
朝からぶらりと旅に出ます・・。
本作品の題名は賛にありますように「春塘楽事」としました。直訳すると「春の沼地で事を楽しむ」という意味ですが、釣りを楽しむのか、春の花を楽しむのか、いずれ春ののどかな風景を思い起こさせる作品です。
田崎草雲は以前にも二度ほど投稿した作品がありますが、国外での評価が高い画家です。

特に富士の絵は著名で非常に高い評価を受けております。以前に投稿した作品を参考にして下さい。
春塘楽事 浅絳山水図 田崎草雲筆
紙本淡彩軸装 軸先牙軸
全体サイズ:縦2110*横450 画サイズ:縦1385*横335
本作品は草雲の山水画のなかでも優品といえる作品のように思われます。「浅絳山水図」については以前の投稿で説明しておりますので参考にしてください。
賛は「草雲匠人写 於七里香草堂中」とあります。「於七里香草堂中」に意味については不明ですので、後学といたします。
印章は白文方印「草雲氏」、および白文方印「田跂芸印」が押印されています。他の作品と印の違いがあるようですが、同じ文字の他の印章が存在すると思われます。

以下はインターネットからの説明と本作品の部分写真です。なかなか面白い経歴の画家です。
田崎草雲:文化12(1815)年10月15日に、江戸神田小川町足利藩邸内にて生まれる。幼い頃から親戚の金井烏洲に絵画の手ほどきを受け、20歳のときに藩士をやめて谷文晁・渡辺崋山らの画風を学んだ。
嘉永6(1853)年には、足利藩の絵師になっています。一方で、草雲は志士たちと交友を深め、尊王の志を強くし、幕末・維新の動乱期には誠心隊という民兵組織を結成し治安維持にあたり、足利を戦火から守った。
明治11(1878)年には、蓮岱寺山〔現:足利公園内〕に白石山房を建て、山水・花鳥・人物など様々な作品を描いた。草雲の描く作品は、国内外で高い評価を受け、数々の賞を受賞。また、明治23(1890)年には、芸術家にとって最も名誉ある帝室技芸員に、橋本雅邦らとともに選ばれた。
明治31(1898)年、84歳没。名は芸(うん)。字は草雲。弟子に小室翠雲がいる。司馬遼太郎の短編「喧嘩草雲」のモデル。

前半生においては、南画の師である谷文晁や先輩の渡辺崋山亡き後、書画会における草雲の評価は低かったとされる。草雲は文晁を畏敬はしたが、真似る事を恐れておりこれが巨星なきあとの画壇の風潮と合わなかったと見る事ができる。また、周囲の南画の技術革新も進まなかったのが不遇時代を長くさせる要因となった。しかし、この時期に写実のため本草学も学ぶという熱心さが彼のプロ意識の高さを物語っている。凧の絵や浮世絵を書いたりして世渡りをする一方で、本分においては己の節は曲げないという江戸っ子としての「意地」の部分が草雲を大成させたと言える。

大島萬世によれば、草雲が出品した展覧会で、金牌なしで銀牌2名(うち1名が草雲)となることが立て続けに起き、これを、地方在住者である自身へのあてつけと考え、以後、中央画壇と断絶した。しかし、白石山房を訪れる人物を、会わずに追い返すことは決してしなかった。もっとも、白石山房には、常に「草雲は不在」という札が掲げられていたため、事情を知る知人や出入りの商人以外はあまり出入りしなかった。帝室技芸員を拝命する際も、当初、地方在住者であるという理由で固辞し、担当者が必死に説得したという。これについては、帝室技芸員になると、東京に通勤しなければならないと草雲が勘違いしていたためという説もある。

