8月13日から1週間ほど男の隠れ家へ・・・、新たな作品の出会いを求めて、sonotameしばし休稿。
今年もお盆が近づいてきました。墓参りに帰省しますが、郷里もまた暑いようです。予約投稿はいくつかしていくつもりですが、しばし投稿はお休みです。ここのところ整理する作品が溜まっており、追われるように整理していましたがちょっと休憩です。
本ブログの閲覧者数が350万を超え、それが読者が多いのか少ないのかは当方にはまったく解りませんが、作品整理のためにまだ少し本ブログを続けることになりそうです。
さて帰省する男の隠れ家からの作品で「鐸 その5」です。本日紹介する鐸(つば)の形は愛好家はよくご存知だと思いますが、「武蔵鐸」と呼ばれているもののようです。
(武蔵)鐸 左右海鼠透素銅地 その5
保存箱入
縦79*横74*厚さ3
剣豪として知られる宮本武蔵は数多くの鐔を考案し、自らも多くの鐔を製作したとされ、「武蔵鐔(むさしつば)」と呼ばれる「左右海鼠透(さゆうなまこすかし)」の図案は有名です。
なぜ「海鼠透(なまこすかし)」というのでしょうか? 透かしの形全体がナマコの形? どうもよくわかりませんね。またも本作品のどちらが表か裏かも・・・。
実際に宮本武蔵が製作した作品には耳際に細い線があり、武蔵の鍔には必ずこの線が見られるそうです。
武蔵鐔の形はシンプルなデザインですが、職人が作ったものに比べるとつくりが荒く、良く見るとヤスリ痕が残っている部分があります。通常は目の細かいヤスリで綺麗にするところが、そのままになっているのだそうです。
参考作品(左):「左右なまこ透かし鍔」 (右)「左右なまこ鍔素銅地」
(右)武蔵が亡くなる1週間前に世話になった細川家家老の松井家に贈られた品
(左)二天一流の二代宗家を継いだ肥後藩士の寺尾求馬助信行に贈られた作品
世間一般の常識では透かし海鼠鍔が武蔵鍔として知られてますが、決して宮本武蔵が常に透かし海鼠鍔を愛用して使っていた訳ではないようです。
また宮本武蔵以降、当然の如く、数多くの武蔵鐸が作られたそうですが、武蔵自身の作った作品を凌ぐ作品はないとか・・・。
本作品は端正ながらいい出来と思いますが、いずれにしろ鐸については浅学ゆえ出来の良しは正直なところよく分かりません。
なお「鍔の役割」について記述します。ところで「鍔迫り合い」という言葉がありますが、実際は鍔がせり合うとすると、手から鍔元まで攻められており、それは敗北(重症か死)も同然のことであり、しかして鍔の役割は相手の刀刃からの斬撃防御のためにあるのではないとのこと。
実際の鍔の役割は下記のようです。
1.刃の方へ手をスベらないためのストッパー。
2.床に刀を置く時、指を離さないですむ事。
3.置いた刀を取るとき、掴み易い事。
4.腰に差しているときに左手の親指で素早く鯉口が切れて、咄嗟の抜き打ちに有利な事。
よく解らない刀剣の世界ですが、とにもかくにも家に伝わるものを少し勉強して後世に遺していきます。
閑話休題、本日の作品ですが、日本画には知名度は低いものの「知る人ぞ知る」という画家がいます。その一人が「山崎辦栄」でしょう。ただし「山崎辦栄」は本来は画家ではなく僧侶です。
出山之釈尊 山崎辦栄筆
紙本水墨軸装 軸先木製 合箱入
全体サイズ:横*縦 画サイズ:横450*縦1360
なんでも鑑定団にも二作品ほど出品され、高値となっています。
知名度は低いものの「知る人ぞ知る」という画家のほかには、たとえば「山田真山」、「桑山玉洲」らもいますが、あくまで好みで鑑賞するのがよいでしょう。「山田真山」、「桑山玉洲」らは本ブログでも作品を紹介しましたが、とくに、「山田真山」は今週のなんでも鑑定団に素晴らしい屏風が出品されて話題になりました。氏素性がしっかりしているのになぜなんでも鑑定団に出品するのかは小生には理解できませんが・・・。
浄土宗の僧侶山崎弁栄は宗派を超えて非常に人気があったということで、書や絵画の作品の評価は大変高くなっています。
絵がなかなか上手であったということですが、もちろん絵師ではないので人物の脚や手の描き方は稚拙です。
6年間の苦行を終えて山から出てきた釈迦の、ある意味苦悩の表情なのでしょうが、難行の末の顔を墨の濃淡で描き、ひげの濃さなどうまく描いています。
