名も僧侶風に改め、寿碑(生前の墓)を立てるなど隠蔽に努めた。しかし尊攘派の追跡は厳しく、堺から大和国、大和丹波市にある石上神宮の神宮寺である内山永久寺に逃れるが、追っ手が迫り逃亡中、元治元年5月5日、丹波市郊外の鍵屋の辻で、長州藩の大楽源太郎らによって捕縛、殺害された。享年42歳。
非常に画力のあっただけに短い生涯を悔やまざる得ません。主義主張が違う人物を力で抹殺する時代であったのでしょうが、今となってはなんと惜しい人材を失ったと悔いるばかりです。
画家にも同じことが言える人がいます。今週の日曜日の日経新聞「文人って何だ 下」で取り上げた岸田劉生などもその例です。ともかく癇癪もちでたいへんだったようです。
短期は損気といいます。短気のよって人望を損なうことは慎まなくてはなりません。短期は周囲に対する脅しにしかすぎません。机を叩いたり、威嚇するような文言で人の話も聞かず、自分の考えを押し通すやり方はいつか災いが自らにふりかかってきます。。
さて本日は冷泉為恭の作品です。この画家は尊皇攘夷派に命を奪われた画家です。
「茶を楽しむ男たち」(樫崎 櫻舟 著 出版社 里文出版)の中に 「茶は 楽しくなくっちゃ…福田行雄」の項のなかで冷泉為恭の描線を高く評価しています。まさしくその評価が的を得ている画家の力量です。
初音(仮題) 冷泉為恭筆
紙本水墨 合箱
全体サイズ:縦1970*横340 画サイズ:縦1130*横300
虫に喰われた跡があり、そこが裏打ちされていますので一度は改装されているようです。

近代やまと絵の名手というか描線のしっかりしている点は同時期の画家の中では抜きんでている。
右上に描かれているの「ほととぎす」と推察されます。
「ほととぎす 鳴きつる方を 眺むれば ただ有明(ありあけ)の 月ぞ残れる(後徳大寺左大臣(81番) 『千載集』夏・161)」の歌が有名であり、意味は「ホトトギスが鳴いた方を眺めやれば、ホトトギスの姿は見えず、ただ明け方の月が淡く空に残っているばかりだった。」といいうことであり、ほととぎすは、初夏を代表する事物としてよく歌に採り上げられます。
日本には夏に飛来するため、夏の訪れを知らせる鳥として平安時代には愛され、初音(はつね=季節に初めて鳴く声)を聴くことがブームでした。
本作品は二作品目の出品となります。
一作品目は下記の作品となります。
人丸像 冷泉為恭筆紙本水墨 合箱
全体サイズ:縦1970*横410 画サイズ:縦108*横290

岡田(冷泉)為恭:文政6年生まれ、元治元年没(1823年~1864年)、享年41歳。
狩野永泰の子で普三と呼び、さらに自ら冷泉三郎と称し、蔵人所衆岡田家の養子となり近江守従五位下となる。よって世に冷泉為恭とも呼ぶ。
訥言、一恵の先輩らと共に復古大和絵派の中でも最も幅の強い画家で大樹寺の襖絵を初め多くの遺作がある。勤皇思想により政治運動に関与し、文久2年(1862年)師願海を頼って紀州粉河寺に逃げて心蓮坊光阿と称して、さらに堺に隠れたが、浪士に惨殺された。古画の研究にも優れていた。
本ブログに登場している関連画家
浮田一恵
武者絵 浮田一恵筆
紙本着色額装 画サイズ:横312*縦797
田中訥言
月明之図 田中訥言筆
絹本着色絹装軸 江上瓊山鑑定箱入
全体サイズ:横468*縦1920 画サイズ:横318*縦937
以下は補足事項でちょっと専門的になります。
式部省とは
式部省:律令制で、太政官八省の一。文官の考課・選叙・禄賜など人事一般を取り扱い、大学寮・散位寮を管理した。のりのつかさ。天皇の秘書のような役目。
文官の人事考課、礼式、及び選叙(叙位及び任官)、行賞を司り、役人養成機関である大学寮を統括するため、八省の内でも中務省に次いで重要な省とされてきた。そのために長官である式部卿は重要な役とされ、弘仁3年より四品以上の親王が任ぜられる慣例ができあがっていった。これに近いものとして、同じく四品以上の親王から選出された中務省の長官である中務卿などが挙げられる。ただし、南北朝時代に二条良基が『百寮訓要抄』の中で式部卿の就任要件として「第一の親王是に任ず」と説き、諸親王の中でも血筋・経歴・学識にもっとも秀でた者が就任する官職と考えられていた。実際、平安時代前期の式部卿は葛原親王や時康親王などに代表されるように政治的な見識の高い実務に通じた親王が補されることが多かった。
次第に見識よりも天皇との血筋関係が任官において重要視されるようになると、式部卿である親王に代わって式部大輔が実質的な長官となった。式部大輔は儒学者で天皇の侍読(家庭教師)を務めた者が就任する慣例となっており、儒学者である日野家や菅原氏・大江氏の中から任ぜられ、特に菅原氏や大江氏の人間が参議になるための要路としての役割も果たしていた。そして参議となってからも式部大輔を兼帯することは差し支えなかった。そして式部省の次官である大輔及び少輔については、両方の権官を同時に任ずることはできないこととなっていた。
以上で述べた式部省の重要性から、式部省の判官である式部大丞(正六位下相当)及び式部少丞(従六位上相当)は顕官とされ、毎年正月の叙位では四人いる式部丞のうち上者(在職年数の長い者)1名が従五位下に叙せられるのが慣例(巡爵)であった(従って、式部少丞に任官後、四年後に叙爵されて従五位下となり、式部丞を離れる。式部丞が六位蔵人を務め、蔵人の労で叙爵される例も多かったため、式部丞に任官後三年以内で叙爵されて従五位下に昇る者も少なくなかった)。式部丞などの顕官を務めて五位に叙された者には受領に任じられる資格があった。五位となった式部丞のことを式部大夫と称した。
また、六位蔵人で式部大丞または式部少丞を兼職した者は、特に昇殿を許されたために殿上の丞(てんじょうのじょう)と言われた。
職員
• 卿(正四位下相当) … 一人
大輔以下の定員は以下のとおり。
• 大輔(正五位下相当) … 一人
• 少輔(従五位下相当) … 一人
• 大丞(正六位下相当) … 二人
• 小丞(従六位上相当) … 二人・・・・「人麻呂」の作品の頃
• 大録(正七位上相当) … 二人・・・・本作品の制作の頃、ただ位は「六位」
• 少録(正八位上相当) … 二人
• 史生 … 二十人
本作品の落款は下記の通りです。

