夜噺骨董談義

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裸婦(スケッチ) 伊勢正義筆 1945年

2024-02-23 00:01:00 | 洋画
本日は、郷里出身の画家の一人で本ブログに数点の作品を紹介している伊勢正義のスケッチの作品の紹介です。



裸婦(スケッチ) 伊勢正義筆 1945年 
紙本鉛筆 額装 
画サイズ:横323*縦383



伊勢正義がまだ若い頃に描いた裸婦の油彩画が郷里のアトリエの遺っていました。当方は同郷の縁でその作品を所蔵していますが、伊勢正義の裸婦を描いた作品は非常に珍しいと思います。当方にはわずかに他に一点のみ裸婦の作品を所蔵しています。

描かれたのは1945年、つまり昭和20年という終戦の年です。終戦直後の状況下で裸婦を描いたという意味合いはなにかあるのかもしれませんね。これからは好きな画題の絵が描けるという思いかも知れません。



38歳の時の作品です。あまり知られていませんが、伊勢正義は若い頃から裸婦の作品を描いていたようです。そして戦前の混乱期、また画壇が紛糾していた時代に製作活動を続けたいた画家のひとりです。



この作品からもうかがえるように優れたデッサン力の持ち主といえるでしょう。梅原龍三郎、藤田嗣治もそうであったように優れたデッサン力が優れた作品を遺すようです。



1945年(昭和20年)に描いて1955年(昭和30年)に寄贈したものと推定されます。当時は下落合に住んでいた・・・??

なお昭和20年3月10日の東京大空襲の後、藤田嗣治氏と新制作派協会の5人の画家(猪熊弦一郎、佐藤敬、脇田和、荻須高徳、中西利雄)とともに神奈川県津久井郡藤野町(現神奈川県相模原市緑区)に疎開しています。



額を改装しましたが、このような来歴のある板は額内に保管しておきます。



年代の分かる資料は郷里のとって貴重な作品ですね。



あらためて伊勢正義の画歴は下記のとおりです。

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伊勢正義:1907-1985 昭和時代の洋画家。明治40年2月28日生まれ。藤島武二に師事。光風会展や帝展,第二部会展で受賞。

昭和11年猪熊弦一郎,小磯良平らと新制作派協会(現新制作協会)を結成。戦後も同協会で活躍。昭和60年11月18日死去。78歳。

秋田県小坂町出身。東京美術学校(現東京芸大)卒。作品に「バルコン」「キャバレー」など。

明治40(1907)年2月28日秋田県鹿角郡(大館市白沢)に生まれる。転勤の多かった父に伴い、各地を転々としたが、少年時代を小坂町で過ごした。当時の小坂町は鉱山の最盛期で、秋田県で北辺の土地でありながら、中央から直接文化が流れ込み、近代的・都会的な雰囲気が満ち溢れていた。演劇などの文化活動も盛んに行われ、芸術方面の関心が高い町だったと思われる。伊勢正義と同じく日本画家の福田豊四郎(1904年~1970年)も同郷である。
 
昭和6年東京美術学校西洋画科卒業。藤島武二に師事。同8年20回光風会展に「女性」他3点を出品しK夫人賞を受け、翌9年光風会会員となり、同年の15回帝展に「カルトン」が初入選する。同10年22回光風会展に「無花果のある静物」他2点を出品、最初の光風特賞を受賞した。同10年松田改組に伴う第二部会展に「集ひ」を出品し、特選、文化賞を受けたが、翌年同志と官展を離れ、同年猪熊弦一郎、佐藤敬らと新制作派協会を結成、第1回展に「バルコン」「キャバレー」を出品した。同12年日動画廊で初の個展を開催。その後新制作協会の主要メンバーとして同協会展に制作発表を行い、近年はアラブ、アフリカの生活を題材にした作品で知られていた。また、日本貝類学会会員、国際教育振興会理事でもあった。

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戦前の混乱期、また画壇の紛糾していた時代に気品のある製作を続けていた画家であり、今改めて見直すべき洋画家のひとりと言えるでしょう。



著名な画家の作品を蒐集するのもひとつの蒐集のありかた、郷里の画家らの作品を蒐集するのは当方の蒐集のありかた・・・。























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