「佛陀禅那」という落款が入っていますが、大体の作品はこの落款です。印章の朱文白方印はよくも押印されており真印です。上の印章は珍しいですが、他の作品に押印されている例もあります。
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山崎辨榮:(やまざき べんねい) 安政6年2月20日(1859年3月24日) ~大正9年(1920年)12月4日)。日本の浄土宗の僧侶。大正時代に浄土宗の社会運動である光明主義運動を行った。安政6年、下総国手賀沼鷲野谷(現、柏市)の熱心な浄土門徒の農家に生まれる。
近所の真言宗寺院で仏画を習う傍ら、12歳の時、阿弥陀三尊を夕日の中に観想して出家を願い、明治12年(1879年)11月、東漸寺の大谷大康に師事して出家した。
明治14年(1881年)に上京し、増上寺や駒込吉祥寺学林(現、駒澤大学)で研鑽を積み、明治15年(1882年)に筑波山中で念仏修行を行った。明治18年(1887年)に習志野に移住し、善光寺 (松戸市)建立・浄土宗本校(現、大正大学)設立の勧進を行った。
明治27年(1894年)にはインド仏跡巡拝に出かけ、翌28年に帰国した。その後、光明主義運動を始め、大正3年(1914年)には如来光明会(現、光明修養会)を設立した。大正5年(1916年)には、総本山知恩院の夏安居に講師に招かれ、大正7年(1918年)には時宗当麻派の本山、無量光寺 (相模原市)の61世法主に迎えられ、境内に人々の教育のために光明学園を創設した。大正9年12月、各地を巡錫中、柏崎市の極楽寺で還浄した。
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本日は宮本武蔵と山崎辨榮の作品を取り上げましたが、表面上は実に両極端な二人ですが、作品を見ているとなにか共通したものを感じてきます。道を究めた剣の道、仏の道、・・・究極は同じところに行き着いているようです。それはきっと「悟りの道」・・。
スポーツでも、仕事でも、趣味でも、行き着くところは「悟り」だろうと思います。
今年もお盆が近づいてきました。墓参りに帰省しますが、郷里もまた暑いようです。予約投稿はいくつかしていくつもりですが、しばし投稿はお休みです。ここのところ整理する作品が溜まっており、追われるように整理していましたがちょっと休憩です。
本ブログの閲覧者数が350万を超え、それが読者が多いのか少ないのかは当方にはまったく解りませんが、作品整理のためにまだ少し本ブログを続けることになりそうです。
さて帰省する男の隠れ家からの作品で「鐸 その5」です。本日紹介する鐸(つば)の形は愛好家はよくご存知だと思いますが、「武蔵鐸」と呼ばれているもののようです。
(武蔵)鐸 左右海鼠透素銅地 その5
保存箱入
縦79*横74*厚さ3
剣豪として知られる宮本武蔵は数多くの鐔を考案し、自らも多くの鐔を製作したとされ、「武蔵鐔(むさしつば)」と呼ばれる「左右海鼠透(さゆうなまこすかし)」の図案は有名です。
なぜ「海鼠透(なまこすかし)」というのでしょうか? 透かしの形全体がナマコの形? どうもよくわかりませんね。またも本作品のどちらが表か裏かも・・・。
実際に宮本武蔵が製作した作品には耳際に細い線があり、武蔵の鍔には必ずこの線が見られるそうです。
武蔵鐔の形はシンプルなデザインですが、職人が作ったものに比べるとつくりが荒く、良く見るとヤスリ痕が残っている部分があります。通常は目の細かいヤスリで綺麗にするところが、そのままになっているのだそうです。
参考作品(左):「左右なまこ透かし鍔」 (右)「左右なまこ鍔素銅地」
(右)武蔵が亡くなる1週間前に世話になった細川家家老の松井家に贈られた品
(左)二天一流の二代宗家を継いだ肥後藩士の寺尾求馬助信行に贈られた作品
世間一般の常識では透かし海鼠鍔が武蔵鍔として知られてますが、決して宮本武蔵が常に透かし海鼠鍔を愛用して使っていた訳ではないようです。
また宮本武蔵以降、当然の如く、数多くの武蔵鐸が作られたそうですが、武蔵自身の作った作品を凌ぐ作品はないとか・・・。
