台風一過・・、三時過ぎには関東では富士山が見えました。台風の被害に遭われた皆様にはお見舞いもうしあげます。
さて本日の作品は伝雪舟筆『富士三保清見寺図』の模写とも思われます。釧雲泉より100年前、狩野探幽をはじめとする狩野派によって模写が多く描かれていた。本作品は釧雲泉による真筆か否かは不明ですが、興味深い作品には相違ありません。
富士三保清見寺図:伝雪舟筆『富士三保清見寺図』について
この絵は,江戸時代に古典としての価値をもち,多数の写しがつくられ,風景を描く典型的構図のひとつとして広く流布しています。画面右上に「雪舟筆」の署名と「等楊」の印があるものの、筆使いの遅滞などから、雪舟自身が描いた原画ではなく、雪舟の活躍期に近い室町時代に写された模本と考えられています。しかし、原画の図様はかなり忠実に伝えられていると考えられ、原作の現存例がきわめて乏しい雪舟の絵画のなかにあって、雪舟の描いた富士図に最も近い富士図として、雪舟研究において非常に重要な作品と位置づけられています。
中央遠景に富士山を描き,左近景に清見寺,右中景に三保の松原を描く。中央下端に見える集落が興津地区であると考えられています。この絵に描かれた眺めは,当然興津からの景観ではないが,興津の場所を伝えるのにはきわめてわかりやすいものとなっています。実際にこの絵の景観を得られる場所は,現在日本平と呼ばれているところと推定されています。
この絵のオリジナルを描いたはずの雪舟は,実際にこの景観を目にしていた可能性がかなり高いと思われています。観念的な理想の風景として海と山を描き,その奥にそびえる蓬莱山のような構図を定型とする山水画の世界にあって,実景としての海と山と松原が,これほどまでに観念的な構図と一致する場所はきわめて稀だからです。松のようなディテールや,山水の点景として添えられる寺院までが一致し、実際の景観が理想的な山水として,構図が完成しています。
『富士三保清見寺図』は江戸時代に多数の模写が作成されており、狩野安信や狩野探幽らによる16例があります。
参考作品 富士山図
1667年作(寛文7)狩野探幽筆(1714~1777)
静岡県立美術館蔵 絹本水墨淡彩 縦566*横1184
カメラがなく,印刷技術の乏しい時代に,多くの模写が描かれたということは,この絵の「型」が,強く魅力を持っていたことを示しているし,また実景もしくはオリジナルの絵を目にしたことのない人にもこの絵の構図や景物,さらにいえばその立地や形態が広く伝播したことを物語っています。この絵の構図や景物が単なる模写されるものとしての名作であることを超え,それらは既に了解済みのこととして,さらなる変容を促す規範となったのでしょう。なかでも狩野探幽による『富士山図』は,江戸幕府奥絵師として大きな影響力を持った狩野派の中心的絵師の作となっています。
『富士三保清見寺図』は雪舟の弟子である秋月が明に持参して、仲和から賛を得て、それを秋月がソックリ写して日本に持ち帰ったものとの記録が伝えられています。また、本来は京都・妙心寺にあった作品が何らかの事情で細川家に渡り、細川家が表具屋に表装に出した作品を画工・春朴が密かに摸本しており、木村探元が日記に両方を見比べたと書き残していています。さらに表具屋がその写しを細川家に差し替え納めたらしい形跡があります。複雑なのは、後年、清見寺の貫主が細川家にその図があることを知り、写しを寺宝にしたいと願い出て細川家お抱え絵師に描かせたものが現在まで残っていますが、両図を比較すると極めて差異が大きいということです。
参考作品 富士清見寺図
安永3年(1774)作 矢野雪叟筆(1714~1777)
絹本水墨 縦477*横1013
本図は、「三保清見寺図」永青文庫蔵 雪舟筆を、ほぼ原寸大に臨模したものであり、また賛は、草野草雲が同じく写したものです。雪叟の雪舟研究の在り方と、技倆をうかがわせる貴重な一幅です。
江戸時代以降の「富嶽(富士)」の作品は今日まで、伝雪舟筆『富士三保清見寺図』の作品の影響を強く受けています。このようなことを知っている人は非常にまた少ないと思います。
そこで本作品ですが、どの作品を模写したかは不明ですが、伝雪舟筆『富士三保清見寺図』に基づいた臨写であることには相違ないでしょう。釧雲泉が生存中にはかなりの数の他の画家による臨写(模写)が出回っていたことでしょう。
富嶽図 釧雲泉筆
絹本水墨軸装 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦1450*横902 画サイズ:縦518*横815
南画家が雪舟の画を模写したというのは聞いたことがありませんが、狩野芳崖には模写の作品があります。模写だからといって、一概にこれは釧雲泉の作品ではないと言い切れません。
観ていると伝雪舟筆『富士三保清見寺図』の作品を、釧雲泉なりに昇華しているようにも思えます。
賛否両論があろうかと思いますが、さて本ブログに読者はいかがに考えますか?
