
母の遺品整理から今回は下駄の第2弾です。前回は津軽塗の下駄の修理でしたが、今回は木地そのものの下駄の修理です。

どこにもありそうな下駄ですが、家内曰くは最近は「木地そのものの下駄」はあまりないらしい。

鼻緒が粋です。男物の下駄は蛇の皮です。小生も息子も巳年ゆえ早速修理しておきました。

手を付けたばかりの母の遺品ですが、これではいつまでかかるかわかりませんね。今日は母の一周忌ですので、帰郷しています。
さて本日紹介する作品は小生にとっては思い出深い白馬岳の雪渓を描いた作品です。
白馬山花畑図 山元櫻月筆
絹本着色軸装 軸先象牙 共箱二重箱(初号春汀銘)
全体サイズ:横537*縦2250 画サイズ:横418*横1335

白馬岳は正式には「代馬岳」ともいいます。故に「はくば」ではなく「しろうま」と呼ぶのが正しいと思います。田んぼにて馬が田植えの段取りに入る(田代)時期に、雪渓の雪が解けて「雪渓が馬の形になる」ので「代馬岳」と呼称したのが、諸説ある中で信頼できるであろう「しろうま」の語源のようです。

大学生の頃、登山を始めて間もない頃に、友人らと上高地から入って槍ヶ岳を縦走し、北アルプスの表銀座を縦走後に針ノ木の雪渓を下山し、その日のうち他の友人らと別れて一人の友人と二人で白馬の雪渓を登ったことがあります。日本三大雪渓のうちの二つ(もうひとつは剣沢)を一日で踏破したのですが、その日に雪渓で間違ってホワイトガソリンを飲み具合が悪くなったのを覚えています。
*雪渓は下りはあっという間ですが登るのは意外に体力が要ります。

運の悪いことにその夜には白馬岳を台風が直撃・・。設営したテントは飛ばされそうになり、一晩中テントを支えてたいのですが、明け方テント場にはテントを出てみると周囲には一張りのテントもなく、お金のない我ら二人以外はは全員山小屋に避難したそうな・・。

それでもめげることなく翌日には、日本海の親知海岸まで突っ走しり縦走したという元気な頃、花畑を愉しむ余裕などとんでもない!

本作品を描いたのは本ブログでお馴染みの山元春挙を叔父とする山元櫻月です。本ブログでも数度作品が投稿されています。
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山元桜月:山元桜月は、明治22年(1889年)に滋賀県滋賀郡膳所町(現滋賀県大津市)で山元治三郎と庄子夫妻の三男として誕生しています。父治三郎は山元家の入婿で、母庄子の末弟は近代京都画壇を代表する画家の一人山元春挙です。
治三郎夫妻は子宝に恵まれ、六男二女の子をもうけ、桜月は四番目三男として生まれ三郎を名付けられました。叔父である春挙は幼ない桜月の画才を見抜き、明治33年(1900年)桜月の入門を許し春汀の名を与え、以降厳しく実写の道を教えたと伝えられています。
桜月は才能を遺憾なく発揮し、大正3年(1914年)第8回文展において『奔流』が初入選し、以降文展・その後の帝展に連続入選を果たし、昭和3年(1928年)には帝展で推薦(無鑑査)と順調に地位を固めています。
その後、昭和8年(1933年)師であり叔父でもある春挙が亡くなると、昭和10年(1935年)には名を春汀から「桜月」に改め、帝展を退会し画壇から一歩身を引くと共に画商とのつき合いも断ったそうです。
桜月が描く対象も一般風景から山岳画へと変わり、昭和14年(1939年)改組文展に『早春の芙蓉峰』を出品し、以降富士山を描き続け、翌15年(1940年)には山梨県の山中湖村に移住し、富士山の観察とスケッチに没頭しました。
桜月が描く富士山の絵について、横山大観は「富士の真の姿を描いて行くのは桜月君が最もふさわしい画家」と評し、昭和30年(1955年)東京で開かれた桜月個展において川合玉堂は、多くの期待を持って個展を楽しんだと伝えられています。
桜月は自著『神韻』の中で富士山を描くことに対して「芙蓉峰と雲の調和は他の高山に比類なき美の極地」、「先変万化の景観は、宇宙の無限大と等しく意義を示す世界無比の神秘」と称し、また後年「富士山を見ていたらその崇高な姿に魅入られ、誰も戦争など思い寄らないだろう。そして心から平和のためには力を合わすようになる。」との信念から、富士を描いた作品を世界の指導者に対して数多く寄贈したそうです。
昭和60年(1985年)に死去しました。享年97才。
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日本海に抜ける縦走路は今のように登山道は整備されておらず、悪戦苦闘。とくに夏は高度を下げるに従って猛暑を味わい、沢に降りると沢は蛇だらけ・・、またあわてて突っ走る羽目になるという散々な山行でした。

