厄除けの吉祥図柄として「鐘馗図」が良いので、また男の誕生もあり、五月の節句飾りとして「鐘馗様」の作品を集まるようになりました。このように特定のものを蒐集するのは玉石混合になることが多いのですが・・。
鐘馗煎茶之図 小田海僊筆
絹本水墨淡彩軸装 軸先木製 佐竹永稜鑑定箱
全体サイズ:縦1830*横527 画サイズ:縦1040*横412
本作品は「東坡煎茶図」の見立図と推察されます。小田海僊の作品に「東坡煎茶図」(誠之館所蔵)があります。小田海僊から絵を学んだとされる富岡鉄斎もまた描いています。
鐘馗様と鬼の表情が面白い。
両者ともに煎茶を愉しんでいる・・。
息子も団扇が大好き・・。
さしずめ我が家の鐘馗は小生で、小鬼は息子か・・?? ん? 逆かもしれません。
興味にあるものにはすぐに手の出る・・、これでほんとに厄除けの図柄・・・。
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佐竹永稜:日本画家。東京生。旧姓は黒田、名は銀十郎、別号に写山画房・巍々堂。佐竹永湖に師事し南北合派を学びのち師家を継ぐ。日本画会の結成に参加し、また松林桂月らと日本南宗画会を結成した。文展開設では旧派の正派同志会の結成に幹事として参加した。また制作のかたわら谷文晁の画風の研究・鑑定も手がけた。日本美術協会委員。昭和12年(1937)歿、64才。
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佐竹永海、佐竹永湖、佐竹永稜は3代続けての画家の一派です。佐竹永海については「なんでも鑑定団」に三幅対の掛け軸が出品されていましたのでご存知の方もおられるかと思います。
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小田海僊:天明5年(1785年)~文久2年閏8月24日(1862年10月17日))は、江戸時代後期の日本の南画家。 通称良平、名は羸(るい)または瀛(えい)。 字を巨海、号は海僊の他に百谷または百穀。
周防国富海(現 山口県防府市富海)に生まれ、長門国赤間関(現 山口県下関市)の紺屋(染工)を営む小田家の養子となる。 22歳のとき、京都四条派の松村呉春に入門し、写生的な画風を修得し同門の松村景文や岡本豊彦らと名声を競った。のち頼山陽の助言で,中国元明の古蹟や粉本を学び南宗画法に転じた。その勉励の貌は小石元瑞から画痩といわれるほどであったという。頼山陽と共に九州に遊ぶこと5年,帰京ののち画名を高め,中林竹洞、浦上春琴らと並び称せられた。文政7年(1824年)、萩藩の御用絵師となり、一時江戸に滞在。1826年、京都に戻り活動。嘉永元年(1848年)から安政元年(1854年)にかけて画室を設けているが、このころ富岡鉄斎に絵を教えたと推定されている。
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小田海僊の作品も六作品目か~。意外と多くなりました。
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参考作品
「東坡煎茶図」 小田海僊筆
画サイズ:縦395*横535
作品に添えられている「大瓢貯月帰春甕小杓分江入夜瓶」という賛は、以下に挙げている蘇東坡作の七言律詩「汲江煎茶」の第3・4句を抜き出して録したものです。この詩は蘇東坡が騙されて海南島に流された晩年における代表作。
汲江煎茶 江を汲んで茶を煎(に)る
活水還須活火烹: 活水(かっすい)また須(すべか)らく活火もて烹(に)るべし
自臨釣石汲深清: 自ら釣石(ちょうせき)に臨んで深清(しんせい)を汲む
大瓢貯月帰春甕: 大瓢(たいひょう)月を貯えて春甕(しゅんおう)に帰し
小杓分江入夜瓶: 小杓江(こう)を分って夜瓶に入(い)る
雪乳已翻煎処脚: 雪乳已(すで)に煎処(せんしょ)の脚(きゃく)を翻(ひるが)えし
松風忽作瀉時声: 松風(しょうふう)忽(たちま)ち瀉時(しゃじ)の声を作(な)す
枯腸未易禁三椀: 枯腸(こちょう)未(いま)だ三椀を禁じ易(やす)からず
坐聴荒城長短更: 坐して聴く荒城(こうじょう)長短(ちょうたん)の更(こう)
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整理していたら、底には覚書が貼り付けられていました。