さて本日の作品は伝雪舟筆『富士三保清見寺図』の模写とも思われます。釧雲泉より100年前、狩野探幽をはじめとする狩野派によって模写が多く描かれていた。本作品は釧雲泉による真筆か否かは不明ですが、興味深い作品には相違ありません。
富士三保清見寺図:伝雪舟筆『富士三保清見寺図』について
この絵は,江戸時代に古典としての価値をもち,多数の写しがつくられ,風景を描く典型的構図のひとつとして広く流布しています。画面右上に「雪舟筆」の署名と「等楊」の印があるものの、筆使いの遅滞などから、雪舟自身が描いた原画ではなく、雪舟の活躍期に近い室町時代に写された模本と考えられています。しかし、原画の図様はかなり忠実に伝えられていると考えられ、原作の現存例がきわめて乏しい雪舟の絵画のなかにあって、雪舟の描いた富士図に最も近い富士図として、雪舟研究において非常に重要な作品と位置づけられています。
中央遠景に富士山を描き,左近景に清見寺,右中景に三保の松原を描く。中央下端に見える集落が興津地区であると考えられています。この絵に描かれた眺めは,当然興津からの景観ではないが,興津の場所を伝えるのにはきわめてわかりやすいものとなっています。実際にこの絵の景観を得られる場所は,現在日本平と呼ばれているところと推定されています。
この絵のオリジナルを描いたはずの雪舟は,実際にこの景観を目にしていた可能性がかなり高いと思われています。観念的な理想の風景として海と山を描き,その奥にそびえる蓬莱山のような構図を定型とする山水画の世界にあって,実景としての海と山と松原が,これほどまでに観念的な構図と一致する場所はきわめて稀だからです。松のようなディテールや,山水の点景として添えられる寺院までが一致し、実際の景観が理想的な山水として,構図が完成しています。
『富士三保清見寺図』は江戸時代に多数の模写が作成されており、狩野安信や狩野探幽らによる16例があります。
参考作品 富士山図
1667年作(寛文7)狩野探幽筆(1714~1777)
静岡県立美術館蔵 絹本水墨淡彩 縦566*横1184
カメラがなく,印刷技術の乏しい時代に,多くの模写が描かれたということは,この絵の「型」が,強く魅力を持っていたことを示しているし,また実景もしくはオリジナルの絵を目にしたことのない人にもこの絵の構図や景物,さらにいえばその立地や形態が広く伝播したことを物語っています。この絵の構図や景物が単なる模写されるものとしての名作であることを超え,それらは既に了解済みのこととして,さらなる変容を促す規範となったのでしょう。なかでも狩野探幽による『富士山図』は,江戸幕府奥絵師として大きな影響力を持った狩野派の中心的絵師の作となっています。
『富士三保清見寺図』は雪舟の弟子である秋月が明に持参して、仲和から賛を得て、それを秋月がソックリ写して日本に持ち帰ったものとの記録が伝えられています。また、本来は京都・妙心寺にあった作品が何らかの事情で細川家に渡り、細川家が表具屋に表装に出した作品を画工・春朴が密かに摸本しており、木村探元が日記に両方を見比べたと書き残していています。さらに表具屋がその写しを細川家に差し替え納めたらしい形跡があります。複雑なのは、後年、清見寺の貫主が細川家にその図があることを知り、写しを寺宝にしたいと願い出て細川家お抱え絵師に描かせたものが現在まで残っていますが、両図を比較すると極めて差異が大きいということです。
参考作品 富士清見寺図
安永3年(1774)作 矢野雪叟筆(1714~1777)
絹本水墨 縦477*横1013
本図は、「三保清見寺図」永青文庫蔵 雪舟筆を、ほぼ原寸大に臨模したものであり、また賛は、草野草雲が同じく写したものです。雪叟の雪舟研究の在り方と、技倆をうかがわせる貴重な一幅です。
江戸時代以降の「富嶽(富士)」の作品は今日まで、伝雪舟筆『富士三保清見寺図』の作品の影響を強く受けています。このようなことを知っている人は非常にまた少ないと思います。
そこで本作品ですが、どの作品を模写したかは不明ですが、伝雪舟筆『富士三保清見寺図』に基づいた臨写であることには相違ないでしょう。釧雲泉が生存中にはかなりの数の他の画家による臨写(模写)が出回っていたことでしょう。
富嶽図 釧雲泉筆
絹本水墨軸装 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦1450*横902 画サイズ:縦518*横815
南画家が雪舟の画を模写したというのは聞いたことがありませんが、狩野芳崖には模写の作品があります。模写だからといって、一概にこれは釧雲泉の作品ではないと言い切れません。
観ていると伝雪舟筆『富士三保清見寺図』の作品を、釧雲泉なりに昇華しているようにも思えます。
賛否両論があろうかと思いますが、さて本ブログに読者はいかがに考えますか?