盆休暇には、秋田市とその周辺にて水害を受けた親戚や友人宅を仏壇に焼香と共に水害見舞いを兼ねて訪ねて来ましたが、最後には友人であった保戸野窯の故平野庫太郎氏の自宅を訪ねてきました。
コロナ禍でしばしご無沙汰しており、懐かしくもあり、家族の方々もご健勝のようでした。訪問して焼香することで、長らく気にかけていた気持ちが少し楽になりました。
*平野庫太郎氏の遺作はいつも自宅に飾って愉しんでいます。いつもながらの気品のある作風には心が和みます。
本日は高村光雲の聖観音像らしき作品を紹介します。高村光雲の聖観音像(真作)は生前から母の実家に所蔵されていましたが、その作品は下記の作品です。
参考作品解説 母実家旧蔵
観音像 高村光雲刀
木彫共箱
高さ320*幅62*奥行き60*台150(六角)
母の実家では家業をたたみ売却価格を知る為に思文閣へ買取価格を打診しましたが、その時には売却を保留し、預かっている期間に痛んだ部分を思文閣に依頼して補修していただきました。
上記作品の箱書きには「昭和五年三月吉辰 帝室技藝員 従三位高村光雲刻之」とあり、1929年、77歳の作であると推定されます。
その後当方では4点ほどの高村光雲作の作品を入手していますが、それらの作品はすでに本ブログにて紹介されています。
本日は新たに入手した「聖観音像」ですが、この作品は珍しく大きな作品となりますが、上記の作の前年の作となります。
聖観音像(その2 大) 高村光雲刀 その5
木彫 共箱(昭和6年)
高さ484*幅171*奥行(未測定)
観音像に代表される仏教彫刻は初期から晩年まで高村光雲の生涯を通して造像されていますが、一方では光雲が開拓したと言われる近代的な動物彫刻は絶対数が少なく、大正末年以降にはほとんどありません。
逆に古典や歴史上の人物を主題にした作品は大正期以降多くなること等が一つの傾向として窺えるようです。
光雲の作品は、その全てが注文制作とされていますが、光雲の名声が上がるにつれて、作品の製作依頼が多くなり、吉祥的な主題の彫刻や現世利益的な観音など仏教彫刻の制作が増加していった可能性が考えられます。
木彫の技術と表現に着目して、複数の作例がある仁王像、観音立像、翁舞、壽老舞などを見ると、「光雲」刻銘や光雲自身の箱書など真作である条件が揃っていても、同一作家の手になるとは思えないほどの大きな差異が認められる場合があります。
これは高村光雲が、光太郎や門弟たちの生活費を得る目的で、また善光寺の仁王像など大作造像のために工房制作や代作を行っていたことによるようですが、この詳細は子息の豊周の文章にも紹介されています。
光太郎が伝えるところによると、門弟が光雲に無断で光雲作として世に出した作品もあるようです。そのようなことがあっても、大らかな性格の光雲は、作品の善し悪しは歴史が判断するだろうと大様に構えていたそうです。
高村光雲にはこのように制作された作品の方がむしろ多く、最初から最後まで光雲一人の手になった作品は、光太郎によれば「一生涯かかつて五十點位なものであらう」(「回想録」)ということですから、驚きですね。
現在となっては、多くの場合光雲個人の作品と門弟たちの手が加わっている作品とを厳密に区別するのは非常に困難であり、明らかに光雲門人の手が入っていると思われる作品も見受けられますが、それらも光雲の刻銘と箱書を有しています。
光雲の刻銘、あるいは箱書には、「高村光雲」と「高邨光雲」の二例があります。「村」と「邨」とがどのように使い分けられていたのか、現時点では断定できないそうですが、「邨」は個人制作の作品、「村」は門弟の手が加わった作品である可能性もあるということ(高村規氏の示教)です。ただしその信憑性はおそらく不確かなのでしょう。