草雲という字名は、本名の芸(うん)を二字に分けたものといわれる。
幼少より絵と同様に武術も好み、6尺(約180cm)近い草雲は剣術や柔術に巧みであったという。書画会においては、己の絵を貶す相手には拳骨で殴りつけて「あばれ梅渓」のあだ名をもらったとされる。
郡司信夫の「ボクシング100年」や加来耕三「日本格闘技おもしろ史話」の記述によれば1854年、横浜に遊んだときにボクシングを使うアメリカ軍水兵と喧嘩になり体落としで相手を倒しているが、記録に残っている限りで、これが近代日本における異種格闘技戦の第1号とされる。

この事件は富田常雄の「姿三四郎」における柔道とボクシングの格闘場面のモデルとされているが、原典の記述は草雲の通称や柔術の流派が通説と大きく食い違うとされ、疑問を呈する研究者もいる。
また、山水画の研究のために旅行を繰り返した。国定忠治と会ったことのある人物による唯一の肖像画は、草雲のものである。ただし、この肖像画は、忠治の没後に草雲が思い出しながら描いたものであるとされる(作家の丸谷才一はこの動機を「ファン心理」と分析している)。剣客・博徒との交際も深く中山道の大親分の信濃屋喜兵衛留書によると、甲州では博徒の竹居安五郎宅に宿泊するなど「亦諸国貸元親分衆に詳しきもの」とされる。

先日テレビで曽我蕭白のボストン美術館の展覧会が東京国立博物館で開催されるにあたり、日本の美の象徴のように紹介されていました。さぞまた混雑するのかと思うと、あまり行く気にはなれません。少しは勉強された方々が見学に来ているといいのですが、無知な方ほど見学時間が長いのはどうしたことでしょうか?
曽我蕭白を「日本の美の伝統」の系譜と称するには異論はありませんが、ちょっと特別の画家のようなに思います。本来、日本の水墨画は南画、四条派、狩野派を主流として伝えられてきました。ここを知った上で、曽我蕭白、伊藤若冲を観るから「これはすごい」と思うのであろうかと思います。
日本人はもっと日本の文化を知らなくてはなりません。日本人ほど日本の文化に無知な国民はいないと言われています。本作品なども日本画の伝統を良く伝えている作品のひとつです。本ブログが少しでも参考になればいいかと思っています。
本作品の題名は賛にありますように「春塘楽事」としました。直訳すると「春の沼地で事を楽しむ」という意味ですが、釣りを楽しむのか、春の花を楽しむのか、いずれ春ののどかな風景を思い起こさせる作品です。
田崎草雲は以前にも二度ほど投稿した作品がありますが、国外での評価が高い画家です。

特に富士の絵は著名で非常に高い評価を受けております。以前に投稿した作品を参考にして下さい。
春塘楽事 浅絳山水図 田崎草雲筆
紙本淡彩軸装 軸先牙軸
全体サイズ:縦2110*横450 画サイズ:縦1385*横335
本作品は草雲の山水画のなかでも優品といえる作品のように思われます。「浅絳山水図」については以前の投稿で説明しておりますので参考にしてください。
賛は「草雲匠人写 於七里香草堂中」とあります。「於七里香草堂中」に意味については不明ですので、後学といたします。

印章は白文方印「草雲氏」、および白文方印「田跂芸印」が押印されています。他の作品と印の違いがあるようですが、同じ文字の他の印章が存在すると思われます。


以下はインターネットからの説明と本作品の部分写真です。なかなか面白い経歴の画家です。
田崎草雲:文化12(1815)年10月15日に、江戸神田小川町足利藩邸内にて生まれる。幼い頃から親戚の金井烏洲に絵画の手ほどきを受け、20歳のときに藩士をやめて谷文晁・渡辺崋山らの画風を学んだ。
嘉永6(1853)年には、足利藩の絵師になっています。一方で、草雲は志士たちと交友を深め、尊王の志を強くし、幕末・維新の動乱期には誠心隊という民兵組織を結成し治安維持にあたり、足利を戦火から守った。
明治11(1878)年には、蓮岱寺山〔現:足利公園内〕に白石山房を建て、山水・花鳥・人物など様々な作品を描いた。草雲の描く作品は、国内外で高い評価を受け、数々の賞を受賞。また、明治23(1890)年には、芸術家にとって最も名誉ある帝室技芸員に、橋本雅邦らとともに選ばれた。
明治31(1898)年、84歳没。名は芸(うん)。字は草雲。弟子に小室翠雲がいる。司馬遼太郎の短編「喧嘩草雲」のモデル。

