先日の2月10日の雪・・、庭にも少し積もりました。
息子は帰郷にて雪には慣れていると豪語していますが・・・。
午後からは雨・・。息子はそれでも大はしゃぎで雨の中を公園に遊びに行きました。雪だるまも「雨にはまいったな~」という表情。裏の息子の友達の家では雪ダルマが傘をさしていました。息子らが作った雪ダルマは中学生らによって破壊され、息子はべそをかいて帰ってきました。
いつもながら東京の雪は次の日には消えていきます・・。近所の雪だるまはなんと日よけしていました。
さて片山楊谷といったら「虎」の作品・・・。しかしそうとは限らない優品?がある・・、それが本作品紹介する鶏の作品。
お気に入りの作品 鶏之図 片山楊谷筆 寛政10年頃 その2
絹本水墨着色軸装 軸先骨 合箱
全体サイズ:縦2093*横710 画サイズ:縦1215*横526
以前に片山楊谷の作品は紹介していますが、あらためて片山楊谷の画歴は下記の通りです。
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片山楊谷:(かたやま ようこく) 宝暦10年(1760年)~享和元年8月24日(1801年10月1日))。江戸時代中期に活躍した長崎派の絵師。長崎出身。
本姓は洞、名は貞雄、通称は宗馬。楊谷は号で、初号に洞勸、別号は画禅窟。
一説に「名は温、一に義夫、字は玉如。父は長崎で医者をしていた洞雄山、あるいは洞雄敬の子として生まれる。一説に父が中国人で、母は日本人とも言われるが定かではない。幼少時に父を亡くしている。
1772年(安永元年)13歳で諸国を巡歴して、19歳の時には既に5人の弟子がいるほどの腕前だった。17歳で鳥取の興禅寺に逗留して絵を描き、のちに法美郡桂木村の医師・中山東川の娘を妻とする。
若桜藩主・池田定常に絵を気に入られ、貞経は楊谷を引き止めるため、1792年(寛政4年)鳥取藩士で茶道役の片山家に夫婦とも養子とした。翌年家督を継ぎ、亡くなるまで9年間務めた。(この時期以降の作には 落款に「瓊浦」を用いない。以降の多くは「稲葉」を記した。)
1795年(寛政7年)湯治のため藩の許しを得て京都に行き、画名を得たという。円山応挙に弟子入りを請うと、応挙はその画才を見て驚嘆し、弟子ではなく友人として迎えたいう逸話は有名な話です。
学芸を好んだ妙法院門主真仁法親王の前で席画を披露しており、更にその兄・光格天皇は楊谷を宮中に招き、従五位下の位階を与え楊谷に数十幅の画作を依頼しています。
楊谷が画を完成させ披露すると、天皇はその出来に満足し褒美として名硯・石王寺硯を与えた。楊谷はこれを愛用し一生肌身離さなかったいわれる。
*本作品はこの頃(寛政10年頃)と推定されます。
1800年(寛政12年)但馬の山路寺で数多くの障壁画を手掛け、現在兵庫県指定文化財になっている。
ところが、但馬の湯村温泉で入浴中、突然発病してにて死亡しています。享年42。若すぎる死でした。
菩提寺は鳥取の興禅寺、または長崎の大音寺。
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この描写力は素晴らしいもので、若冲に匹敵する>>??
虎の絵では、虎の毛を細い線で丹念に表し、「楊谷の毛描き」と呼ばれていますが、本作品の鶏の描き方でもその片鱗が見てとれるように思います。
画風は費漢源に近く、その弟子に画法を学んだと推測されています。しかし、沈南蘋や他の長崎派の画風も摂取していったことが観察できますが、42歳という若さで亡くなっており、非常に作品数や資料が少なく、推測の域を出ないかな?
特に片山楊谷の虎の絵は、虎の毛を細い線で丹念に表し、「楊谷の毛描き」と呼ばれていますが、虎の作品は掛け軸でも着色され、毛が細かく描かれた優品は単品でも800万円はするとなんでも鑑定団では評価されています。これは流石に値段が高すぎでしょうね>
印章や落款に違和感はありません。
本作品は代表的な虎の絵ではありませんが、楊谷の中でもこれほどの力作・大作はなかなかないでしょう。細かく、しかし非常に力強い毛描き。眼にはどう猛さまで感じられます。江戸中期に全国に影響を与えた長崎派は因幡画壇で花開きましたが、これまではほとんど注目されていませんでした。こういう作品が発見されることで注目を集めるようになるといいですね。