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先週の金曜日は名古屋へ挨拶廻りでしたが、夕刻から市内で同僚と一献。同僚が紹介してくれた母と娘さんの二人で料理を出してくれる小料理屋はとても美味しいものでした。盛岡の城址近くの夫婦でのお店、山形鶴岡の有名になる前のル・ポットフー(この2店はずいぶん前のことです)、銀座の地下の姉妹の店など美味しい店を見つけると嬉しいものですが、そうそうあるものではありませんね。
おかげさまで本日で述べ100万人の閲覧者となりました。訪問者数は述べ21万人です。
さて本日は本ブログには珍しい美人画に分類される作品です。
遊婦人之図 伝渡辺南岳筆
絹本着色軸装 軸先骨 識合箱入
全体サイズ:縦1630*横432 画サイズ:縦763*横327
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応挙十哲の駒井源や山口素絢が比較的理想化された唐美人や遊女を多く描いたのに対して、南岳は市井の風俗に取材した女性像を描いている。卵型の顔立ちと豊満な体つきは、南岳の描く美人画の特徴であるが、祇園井特との共通点が多いと指摘されています。
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「厳之」と「維山」の白文朱方印の累印が押印されておりますが、印章の確認は未了であり、落款からだけでは真贋は判断できません。真贋には慎重を要します。
とはいえ、それほど過敏になるほど現在は評価の高い画家ではありませんね。
何気ない着物の紋様にも金彩が施されており、その紋様の美しさには驚きを感じえません。
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ただ本作品は顔の無表情さ、髪周りの表現に若干の違和感を覚えます。そこが真作と断定できかねポイントです。
表情豊かな作品になる熟練度をまだ要していない頃の作品の可能性を示唆している??
・・。
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「渡辺 南岳:明和4年(1767年)~文化10年1月4日(1813年2月4日)は江戸時代後期の画家。京都の人。名は巌、字は維石、号は南岳、通称小左衛門。円山応挙の高弟で応門十哲に数えられる。江戸に円山派を広めた。画をはじめ源に師事し、ついで円山応挙に学ぶ。入門時期は不明だが、30代に入って年期を記した作品では既に円山派の技法を完全に身に付けている事から、20代には弟子入りしていることが推定される。二十代後半になって俳諧を中心とした版本の挿図(挿絵)を手がけている。このころ、三河吉田の恩田石峰が門人となっている。
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三十代前半の3年間、江戸に遊歴。谷文晁・亀田鵬斎・酒井抱一・鈴木芙蓉・釧雲泉・浦上春琴・鍬形斎・雲室・横田汝圭・長町竹石・広瀬台山・夏目成美・亀井東渓など当代一流の文人と交流した。文晁の娘婿文一や大西椿年、鈴木南嶺が入門。渡辺崋山も南岳画の模写を熱心に行っている。このように南岳は江戸において「京派」・「京伝」と称され、文晁派を中心に円山派の画法を広めた。京都に戻ると、円山派(奥文鳴・森徹山)・四条派(長山孔寅・柴田義董・岡本豊彦)の画家と交友し画作に励む。
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皆川淇園からは画の依頼を受けている。また国学者の上田秋成との交流が知られる。南岳は大明国師像の模写を依頼されたとき、秋成の容貌が国師に似ている気づき、顔の写生を行ったという。文化10年正月、突如病に倒れ死没。享年48。戒名は「釈南岳信士」。京都双林寺に葬られた。京都の門人に中島来章・松井南居がいる。南岳は、流麗な筆致で美人図・鱗魚図を得意とした。
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なお、尾形光琳を敬慕したとされるが、その画風に琳派のあまり影響を見ることはできない。しかし、装飾的な画面構成にその影響を見る向きもあり、江戸琳派の絵師酒井抱一は、南岳死去の報を聞いて「春雨に うちしめりけり 京の昆布」とその死を惜しむ句を詠んでいる。」
参考作品
美人
思文閣墨蹟資料目録 和の美 第453号 作品NO63
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参考作品
歌妓図
京都府立総合資料館蔵
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「本作品のこの髪の状態では簪はさせない」とは家内の評価・・、相変わらず厳しい
