夜噺骨董談義

収集品、自分で作ったもの、見せていただいた品々などを題材に感想談など

寛政辛酉嘉平月山水図 釧雲泉筆 寛政13年(1801年)

2024-09-06 00:01:00 | 彫刻
さすがに猛暑であった今年の夏も盆を過ぎてからは少し涼しくなってきました。残暑は油断ならないものの、秋の虫の音が聞こえてくる季節です。この過ごしやすい季節こそ骨董蒐集の季節です。

*下記写真は当方の書斎の出窓の展示作品です。陽の当たる場所に展示できる作品は陶磁器とブロンズの作品ですね。

森の王(少女と梟) 円鍔勝三作 1968年頃 その4
ブロンズ像 誂ひとみ箱
幅133*奥行115*高さ455



本日は釧雲泉の作品の紹介です。当方では初めてとなる寛政13年(1801年)に描かれた作品のようです。

ともかく通称「釧雲泉」となる作品はかなりたくさんありますが、その多くが贋作とされています。本日紹介する作品は当方では真作ではないかと推察していますが、あくまでも素人判断ですのでご了解願います。



寛政辛酉嘉平月山水図 釧雲泉筆 寛政13年(1801年)
水墨淡彩絹本軸装 軸先象牙 合箱
全体サイズ:縦1732*横462 画サイズ:縦1036*横328

 

釧雲泉は寛政3年3月(1791年)、32歳のとき十時梅厓の紹介で伊勢長島に流謫中の木村蒹葭堂を訪ねています。その後、また江戸に戻ると、予てより親交のあった備中庭瀬藩江戸家老海野蠖斎の計らいで、蠖斎の実兄で同藩家老森岡延璋(松蔭)に紹介され、備中に赴き森岡邸に身を寄せます。

同年、脱藩前の浦上玉堂や淵上旭江、梶原藍渠、後藤漆谷、長町竹石らと松林寺で賀宴を催して交流しています。その後、約3年間は倉敷を中心に旺盛な創作活動を行っています。備中長尾の小野泉蔵とも交流をもったようです。

寛政4年(1792年)頃から、備州と京都、大坂をたびたび往来し、儒学者の頼山陽、菅茶山、皆川淇園、画家の浦上春琴、浜田杏堂らと交流しており、同年6月には再び蒹葭堂を訪ねています。寛政8年以降は主に備前東部を拠点としたとみられます。寛政10年(1798年)にも蒹葭堂を訪ねています。



寛政12年(1800年)、41歳のとき備州を去り大坂に移り住んだとされています。享和元年(1801年)、また蒹葭堂を訪ねています。

*本作品は備州を去り大坂に移り住んだ頃に描かれた作品と推定されます。

その後京都に赴き、享和2年(1802年)には江戸に下向し湯島天神の裏門付近に居住します。

儒学者の亀田鵬斎、海保青陵や篆刻家の稲毛屋山、漢詩人の菊池五山、書家の巻菱湖など多くの文人墨客と交わったようです。さらにこの頃に結婚したと推測されるそうです。



「辛酉(かのとり)嘉平月(12月の異称:寛政13年は12月23日まで) 雲泉 押印(朱文白方印「雲泉」と白文朱方印「就」の累印)」と記されています。この特徴ある落款の書体は文化年間まで続き、鑑定のひとつのポイントのようです。



印章は未確認ですが、他の点からは真作と判断していいようです。







































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