「海僊鐘馗之図 和久 昭和参拾年参月参日(昭和30年3月3日) □求」とあります。和久の意味は解りません。
鐘馗煎茶之図 小田海僊筆
絹本水墨淡彩軸装 軸先木製 佐竹永稜鑑定箱
全体サイズ:縦1830*横527 画サイズ:縦1040*横412
本作品は「東坡煎茶図」の見立図と推察されます。小田海僊の作品に「東坡煎茶図」(誠之館所蔵)があります。小田海僊から絵を学んだとされる富岡鉄斎もまた描いています。
鐘馗様と鬼の表情が面白い。
両者ともに煎茶を愉しんでいる・・。
息子も団扇が大好き・・。
さしずめ我が家の鐘馗は小生で、小鬼は息子か・・?? ん? 逆かもしれません。
興味にあるものにはすぐに手の出る・・、これでほんとに厄除けの図柄・・・。
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佐竹永稜:日本画家。東京生。旧姓は黒田、名は銀十郎、別号に写山画房・巍々堂。佐竹永湖に師事し南北合派を学びのち師家を継ぐ。日本画会の結成に参加し、また松林桂月らと日本南宗画会を結成した。文展開設では旧派の正派同志会の結成に幹事として参加した。また制作のかたわら谷文晁の画風の研究・鑑定も手がけた。日本美術協会委員。昭和12年(1937)歿、64才。
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佐竹永海、佐竹永湖、佐竹永稜は3代続けての画家の一派です。佐竹永海については「なんでも鑑定団」に三幅対の掛け軸が出品されていましたのでご存知の方もおられるかと思います。
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小田海僊:天明5年(1785年)~文久2年閏8月24日(1862年10月17日))は、江戸時代後期の日本の南画家。 通称良平、名は羸(るい)または瀛(えい)。 字を巨海、号は海僊の他に百谷または百穀。
周防国富海(現 山口県防府市富海)に生まれ、長門国赤間関(現 山口県下関市)の紺屋(染工)を営む小田家の養子となる。 22歳のとき、京都四条派の松村呉春に入門し、写生的な画風を修得し同門の松村景文や岡本豊彦らと名声を競った。のち頼山陽の助言で,中国元明の古蹟や粉本を学び南宗画法に転じた。その勉励の貌は小石元瑞から画痩といわれるほどであったという。頼山陽と共に九州に遊ぶこと5年,帰京ののち画名を高め,中林竹洞、浦上春琴らと並び称せられた。文政7年(1824年)、萩藩の御用絵師となり、一時江戸に滞在。1826年、京都に戻り活動。嘉永元年(1848年)から安政元年(1854年)にかけて画室を設けているが、このころ富岡鉄斎に絵を教えたと推定されている。
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小田海僊の作品も六作品目か~。意外と多くなりました。
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参考作品
「東坡煎茶図」 小田海僊筆
画サイズ:縦395*横535
作品に添えられている「大瓢貯月帰春甕小杓分江入夜瓶」という賛は、以下に挙げている蘇東坡作の七言律詩「汲江煎茶」の第3・4句を抜き出して録したものです。この詩は蘇東坡が騙されて海南島に流された晩年における代表作。
汲江煎茶 江を汲んで茶を煎(に)る
活水還須活火烹: 活水(かっすい)また須(すべか)らく活火もて烹(に)るべし
自臨釣石汲深清: 自ら釣石(ちょうせき)に臨んで深清(しんせい)を汲む
大瓢貯月帰春甕: 大瓢(たいひょう)月を貯えて春甕(しゅんおう)に帰し
小杓分江入夜瓶: 小杓江(こう)を分って夜瓶に入(い)る
雪乳已翻煎処脚: 雪乳已(すで)に煎処(せんしょ)の脚(きゃく)を翻(ひるが)えし
松風忽作瀉時声: 松風(しょうふう)忽(たちま)ち瀉時(しゃじ)の声を作(な)す
枯腸未易禁三椀: 枯腸(こちょう)未(いま)だ三椀を禁じ易(やす)からず
坐聴荒城長短更: 坐して聴く荒城(こうじょう)長短(ちょうたん)の更(こう)
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整理していたら、底には覚書が貼り付けられていました。
「海僊鐘馗之図 和久 昭和参拾年参月参日(昭和30年3月3日) □求」とあります。和久の意味は解りません。