夜噺骨董談義

収集品、自分で作ったもの、見せていただいた品々などを題材に感想談など

全く別のルートから同時入手した同時期の作品 「晩秋」と「山麓の冬」 福田豊四郎筆 その153・154

2023-12-20 00:41:00 | 掛け軸
展示室の収納庫もそろそろ作品で手一杯となってきています。帰省に際しては資料作成が完了した作品であまり今後入手を検討していない作品は男の隠れ家の収納としています。今回の帰省でもそのような作品を数多く移動することにしました。



さて本日の作品紹介です。郷里出身の画家で父母らと交流のあった福田豊四郎の作品を蒐集対象としている当方の入手ルートは様々です。地元の骨董店をメインとしながら、入札会やインターネットオークションをも情報源にしてそこからも入手しており、すでに150作品を超える作品を蒐集しており、制作年代も初期から晩年まわたっています。むろん大作などの作品は少なく、小点を中心とした値段もお手頃な作品がほとんどであり、状態が良くないものも入手しています。今回はインターネットオークションと地元の骨董店から入した2作品を紹介します。



まずはインターネットオークションからの入手した作品ですが、入手時は状態が良くなかったので、上記写真のように改装しています。下記の写真は改装前です。



晩秋 福田豊四郎筆 その153
西武百貨店取り扱いシール 絹本水墨淡彩軸装 軸先象牙 共箱二重箱
全体サイズ:横450*縦2016 画サイズ:横325*縦1147

 

掛け軸は年数を経ると必ず痛んできます。シワやシミの発生はいくら気をつけていても、時間の差はあれども、遅かれ早かれ掛け軸は改装を必要とする時期がきます。


これらの写真は入手したばかりの作品ですが、うすいシミが発せしており、そろそろ改装を必要とするレベルにきていました。



描いた時期は昭和20年代頃でしょうから、すでに80年くらい経ている作品です。長らく飾っておいたようで、痛みはわりと早いほうかもしれません。



初期の作品ですが、出所が解る二重箱の共箱誂えとなっている作品でその意味でも貴重です。またちょっと稚拙な感じをするこの頃の作品が好きがという方も少なからず存在します。

  


  

改装と共に誂えもきちんとしておきました。題字カバーや桐箱と二重箱以外に紙タトウを誂えるのも保存には有効かと思います。

*西武百貨店のシールがありますが、福田豊四郎の生前から昭和までは数十万円で売られていたようです。今ではこの頃の作品は数万円で入手できます。



保存の際に巻きシワとならないようにするには、掛け軸の適度な巻き方や無理に箱の押し込めないということが肝要となりますね。

 

次は地元の骨董店から入手した作品です。前述の「晩秋」と同時期の初期に描いたと思われる作品です。



山麓の冬 福田豊四郎筆 その154
紙本水墨淡彩軸装 軸先骨 共箱
全体サイズ:横558*縦2200 画サイズ:横430*縦1338



この作品もうすシミが発生してきており、改装が必要な時期にきています。



福田豊四郎は京都での修行時代でも故郷に景色を多く描いていたようです。



福田豊四郎は15歳で画家を志し、京都に出て洋画家・鹿子木孟郎にデッサンを学び、その後縁のある日本画家・川端龍子の作品に感銘を受け、1921年(大正10年)東京で弟子入りするも、師に勧められ一年余で再び京都へ移り、日本画家・土田麦僊に師事しています。

翌1924年(大正13)第4回国画創作協会展(国展)初入選し、同協会は師・麦僊らが文展の審査に不満を持って結成した革新的な団体であり、豊四郎は以後1928年(昭和3年)の同協会解散まで出品を続けました。

1925年(大正14年)京都市立絵画専門学校(現・京都市立芸術大学)入学、1928年卒業。同年、国画創作協会第一部(日本画部門)が解散すると、それまで国展を拠り所に出品を続けてきた若い画家たちのため、麦僊が後ろ盾となって「新樹社」が設立されますが、第2回展を開いたのち同団体は消滅しています。豊四郎は再び東京に戻り、川端龍子が樹立した「青龍社」に参加しますが、1933年(昭和8年)同社が反官展を表明したのを機に脱退しています。

1930年(昭和5年)26歳の若さで第11回帝展の特選を受賞した際、同じ特選受賞者で新進気鋭の日本画家、小松均と吉岡堅二に出会います。

3人は1934年(昭和9年)「山樹社」を結成。当時の日本画壇を代表する作家たちの作品に不満を持ったことと、里見勝蔵、長谷川三郎、宮本三郎ら、当時前衛と呼ばれた若い洋画家たちとの交流が同社の結成に影響しています。その後、日本画家・岩橋英遠らを加えた14名で「新日本画研究会」を結成。さらに同会を拡大する形で1938年(昭和13年)「新美術人協会」を発足、これは新日本画を志す有力団体として戦後1947年(昭和22年)まで続きました。

この作品は上記の大正期から昭和初期の作と推定しています。



一般に落款に「生」に字を添えるのは修行時代を意図することが多いようです。


  

同じ印章を用いてる2作品、今では入手の難しい大正期ら昭和初期にかけての作品です。


























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