夜噺骨董談義

収集品、自分で作ったもの、見せていただいた品々などを題材に感想談など

雨粛々 和田三造筆 その3

2019-12-02 00:01:00 | 掛け軸
本日は美空ひばりの「雨燦燦」ではなく「雨粛々」という題の作品の紹介です。和田三造については本ブログにて水墨画を2作品を紹介していますが、本日は和田三造が得意とする色彩画の作品の紹介です。



雨粛々 和田三造筆 その3
紙本水彩軸装 軸先象牙 昭和32年春 共箱
全体サイズ:横725*縦1460 画サイズ:横520*縦470



昭和32年には高島屋ギャラリーにて日本画展を開いていますが、本作品が出品作か否かは不明です。

  

「粛粛」は「しゅく しゅく」と読みますが、意味は「しずかなさま。ひっそりとしているさま。」という意味です。

和田三造は1954年(昭和29年)の第27回アカデミー賞で衣裳デザイン賞を受賞し、なお「地獄門」は、同年の第7回カンヌ国際映画祭においても、その色彩の美しさを高く評価され、パルム・ドール(グランプリ)を受賞しています。

晩年は油彩画の他、工芸や水墨画にも活躍し、1958年(昭和33年)、文化功労者に選ばれています。本作品は昭和32年というこの制作意欲の旺盛な頃の水彩画の佳作と言えるのではないでしょうか。



和田三造というと油彩画「南風」(東京国立近代美術館蔵)が著名な作品で、2018年に新たに国の重要文化財に指定されることになったことは記憶に新しいですね。

「南風」は、1907(明治40)年の第1回文部省美術展覧会で洋画部門の最高賞を受賞した明治後期を代表する作品のひとつです。海の男たちの群像を描いたこの作品は、 とりわけ中央に立つ人物のたくましい筋肉が印象的です。



和田三造の作品はこの「南風」の印象が強く、それでは次の作品はと問われると次の作品が思い浮かびません。ただ三造の作品調査に赴くと、「あの日本画の和田先生ですか」と言われることが多いそうです。日本画の作品のイメージが一般的に強い側面があります。

また文化功労者になった理由は油絵の大家ということではなく、長年の色彩研究への功績を讃えるものであったそうですし、東京美術学校(現在の東京藝術大学)教授となったのは油画ではなく図案科であったようです。

幻の東京オリンピックのポスターを作成し、パリ万国博覧会に出品する日本の工芸品については制作指導やコーディネートにあたっています。

「南風」は和田三造という「画家」の代名詞であるのは確かかもしれませんが、和田三造という「人物」の代名詞とはいえず、彼を短い言葉で語ることには無理があるようです。和田三造の多彩な業績と才能の全てに眼を配ることは到底できないとしても、その多様な活動の中にこれまで見落していないか再検証する必要はありそうです。

先日BS朝日「百年名家~築100年の家を訪ねる旅~」にて2019年10月6日(日)で放映された下記の番組があました。

伝説的棟梁の造った名旅館~横山大観ゆかりの熱海「大観荘」~



横山大観, 和田三造, 谷崎潤一郎, 品川 清臣による柏書房企画の鼎談(3人による会談)餐 昭和23年(1983年)に「熱海大観荘」にて行われた写真が紹介されていました。



和田三造が当時を代表する画家の重鎮であったことがうかがえます。

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和田三造(わだ さんぞう):1883年(明治16年)3月3日~1967年(昭和42年)8月22日)
明治・大正・昭和期の日本の洋画家、版画家。帝国美術院会員。1953年(昭和28年)、大映映画『地獄門』で、色彩デザイン及び衣裳デザインを担当し、この作品で、1954年(昭和29年)の第27回アカデミー賞で衣裳デザイン賞を受賞。玄洋社社員。



旧朽木藩の御典医であり、その後生野銀山鉱業所の勤務医や校医を勤めた和田文碩と秀の四男として、兵庫県朝来郡生野町(現・朝来市)に生まれる。兄・宗英が大牟田市の鉱山業に従事したため、1896年(明治29年)、13歳の時に一家をあげて福岡市に転居する。大名尋常小学校を経て、翌1897年(明治30年)、福岡県立尋常中学修猷館に進学するが、1899年(明治32年)、画家を志し、父や教師の反対を押し切って修猷館を退学後、上京して、長尾建吉の斡旋で黒田清輝邸の住み込み書生となり、白馬会洋画研究所に入所して黒田清輝に師事する。

