夜噺骨董談義

収集品、自分で作ったもの、見せていただいた品々などを題材に感想談など

夏の浜辺 寺崎廣業筆

2013-04-30 04:25:29 | 掛け軸
本日は早朝のフライトで九州です。その後帰京後、即帰郷ですのでしばしブログは休稿となります。

さて本日は幾度となく本ブログに登場している寺崎廣業です。

夏の浜辺 寺崎廣業筆
絹本着色軸装 軸先樹脂 共箱
全体サイズ:縦2255*横560 画サイズ:縦1265*横410



本作品と同時期の作品が思文閣墨蹟資料目録「和の美」に掲載されています。




南画に新風を吹き込んだ寺崎廣業らしい逸品です。



菱田春草、横山大観が朦朧体と称される新しい手法によって、空間描写に新しい工夫を加える一報で廣業は南画の筆致を加えた独自の画境を風景画で創り上げた。本作品で特に印象的なのは海面の印象派のような点描であろう。



この描写は今までの日本画には見られなかった手法であり、廣業の新境地の作品であろう。思文閣の掲載された作品ともども、南画的な構成とともに大正期の寺崎廣業の作行きを参考に出来る作品である。箱にシミが発生している点は難点であるが、作品の表具自体は良好である




「寺崎広業:放浪の画家といわれた寺崎広業は慶応2年(1866年)久保田古川堀反の母の実家久保田藩疋田家老邸で生まれた。寺崎家も藩の重臣であった。父の職業上の失敗もあって横手に移って祖母に育てられた。幼児から絵を好みすぐれていたというが貧しく、10代半ば独り秋田に帰り牛島で素麺業をやったりしたという。秋田医学校にも入ったが学費が続かなかった。結局好きな絵の道を選び、16歳で秋田藩御用絵師だった狩野派の小室怡々斎に入門、19歳で阿仁鉱山に遊歴の画家第一歩を印したが、鹿角に至った時戸村郡長の配慮で登記所雇書記になった。」

左が本作品の落款と印章で、右が思文閣掲載の落款と印章です。



印章の「龍」が一致しないと思われますので、文献からさらに確認します。印章はいろんな作品のものを確認する必要があります。




「生活はようやく安定したが絵への心は少しも弱まらなかった。彼には2人の異父弟佐藤信郎と信庸とがいたが、東京小石川で薬屋を営んでいた信庸のすすめで上京した。1888年(明治21年)春23歳のことである。上京すると平福穂庵の門をたたいた。4か月でまた放浪の旅に出るが、穂庵のくれた三つの印形を懐中にしていた。足尾銅山に赴いて阿仁鉱山で知りあった守田兵蔵と再会し、紹介されて日光大野屋旅館に寄寓し美人画で名を挙げる。1年半で帰郷し穂庵の世話で東陽堂の「絵画叢誌」で挿絵の仕事をした。ここで諸派名画を模写し彼の総合的画法の基礎を築いたといわれる。1892年(明治25年)に結婚し向島に居を構えた。」

共箱の落款と印章も検証みました。左が本作品で右が「寿老人」という作品の共箱の落款と印章です。




「1898年(明治31年)東京美術学校助教授に迎えられた。翌年校長岡倉天心排斥運動がおこり、天心派の彼は美校を去った。天心と橋本雅邦は日本美術院を興し、橋本門下の横山大観・下村観山らと広業もこれに参加した。1900年(明治33年)には秋田・大曲・横手に地方院展を開催、故郷に錦を飾る。翌年美術学校教授に復し天籟散人と号した。」

箱書きは下の写真の通りです。寺崎廣業は本当の贋作が多くある画家ですので、検証は念入りに行う必要がありますが、今ではそれほど高い売買価格で取引される画家ではありません。




「1904年(明治37年)には日露戦争の従軍画家となったが健康を害して3か月で帰国した。1907年(明治40年)には第1回文展が開催されて日本画の審査員となり、自ら大作「大仏開眼」を出品した。1912年(大正元年)の文展には「瀟湘八景」を出して同名の大観の作品とならび評判作となった。」


本作品は大正時代の作品であり、大正6年頃ではないかと推察しています。



「1917年(大正6年)には帝室技芸員を命ぜられ、芸術家として斯界の最上段に立つようになった時、病気になる。1919年(大正8年)2月、54歳を一期に世を去った。異父弟佐藤信郎が耳鼻咽喉科医として脈を取るという印象的な場面であったという。咽喉癌であった。その葬儀に三千人も会葬したほど、かつての放浪の画家といわれた彼も社会的地位が高くなっていたのである。」

「企業での一番大切なことは社員のモチベーションである。社員のモチベーションを高めたり維持するのは非常に難しい。まずはコミュニケーションを保つことと、ことを伝えるのに説明責任を果たすことが肝要です。そしてもっとも肝要なことは率先垂範であり、それが出来ない状況になった時点で幹部は交代時期にきていると言える。」と記したが、寺崎廣業は苦学をした率先垂範の師であったが、志半ばで残念ながら病気で亡くなった画家である。明治期での彼の果たした役割は、日本画にとって非常に大きなものであったといえる。



参考までに思文閣墨蹟資料目録に掲載の作品を紹介します。

参考作品
夏江
思文閣墨蹟資料目録 第456号 作品NO19



本作品と比してやや大きめで状態もよく、ニ重箱ということです。



本作品とどちらの作品がお気に入りでしょうか?



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