親不知海岸についてお腹の空いた我らは食堂で有り金をはたいてカレーやら親子丼やら注文したのですが、胃袋が小さくなっており食べきれず・・。

夏休みだったので親不知海岸から郷里へ帰省したのですが、お金もないので夜行や鈍行を乗り継いで帰りました。「若いとはこういうことができるということ」と思い出します。ともかくお金がなかった頃でアルバイトはいろんなことをしましたが、すべて登山に使ったという親不孝者でです。
*手前は金城次郎作の大皿です。

学生時代はハイキング部に毛の生えたような6つの大学をまたいだメンバーで構成されたALK(「WALK」,「TALK」,「あるく」をもじった?)という部に入部したのですが、もっと本格的な登山がしたくてワンゲル部の友人らと登山していました。

そのALKという集まりは今年で50周年だそうです。私らは7期生ですから月日の経つのは早いものですし、また同好会のような集まりが50年も続いているのもたいしたものです。

合コンのような集まりでしたが、続いている要素として登山の魅力が大きいのだろうと思います。
山岳画に魅力を感じるのは登山の経験からだろうし、一度も登ったことのない富士山が魅力的と感じるのは、南北アルプスから見る富士山が感動的だったからでしょう。

どこにもありそうな下駄ですが、家内曰くは最近は「木地そのものの下駄」はあまりないらしい。

鼻緒が粋です。男物の下駄は蛇の皮です。小生も息子も巳年ゆえ早速修理しておきました。

手を付けたばかりの母の遺品ですが、これではいつまでかかるかわかりませんね。今日は母の一周忌ですので、帰郷しています。
さて本日紹介する作品は小生にとっては思い出深い白馬岳の雪渓を描いた作品です。
白馬山花畑図 山元櫻月筆
絹本着色軸装 軸先象牙 共箱二重箱(初号春汀銘)
全体サイズ:横537*縦2250 画サイズ:横418*横1335


白馬岳は正式には「代馬岳」ともいいます。故に「はくば」ではなく「しろうま」と呼ぶのが正しいと思います。田んぼにて馬が田植えの段取りに入る(田代)時期に、雪渓の雪が解けて「雪渓が馬の形になる」ので「代馬岳」と呼称したのが、諸説ある中で信頼できるであろう「しろうま」の語源のようです。

大学生の頃、登山を始めて間もない頃に、友人らと上高地から入って槍ヶ岳を縦走し、北アルプスの表銀座を縦走後に針ノ木の雪渓を下山し、その日のうち他の友人らと別れて一人の友人と二人で白馬の雪渓を登ったことがあります。日本三大雪渓のうちの二つ(もうひとつは剣沢)を一日で踏破したのですが、その日に雪渓で間違ってホワイトガソリンを飲み具合が悪くなったのを覚えています。
*雪渓は下りはあっという間ですが登るのは意外に体力が要ります。

運の悪いことにその夜には白馬岳を台風が直撃・・。設営したテントは飛ばされそうになり、一晩中テントを支えてたいのですが、明け方テント場にはテントを出てみると周囲には一張りのテントもなく、お金のない我ら二人以外はは全員山小屋に避難したそうな・・。

それでもめげることなく翌日には、日本海の親知海岸まで突っ走しり縦走したという元気な頃、花畑を愉しむ余裕などとんでもない!