1901年(明治34年)、東京美術学校(現・東京芸術大学)西洋画科選科に入学。青木繁、熊谷守一、児島虎次郎、山下新太郎らと同期であった。1902年(明治35年)、八丈島への渡航途上、暴風雨に会い漂流ののち伊豆大島へ漂着しており、これが後の『南風』制作の契機となった。

1904年(明治37年)、東京美術学校を卒業し、1905年(明治38年)、白馬会10周年記念展で『牧場の晩帰』、『伊豆大島風景』を出品して、前者で白馬会賞を受賞し注目される。1907年(明治40年)、第1回文部省美術展覧会(文展)に出品した『南風』が2等賞(最高賞)を受賞[3]。『南風』は、明治浪漫派の風潮下で生まれた記念碑的な作品とされる。この絵の中で小船の上に立つ逞しい男のモデルは、和田が中学時代に通っていた玄洋社が運営する柔道場「明道館」の2代目館長河野半次郎といわれる。更に、翌1908年(明治41年)の第2回文展においても、『煒燻』で2等賞(最高賞)を連続受賞し、無鑑査(鑑査なしで出品できる資格)となる。



1909年(明治42年)、文部省美術留学生として渡欧。フランスを中心にヨーロッパ各国を巡歴し、洋画とあわせて工芸図案の研究も行う。







その帰途、1914年(大正3年)、インドやビルマ(現・ミャンマー)で東洋美術を研究し、1915年(大正4年)に帰国。



1917年(大正6年)、文展審査員となる。以後、文展や、文展が改称した帝国美術院展覧会(帝展)に出品する一方で、装飾工芸や色彩研究にも力を入れ、1920年(大正9年)、染色芸術研究所、1925年(大正14年)、日本染色工芸協会をそれぞれ設立している。 この頃、1923年(大正12年)からは、本格的に日本画の制作に取り組んでいる。翌1924年(大正13年)、日本と朝鮮の双方の羽衣伝説を題材とした、朝鮮総督府庁舎の大壁画『羽衣』を制作している。



1927年(昭和2年)、帝国美術院(現・日本芸術院)会員となる。同年、わが国における色彩の標準化の必要性に着目し、日本標準色協会を創立。ここでの和田の色彩研究の成果は、『色名総鑑』(1931年)などに表れている。

その後、1938年(昭和13年)には西宮にあった品川清臣による京都版画院という版元で『昭和職業絵尽』シリーズの第1作として「洋楽師」と「巡礼」という木版画を発表。この『昭和職業絵尽』は第1集、第2集各24枚(合計48枚)を版行しており、以降、戦後に入って1956年(昭和31年)、続編として『続昭和職業絵尽』シリーズ24枚を発表した。なお、これらの作品は新版画に分類されている。

1932年(昭和7年)には東京美術学校図案科教授に就任し、1944年(昭和19年)まで務めている。1936年(昭和11年)に開催が決まった1940年東京オリンピック(開催中止)のポスターを描いた。1945年(昭和20年)、日本標準色協会を日本色彩研究所に改組し、理事長に就任。1951年(昭和26年)には、ここで日本初の綜合標準色票『色の標準』を完成する。

1953年(昭和28年)、大映映画『地獄門』で、色彩デザイン及び衣裳デザインを担当し、この作品で、1954年(昭和29年)の第27回アカデミー賞で衣裳デザイン賞を受賞する。なお、『地獄門』は、同年の第7回カンヌ国際映画祭においても、その色彩の美しさを高く評価され、パルム・ドール(グランプリ)を受賞している。

晩年は、油彩画の他、工芸や水墨画にも活躍し、1958年(昭和33年)、文化功労者に選ばれている。 1967年(昭和42年)8月22日、誤嚥性肺炎のため東京逓信病院で死去。享年84。

娘は1939年6月23日に有馬大五郎と結婚した。

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茶室の床に本作品を掛けてみました。茶室にも違和感なく見栄えがする作品です。



戦後の色彩に関する活動が注目され、油彩画というより色彩画、日本画というイメージが和田三造に対して強くなったものと推察されます。本作品もまたその色彩の鮮やかさが注目される作品であろうと推察されます。


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