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果てさてまたまたトラブル発生・・今回はより深刻。そのため急遽出張につき、時間外の投稿となります。
豆皿の特集の雑誌太陽「豆皿・小皿1000」を眺めてたら、三田青磁という焼きものが割と多いの気になり、ひとつ買ってみようという気になり、本作品を購入しました。
豆皿のついては以前本ブログで伊香保温泉の竹久夢二記念館でのコレクションを話題にしたことがありました。
豆皿は九谷やふくら雀を投稿したことがあります。これらも雑誌に掲載されていました。
調べてみると以前投稿した奥田頴川も関係していることもあり、なかなか面白そうです。
三田青磁陽刻鹿文様四角小皿2枚
全体サイズ:縦100*横100*高さ23
全体サイズ:縦90*横90*高さ18
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三田青磁の代表的な陽刻鹿文様四角小皿です。表現されているのは中央に鹿、そして周囲には花卉と周囲の文字は「天之美禄(也)」。『漢書』食貨志の「酒者、天之美禄、帝王所以頤養天下、享祀祈福、扶衰養疾」から出た言葉で、天からのすばらしい授かりもの。酒の異名。
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鹿は古くより、神に仕える霊獣、長寿の象徴とされています。縁起の良い絵柄ということで現在の陶磁器にも用いられている文様です。
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この手の皿はわりとたくさん存在し、値段も様々です。評価金額は様々ですが、彫がよく、文様がしっかりしているものが、評価が高いようです。
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三田焼:兵庫県三田市三田の青磁。寛政(1789-1801)初年、三田の豪商神田惣兵衛は陶工内田忠兵衛(志手原窯小西金兵衛の弟子)の青磁焼成の悲願にほだされ巨額の資金を投じて陶業を助けることになり、天狗ヶ鼻に窯を築いました。これが三田焼の起こりであります。
惣兵衛は青磁研究のために忠兵衛を有田に遣わし、有田から陶工太一郎・定次郎を招いました。1801年(享和元)忠兵衛は香下村砥石谷において青磁の原石を発見し、文化(1804-18)初年には青磁の試焼に成功しました。
1810年(文化七)惣兵衛は京都の奥田頴川に指導を受け、その弟子の欽古堂亀祐を迎え、いよいよ青磁の製作は本格的になりました。
文化・文政年間(1804-30)は三田青磁の最盛期でありました。しかし1827年(文政一〇)頃には亀祐が京都に帰り、1829年(同一二)に惣兵衛が没するに及んで、以来三田窯は次第に衰順に傾いました。天保年間(1830-44)には向井喜太夫がこれを譲り受け、安政{1854-六〇}頃には田中利右衛門がこれを継いだが業績振わず、明治になつて三田陶器会社が設立され、1889年(明治二二)にはその出資者の一大芝虎山がこれに専念しました。
1922年(大正一回虎山の没後、有志が相寄って一窯焼いたのを最後に三田窯の煙はまったく絶えました。青磁の上がりは天竜寺手調で、亀祐来窯以後細工物にも秀作が生まれた。種類には、香炉・茶器・花器・皿・鉢・文具、大物・動物置物などがあります。また呉須手写しも焼いています。
粋な酒の肴を皿に盛り、粋な徳利・盃で一献・・おっと病み上がり
豆皿の特集の雑誌太陽「豆皿・小皿1000」を眺めてたら、三田青磁という焼きものが割と多いの気になり、ひとつ買ってみようという気になり、本作品を購入しました。
豆皿のついては以前本ブログで伊香保温泉の竹久夢二記念館でのコレクションを話題にしたことがありました。
豆皿は九谷やふくら雀を投稿したことがあります。これらも雑誌に掲載されていました。
調べてみると以前投稿した奥田頴川も関係していることもあり、なかなか面白そうです。
三田青磁陽刻鹿文様四角小皿2枚
全体サイズ:縦100*横100*高さ23
全体サイズ:縦90*横90*高さ18
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三田青磁の代表的な陽刻鹿文様四角小皿です。表現されているのは中央に鹿、そして周囲には花卉と周囲の文字は「天之美禄(也)」。『漢書』食貨志の「酒者、天之美禄、帝王所以頤養天下、享祀祈福、扶衰養疾」から出た言葉で、天からのすばらしい授かりもの。酒の異名。
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鹿は古くより、神に仕える霊獣、長寿の象徴とされています。縁起の良い絵柄ということで現在の陶磁器にも用いられている文様です。
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この手の皿はわりとたくさん存在し、値段も様々です。評価金額は様々ですが、彫がよく、文様がしっかりしているものが、評価が高いようです。
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三田焼:兵庫県三田市三田の青磁。寛政(1789-1801)初年、三田の豪商神田惣兵衛は陶工内田忠兵衛(志手原窯小西金兵衛の弟子)の青磁焼成の悲願にほだされ巨額の資金を投じて陶業を助けることになり、天狗ヶ鼻に窯を築いました。これが三田焼の起こりであります。
惣兵衛は青磁研究のために忠兵衛を有田に遣わし、有田から陶工太一郎・定次郎を招いました。1801年(享和元)忠兵衛は香下村砥石谷において青磁の原石を発見し、文化(1804-18)初年には青磁の試焼に成功しました。
1810年(文化七)惣兵衛は京都の奥田頴川に指導を受け、その弟子の欽古堂亀祐を迎え、いよいよ青磁の製作は本格的になりました。
文化・文政年間(1804-30)は三田青磁の最盛期でありました。しかし1827年(文政一〇)頃には亀祐が京都に帰り、1829年(同一二)に惣兵衛が没するに及んで、以来三田窯は次第に衰順に傾いました。天保年間(1830-44)には向井喜太夫がこれを譲り受け、安政{1854-六〇}頃には田中利右衛門がこれを継いだが業績振わず、明治になつて三田陶器会社が設立され、1889年(明治二二)にはその出資者の一大芝虎山がこれに専念しました。
1922年(大正一回虎山の没後、有志が相寄って一窯焼いたのを最後に三田窯の煙はまったく絶えました。青磁の上がりは天竜寺手調で、亀祐来窯以後細工物にも秀作が生まれた。種類には、香炉・茶器・花器・皿・鉢・文具、大物・動物置物などがあります。また呉須手写しも焼いています。
粋な酒の肴を皿に盛り、粋な徳利・盃で一献・・おっと病み上がり
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三田青磁ですか、いいですね。
一般に 青磁というと上品な趣が強いですが、これにはそこに親しみ安さも加味されて、
(否、逆に親しみの中にも上品さがあるという方がより正確かもしれませんが)用の美としての存在感が心地よいですね。
う~ん、これを見ていて私も一杯やりたくなりました。ところで肴は何にいたしましょう。
あれやこれやと十品位・・・
しかし、なんとまあ残念、私は下戸なのです!
まったく「下戸の肴荒らし」といったところでしょうか(笑)ではまた。
でも青磁はどうも苦手ですね。目利きにまったく自信がありません。少しずつ勉強していきます。