光雲の作風展開を検討する上でも、刻銘・箱書の検討は、今後の研究課題とされています。
江戸時代以前には、彫刻だけでなく絵画等でもこうしたことは当然のこととして行われたおり、研究者は個人制作と工房制作との峻別に研究者は精力を注いだのですが、作家個人の存在が確立したいわゆる近代作家と光雲を対比して研究しようとすると、工房制作・共同制作の問題の前で大きな違和感を感ぜざるをえません。しかし、前近代的な世界で生まれ育ち、前近代的な職人であることを否定しなかったと同時に、近代的な作家でもあろうとしたのが高村光雲ではなかったかと思われます。光雲自身の中に「前近代」と「近代」とが分かち難く存在していると考えられています。
個人の創造を第一義に反抗を続けた長男光太郎に晩年まで並々ならぬ愛情を注ぎ続け、また西洋彫刻の制作法を木彫に取り入れようとした門人米原雲海らにも寛容な態度をとり続けたという光雲のありようからは、西洋画の写実表現を彫刻にも取り入れようとして実物写生に励み、また工部美術学校で行われていた西洋彫刻を憧れた光雲、米原雲海らとともに善光寺山門の丈六仁王像を共同制作した駒込吉祥寺境内の工場にモダンなデザイン椅子を持ち込んだという複雑な過度期における近代彫刻人としての高村光雲の姿が浮かび上がってきます。
門弟たちの生活を支えるために毎日注文仕事をこなす光雲、パリから帰国した光太郎に銅像会社設立を持ちかける光雲、肖像彫刻の原型を光太郎に制作させる光雲、門弟との合作に「光雲刻之」の銘を入れる光雲、これらすべてが前近代的な世界を生きる過度期のおける光雲の姿なのでしょう。
このどちらか一方のみが光雲の実像ではなく、相矛盾して見える二面性をあわせ持った存在、それが高村光雲という人物と評価されています。このことを私たちは一度素直に受け入れた上で、大きな振幅を見せる光雲銘の作品を改めて見直すことが必要なのかもしれませんね。
*真作はまずは額の上の仏像が丁寧に彫られているかどうかがポイントになります。
本作品の刻銘に違和感がありませんが、花押のある作品は初めて見ました。
箱書きは
「昭和6年8月吉日 帝室技芸員 従三位高村光雲造之
押印 白文朱方印「光雲臣印」 朱文白方印「□□」 とあります。
偽物はぱっと見た時、顔立ちは美しく見えるが細部の彫りが粗いとされます。指先などがまるで鉈で切り落としたように直角のようになっていたり、本来光雲がするはずがない彫で分かるようです。手足の指の表現にて大方の真贋の区別がつくとか・・・。また刻銘や箱書きの書体が贋作では全く違い、特に彫銘に横山一夢のように色が付いていることは真作でないとか・・・。
なんでも鑑定団にて「署名に通常の「村」ではなく「邨」の字を使っているが、これは工房作ではなく、すべて光雲が手掛けで完成させたということ。」と述べていますが、前述のよういこれはまだ断定されていないように思われます。
本作品のように銘に花押が刻まれている作品は特に稀有で、今後の検証が必要でしょう。
*以上の前述までの考察はすべて素人の推察ですのであくまでも参考としてください。
共布や花押、この大きさ…、非常に珍しい作品と言えるように思われます。共布?に印章は洗ったのでしょうか? 明確ではありませんね。共箱の印章は下記写真(右)のとおりです。
繊細な作品はガラスケースに入れて展示することになります。
保管箱は綿などにて充填し、衝撃に対して作品が破損しないようにしておきましょう。冒頭の叔父の作品のように毀れると厄介です。
共箱自体も風呂敷で包んでおきます。
よく彫刻の作品にはあるべき共箱がない場合があります。飾っておく間に、箱を忘れてしまったり、所蔵者が無くなったりしていることが多いのでしょう。共箱は大切にしておきましょう。
小生にとっては友人の作品も同様に大事な作品です。