おかげさまで本日で述べ100万人の閲覧者となりました。訪問者数は述べ21万人です。
さて本日は本ブログには珍しい美人画に分類される作品です。
遊婦人之図 伝渡辺南岳筆
絹本着色軸装 軸先骨 識合箱入
全体サイズ:縦1630*横432 画サイズ:縦763*横327
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応挙十哲の駒井源や山口素絢が比較的理想化された唐美人や遊女を多く描いたのに対して、南岳は市井の風俗に取材した女性像を描いている。卵型の顔立ちと豊満な体つきは、南岳の描く美人画の特徴であるが、祇園井特との共通点が多いと指摘されています。
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「厳之」と「維山」の白文朱方印の累印が押印されておりますが、印章の確認は未了であり、落款からだけでは真贋は判断できません。真贋には慎重を要します。
とはいえ、それほど過敏になるほど現在は評価の高い画家ではありませんね。
何気ない着物の紋様にも金彩が施されており、その紋様の美しさには驚きを感じえません。
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ただ本作品は顔の無表情さ、髪周りの表現に若干の違和感を覚えます。そこが真作と断定できかねポイントです。
表情豊かな作品になる熟練度をまだ要していない頃の作品の可能性を示唆している??
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「渡辺 南岳:明和4年(1767年)~文化10年1月4日(1813年2月4日)は江戸時代後期の画家。京都の人。名は巌、字は維石、号は南岳、通称小左衛門。円山応挙の高弟で応門十哲に数えられる。江戸に円山派を広めた。画をはじめ源に師事し、ついで円山応挙に学ぶ。入門時期は不明だが、30代に入って年期を記した作品では既に円山派の技法を完全に身に付けている事から、20代には弟子入りしていることが推定される。二十代後半になって俳諧を中心とした版本の挿図(挿絵)を手がけている。このころ、三河吉田の恩田石峰が門人となっている。
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三十代前半の3年間、江戸に遊歴。谷文晁・亀田鵬斎・酒井抱一・鈴木芙蓉・釧雲泉・浦上春琴・鍬形斎・雲室・横田汝圭・長町竹石・広瀬台山・夏目成美・亀井東渓など当代一流の文人と交流した。文晁の娘婿文一や大西椿年、鈴木南嶺が入門。渡辺崋山も南岳画の模写を熱心に行っている。このように南岳は江戸において「京派」・「京伝」と称され、文晁派を中心に円山派の画法を広めた。京都に戻ると、円山派(奥文鳴・森徹山)・四条派(長山孔寅・柴田義董・岡本豊彦)の画家と交友し画作に励む。
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皆川淇園からは画の依頼を受けている。また国学者の上田秋成との交流が知られる。南岳は大明国師像の模写を依頼されたとき、秋成の容貌が国師に似ている気づき、顔の写生を行ったという。文化10年正月、突如病に倒れ死没。享年48。戒名は「釈南岳信士」。京都双林寺に葬られた。京都の門人に中島来章・松井南居がいる。南岳は、流麗な筆致で美人図・鱗魚図を得意とした。
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なお、尾形光琳を敬慕したとされるが、その画風に琳派のあまり影響を見ることはできない。しかし、装飾的な画面構成にその影響を見る向きもあり、江戸琳派の絵師酒井抱一は、南岳死去の報を聞いて「春雨に うちしめりけり 京の昆布」とその死を惜しむ句を詠んでいる。」
参考作品
美人
思文閣墨蹟資料目録 和の美 第453号 作品NO63
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参考作品
歌妓図
京都府立総合資料館蔵
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「本作品のこの髪の状態では簪はさせない」とは家内の評価・・、相変わらず厳しい
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すごいですね!「継続は力なり」とは申しますが、毎日のこととなると「筆舌に尽くし難い」ものがありますでしょうね!
石の上にも三年が過ぎ、四年目に向けて「余念がない」ってところでしょうか・・・?
おかげさまで4月25日で3周年になります。
これも米吉さんのおかげです。よねきちと読んで四年がない?? 今後ともよろしく。