夜噺骨董談義

収集品、自分で作ったもの、見せていただいた品々などを題材に感想談など

福羊之図 大橋翠石筆 その7

2017-12-11 00:01:00 | 掛け軸
先週末は青森県の十三湖付近への出張でしたが、現地はすでに冬景色でした。



宿泊した弘前のホテルからの眺めも冬景色です。今年の雪は例年より早いようですね。



さて本日は虎の作品で有名な画家である大橋翠石の山羊を描いた作品の紹介です。

福羊之図 大橋翠石筆 その7
紙本水墨淡彩軸装 軸先鹿骨 玉置頼石鑑定箱 
全体サイズ:横357*縦1182 画サイズ:横237*縦265



本作品は大橋翠石の制作年代区分において、2期と称される中間期の頃(1922年(大正11年)-1940年(昭和15年))に分類され、大橋翠石が58歳~66歳の作で、昭和初期に大橋翠石が須磨様式が確立されたと言われている時期に描かれた作品です。



虎の作品の評価が高い大橋翠石ですが、他の動物画にもその力量は十二分に発揮されています。虎以外にはライオン、タヌキ、猫が著名ですが、さすがに山羊の作品は珍しいと思います。



福羊と題されていることからも、干支が羊である1917年(大正12年)の作と推察していいかもしれません。小さな作品ですが、背景は朝陽を描き、大正12年の年初めの作とも思われますね。



この頃の作品に記されている落款は「石の文字が太い」のが特徴です。なおこの作品は真作と判断されます。




大橋翠石の作品の背景の特徴は虎の作品でもほとんど竹を描かず、本作品も草(葦?)を描いた背景と推察されます。神戸時代の作品を愛好家は須磨様式と称しますが、その初期の頃の作と推察されます。



印章は白文朱丸印が押印されており、「点石翠石」という落款を記されていた頃(「石」字の第四画上部に点が付されている1910年(明治43年)夏まで翠石の字をみると石の上に点がある。 明治43年の46歳までこの点が入っている。)の作品「動物画帳」にも押印されていますので、明治末頃の作と限定されてくるかもしれません。



 

本ブログにも投稿されている玉置頼石のよる鑑定箱書があり、なんでも鑑定団に出品された虎が屏風に描かれた玉置頼石の作品と同じ印章が箱に押印されています。

箱書きには「偲翠石翁真蹟」と記されています。

  

玉置頼石(たまおき らいせき):明治32年岐阜県に生まれる。幼名武田勝之助。独学で動物画を研究し、無所属動物画家として活躍。昭和17年「光彩会」を主宰。日本動物画協会会長。動物画の発展に尽くした。昭和53年没。享年80才。

作品の手間においてあるのは下記の作品です。本ブログにてすでに紹介されている作品ですね。

南京赤絵獅子牡丹文壷
合箱
口径85*最大胴径120*底径110*高さ165



************************************

南京赤絵:350年くらい前の中国明時代末期から清王朝初期に掛けて景徳鎮の民窯で作られた南京赤絵。

17世紀に入ると各地で農民の反乱が相次ぎ明王朝は衰退しその結果景徳鎮の官窯は消滅したが、民窯はしたたかに生き残りむしろ自由闊達な赤絵を作りはじめた。これを南京赤絵という。

南京赤絵の生地の多くは従来の青味が強い白ではなく乳白色を帯びていて、これは色彩を一層際立たせる効果があります。絵付けには基本的に染付けは用いず、色釉だけで彩色され、その色数も初期は赤、緑、黄と少なく作風はきわめて豪放です。その後、紺青、紫、黒、褐色などの色が増えるとこれらの色数を組み合わせ繊細華麗な作風へ変化しました。

当時の主要な輸出品で西欧諸国に売ったものは壷や花生けや蓋ものなど大作が多い。ところが日本に輸出したものは茶道具あるいは鉢や小皿中皿など食器が多い。デザインも日本人好みの余白を十分とった絵画的な構成になっています。これは南京赤絵の手法です。

皿では高台内は車輪高台で、砂付高台。評価は寸法によって大いに違い、大きめのものが格段に評価が高い。

************************************

*本日は早朝より四国へフライトです。四国から広島、明日は大阪からの帰京です。宿泊の出張や帰宅が遅い出張のため、ブログの原稿もままなりませんので、休稿もありえますのでご了解願います。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。