人丸の作品の落款は下記の写真のとおりですので、位が違いますので描いている時期がずれているのでしょう。両作品とも真作に相違はありません。

落款に自分の位を署するというのは、ちと嫌らしいですが歴代の宮廷画家は通例となっていたようです。
冷泉為恭に関する補足資料
冷泉 為恭(れいぜい ためちか):文政6年9月17日(1823年10月20日)~ 元治元年5月5日(1864年6月8日))は、幕末期の公家召抱えの復古大和絵の絵師。幼名は晋三。通称は永恭のち為恭に改める。別名は岡田為恭。号は心蓮。冷泉の姓は自らが冷泉家に無断で名乗ったもので、公家の出自ではない。画家としての才能は優れており、障壁画や仏画に当時としては傑作といわれるほどの名画を残している。2010年、彼の手になるとされる伴大納言絵詞の模写の存在が公にされた(当時、伴大納言絵詞は酒井忠義が所有していた)。
狩野派から大和絵へ
京狩野の絵師狩野永泰と、俳人北川梅價の娘織乃の第三子として生まれる。京狩野9代目の狩野永岳は父永泰の実兄で、為恭の伯父にあたる。父方の祖父も景山洞玉(狩野永章)という絵師であり、三代にわたる絵師の家系である。京狩野に連なる絵師の家に生まれながら、大和絵復興を志し、特定の絵師に師事せず、高山寺、神護寺、聖護院などの社寺に所蔵される古画の模写や古物の写生を重ね、国学者や有職学者を訪ねて有職故実を学んだ。12歳で既に画才に優れていたことが記され、18歳で故実家を驚かせるほどの知識を得ている。天保14年(1843年)幕府の奥絵師で模写に情熱を燃やしていた狩野養信から、『年中行事絵巻』の模写を依頼されており、為恭は江戸の御用絵師で最高の格式を持っていた養信からも技量を認められたことを物語る。一説に、若年時に為恭が模写した絵巻は、およそ90種にもおよぶと伝えられる。
貴族志向と円熟
嘉永3年(1850年)には蔵人所衆である岡田家の養嗣子となり、蔵人所衆の役に就く。嘉永6年(1853年)仏書にも通じていた為恭は、天台僧大行満願海が著した『勧発菩提心文』の挿絵を描いたことが切っ掛けで願海と深く交流、彼の依頼で多くの仏画を描く。安政2年(1855年)三条実万の斡旋により御所へ出仕し小御所北廂襖絵を描き、翌年には関白・九条尚忠の直廬預となる。この頃、社会的な身分も上昇と並行して画技も成熟し、大樹寺の障壁画を始めとして多くの作品を残している。
非業の最期
黒船来航により尊王論が巻き起こると、為恭も否応なく巻き込まれることになる。為恭は倒幕派から王朝擁護と見られていたにもかかわらず、佐幕派の要人宅に出入りするなど、その行動に勤王派から疑問が持たれ出していた。こうした日和見的・軽率な態度が、勤王の志士たちから「倒幕派の情報を漏らしているのではないか?」という疑心暗鬼を抱かせる事となり、命を狙われるハメになる。
当時代々の藩主により美術品を多く持っていることで知られた京都所司代・酒井忠義から『伴大納言絵巻』を観る為に接近する。願いはかなって絵巻を閲覧・模写する事は出来たが、京都所司代は、尊王攘夷派からすれば敵の出先機関であり、ここに出入りしただけで佐幕派と見做されてしまった。文久2年(1862年)8月過激な尊攘派から命を狙われ、逃亡生活が始まる。為恭は願海のいる紀伊国粉河寺に逃れ9ヶ月潜伏、名も僧侶風に改め、寿碑(生前の墓)を立てるなど隠蔽に努めた。しかし尊攘派の追跡は厳しく、堺から大和国、大和丹波市にある石上神宮の神宮寺である内山永久寺に逃れるが、追っ手が迫り逃亡中、元治元年5月5日、丹波市郊外の鍵屋の辻で、長州藩の大楽源太郎らによって捕縛、殺害された。享年42歳。
非常に画力のあっただけに短い生涯を悔やまざる得ません。主義主張が違う人物を力で抹殺する時代であったのでしょうが、今となってはなんと惜しい人材を失ったと悔いるばかりです。