前半生においては、南画の師である谷文晁や先輩の渡辺崋山亡き後、書画会における草雲の評価は低かったとされる。草雲は文晁を畏敬はしたが、真似る事を恐れておりこれが巨星なきあとの画壇の風潮と合わなかったと見る事ができる。また、周囲の南画の技術革新も進まなかったのが不遇時代を長くさせる要因となった。しかし、この時期に写実のため本草学も学ぶという熱心さが彼のプロ意識の高さを物語っている。凧の絵や浮世絵を書いたりして世渡りをする一方で、本分においては己の節は曲げないという江戸っ子としての「意地」の部分が草雲を大成させたと言える。

大島萬世によれば、草雲が出品した展覧会で、金牌なしで銀牌2名(うち1名が草雲)となることが立て続けに起き、これを、地方在住者である自身へのあてつけと考え、以後、中央画壇と断絶した。しかし、白石山房を訪れる人物を、会わずに追い返すことは決してしなかった。もっとも、白石山房には、常に「草雲は不在」という札が掲げられていたため、事情を知る知人や出入りの商人以外はあまり出入りしなかった。帝室技芸員を拝命する際も、当初、地方在住者であるという理由で固辞し、担当者が必死に説得したという。これについては、帝室技芸員になると、東京に通勤しなければならないと草雲が勘違いしていたためという説もある。

草雲という字名は、本名の芸(うん)を二字に分けたものといわれる。
幼少より絵と同様に武術も好み、6尺(約180cm)近い草雲は剣術や柔術に巧みであったという。書画会においては、己の絵を貶す相手には拳骨で殴りつけて「あばれ梅渓」のあだ名をもらったとされる。
郡司信夫の「ボクシング100年」や加来耕三「日本格闘技おもしろ史話」の記述によれば1854年、横浜に遊んだときにボクシングを使うアメリカ軍水兵と喧嘩になり体落としで相手を倒しているが、記録に残っている限りで、これが近代日本における異種格闘技戦の第1号とされる。

この事件は富田常雄の「姿三四郎」における柔道とボクシングの格闘場面のモデルとされているが、原典の記述は草雲の通称や柔術の流派が通説と大きく食い違うとされ、疑問を呈する研究者もいる。
また、山水画の研究のために旅行を繰り返した。国定忠治と会ったことのある人物による唯一の肖像画は、草雲のものである。ただし、この肖像画は、忠治の没後に草雲が思い出しながら描いたものであるとされる(作家の丸谷才一はこの動機を「ファン心理」と分析している)。剣客・博徒との交際も深く中山道の大親分の信濃屋喜兵衛留書によると、甲州では博徒の竹居安五郎宅に宿泊するなど「亦諸国貸元親分衆に詳しきもの」とされる。

先日テレビで曽我蕭白のボストン美術館の展覧会が東京国立博物館で開催されるにあたり、日本の美の象徴のように紹介されていました。さぞまた混雑するのかと思うと、あまり行く気にはなれません。少しは勉強された方々が見学に来ているといいのですが、無知な方ほど見学時間が長いのはどうしたことでしょうか?
曽我蕭白を「日本の美の伝統」の系譜と称するには異論はありませんが、ちょっと特別の画家のようなに思います。本来、日本の水墨画は南画、四条派、狩野派を主流として伝えられてきました。ここを知った上で、曽我蕭白、伊藤若冲を観るから「これはすごい」と思うのであろうかと思います。
日本人はもっと日本の文化を知らなくてはなりません。日本人ほど日本の文化に無知な国民はいないと言われています。本作品なども日本画の伝統を良く伝えている作品のひとつです。本ブログが少しでも参考になればいいかと思っています。