本作品を描いたのは本ブログでお馴染みの山元春挙を叔父とする山元櫻月です。本ブログでも数度作品が投稿されています。
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山元桜月:山元桜月は、明治22年(1889年)に滋賀県滋賀郡膳所町(現滋賀県大津市)で山元治三郎と庄子夫妻の三男として誕生しています。父治三郎は山元家の入婿で、母庄子の末弟は近代京都画壇を代表する画家の一人山元春挙です。
治三郎夫妻は子宝に恵まれ、六男二女の子をもうけ、桜月は四番目三男として生まれ三郎を名付けられました。叔父である春挙は幼ない桜月の画才を見抜き、明治33年(1900年)桜月の入門を許し春汀の名を与え、以降厳しく実写の道を教えたと伝えられています。
桜月は才能を遺憾なく発揮し、大正3年(1914年)第8回文展において『奔流』が初入選し、以降文展・その後の帝展に連続入選を果たし、昭和3年(1928年)には帝展で推薦(無鑑査)と順調に地位を固めています。
その後、昭和8年(1933年)師であり叔父でもある春挙が亡くなると、昭和10年(1935年)には名を春汀から「桜月」に改め、帝展を退会し画壇から一歩身を引くと共に画商とのつき合いも断ったそうです。
桜月が描く対象も一般風景から山岳画へと変わり、昭和14年(1939年)改組文展に『早春の芙蓉峰』を出品し、以降富士山を描き続け、翌15年(1940年)には山梨県の山中湖村に移住し、富士山の観察とスケッチに没頭しました。
桜月が描く富士山の絵について、横山大観は「富士の真の姿を描いて行くのは桜月君が最もふさわしい画家」と評し、昭和30年(1955年)東京で開かれた桜月個展において川合玉堂は、多くの期待を持って個展を楽しんだと伝えられています。
桜月は自著『神韻』の中で富士山を描くことに対して「芙蓉峰と雲の調和は他の高山に比類なき美の極地」、「先変万化の景観は、宇宙の無限大と等しく意義を示す世界無比の神秘」と称し、また後年「富士山を見ていたらその崇高な姿に魅入られ、誰も戦争など思い寄らないだろう。そして心から平和のためには力を合わすようになる。」との信念から、富士を描いた作品を世界の指導者に対して数多く寄贈したそうです。
昭和60年(1985年)に死去しました。享年97才。
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日本海に抜ける縦走路は今のように登山道は整備されておらず、悪戦苦闘。とくに夏は高度を下げるに従って猛暑を味わい、沢に降りると沢は蛇だらけ・・、またあわてて突っ走る羽目になるという散々な山行でした。

親不知海岸についてお腹の空いた我らは食堂で有り金をはたいてカレーやら親子丼やら注文したのですが、胃袋が小さくなっており食べきれず・・。


夏休みだったので親不知海岸から郷里へ帰省したのですが、お金もないので夜行や鈍行を乗り継いで帰りました。「若いとはこういうことができるということ」と思い出します。ともかくお金がなかった頃でアルバイトはいろんなことをしましたが、すべて登山に使ったという親不孝者でです。
*手前は金城次郎作の大皿です。

学生時代はハイキング部に毛の生えたような6つの大学をまたいだメンバーで構成されたALK(「WALK」,「TALK」,「あるく」をもじった?)という部に入部したのですが、もっと本格的な登山がしたくてワンゲル部の友人らと登山していました。


そのALKという集まりは今年で50周年だそうです。私らは7期生ですから月日の経つのは早いものですし、また同好会のような集まりが50年も続いているのもたいしたものです。

合コンのような集まりでしたが、続いている要素として登山の魅力が大きいのだろうと思います。
山岳画に魅力を感じるのは登山の経験からだろうし、一度も登ったことのない富士山が魅力的と感じるのは、南北アルプスから見る富士山が感動的だったからでしょう。