本作品は端正ながらいい出来と思いますが、いずれにしろ鐸については浅学ゆえ出来の良しは正直なところよく分かりません。
なお「鍔の役割」について記述します。ところで「鍔迫り合い」という言葉がありますが、実際は鍔がせり合うとすると、手から鍔元まで攻められており、それは敗北(重症か死)も同然のことであり、しかして鍔の役割は相手の刀刃からの斬撃防御のためにあるのではないとのこと。
実際の鍔の役割は下記のようです。
1.刃の方へ手をスベらないためのストッパー。
2.床に刀を置く時、指を離さないですむ事。
3.置いた刀を取るとき、掴み易い事。
4.腰に差しているときに左手の親指で素早く鯉口が切れて、咄嗟の抜き打ちに有利な事。
よく解らない刀剣の世界ですが、とにもかくにも家に伝わるものを少し勉強して後世に遺していきます。
閑話休題、本日の作品ですが、日本画には知名度は低いものの「知る人ぞ知る」という画家がいます。その一人が「山崎辦栄」でしょう。ただし「山崎辦栄」は本来は画家ではなく僧侶です。
出山之釈尊 山崎辦栄筆
紙本水墨軸装 軸先木製 合箱入
全体サイズ:横*縦 画サイズ:横450*縦1360
なんでも鑑定団にも二作品ほど出品され、高値となっています。
知名度は低いものの「知る人ぞ知る」という画家のほかには、たとえば「山田真山」、「桑山玉洲」らもいますが、あくまで好みで鑑賞するのがよいでしょう。「山田真山」、「桑山玉洲」らは本ブログでも作品を紹介しましたが、とくに、「山田真山」は今週のなんでも鑑定団に素晴らしい屏風が出品されて話題になりました。氏素性がしっかりしているのになぜなんでも鑑定団に出品するのかは小生には理解できませんが・・・。
浄土宗の僧侶山崎弁栄は宗派を超えて非常に人気があったということで、書や絵画の作品の評価は大変高くなっています。
絵がなかなか上手であったということですが、もちろん絵師ではないので人物の脚や手の描き方は稚拙です。
6年間の苦行を終えて山から出てきた釈迦の、ある意味苦悩の表情なのでしょうが、難行の末の顔を墨の濃淡で描き、ひげの濃さなどうまく描いています。
「佛陀禅那」という落款が入っていますが、大体の作品はこの落款です。印章の朱文白方印はよくも押印されており真印です。上の印章は珍しいですが、他の作品に押印されている例もあります。
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山崎辨榮:(やまざき べんねい) 安政6年2月20日(1859年3月24日) ~大正9年(1920年)12月4日)。日本の浄土宗の僧侶。大正時代に浄土宗の社会運動である光明主義運動を行った。安政6年、下総国手賀沼鷲野谷(現、柏市)の熱心な浄土門徒の農家に生まれる。
近所の真言宗寺院で仏画を習う傍ら、12歳の時、阿弥陀三尊を夕日の中に観想して出家を願い、明治12年(1879年)11月、東漸寺の大谷大康に師事して出家した。
明治14年(1881年)に上京し、増上寺や駒込吉祥寺学林(現、駒澤大学)で研鑽を積み、明治15年(1882年)に筑波山中で念仏修行を行った。明治18年(1887年)に習志野に移住し、善光寺 (松戸市)建立・浄土宗本校(現、大正大学)設立の勧進を行った。
明治27年(1894年)にはインド仏跡巡拝に出かけ、翌28年に帰国した。その後、光明主義運動を始め、大正3年(1914年)には如来光明会(現、光明修養会)を設立した。大正5年(1916年)には、総本山知恩院の夏安居に講師に招かれ、大正7年(1918年)には時宗当麻派の本山、無量光寺 (相模原市)の61世法主に迎えられ、境内に人々の教育のために光明学園を創設した。大正9年12月、各地を巡錫中、柏崎市の極楽寺で還浄した。
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本日は宮本武蔵と山崎辨榮の作品を取り上げましたが、表面上は実に両極端な二人ですが、作品を見ているとなにか共通したものを感じてきます。道を究めた剣の道、仏の道、・・・究極は同じところに行き着いているようです。それはきっと「悟りの道」・・。
スポーツでも、仕事でも、趣味でも、行き着くところは「悟り」だろうと思います。