本ブログを定常的にご覧戴いている方はだいたい300名前後のようです。
読者の方には稚拙な文、ガラクタをご覧いただき感謝しております。そろそろ紹介する作品が無くなると思いながら、ガラクタの山からついついこの作品もと整理を進めるうちに、またブログに載せたくなってくるという思いからまだ続いています。
もう7年になりますが、おかげさまで訪問者数が70万、閲覧が420万を超えました。ここまできたら10年はと思いますが、こればかりは何があるか解りませんし、紹介する作品にも限りがありますので、いつまで続くかは当方でも正直わかりません。ともかく引き続きご愛読をよろしくお願いいたします。独善的な内容のブログとはいえ、訪問数、閲覧数がブログを投稿する意欲になっていのは事実ですから・・。
さて、本日も独善的な評価をしている作品の紹介です。
青緑蜀桟図 村田香谷筆
絹本水墨絹装軸 軸先本象牙 共箱
全体サイズ:横700*縦2050 画サイズ:横561*縦1543
村田香谷の作品は蒐集を始めた頃に作品を所有していましたが、一時期資金調達が必要となり、100作品ほど売却した際に処分しております。
箱には「田香谷青緑蜀桟図 絹本条幅」と題され、「明治辛卯春日再観□題鑑 □□□□押印」とあり、1891年(明治24年)に再鑑定題されていることが解ります。
賛には「憶昔蠺叢開蜀国 崔嵬剣閣入寒雲 林間多少騎驢家 一路猿聲不思聞 丙戌夏日樵耕煙山人筆意香谷田叔 押印」とあり、1886年(明治19年)に描かれた作品と推察されます。
つまり明治19年に描かれた作品に明治24年に画家本人が箱書をしています。これはよくあることですので問題はありません。むろん箱書・作品共々、真作に相違ありません。
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村田香谷:生年天保2年(1831年)、没年大正1(1912)年10月8日。出生地は筑前国博多(福岡県)。本名は村田叔、別名・別号は蘭雪,適圃,鉄翁,海屋。父である南画家村田東圃に画の手ほどきを受け、弘化3年京都に上り貫名海屋に南画を学ぶ。また梁川星巌に詩を学んだ。
安政元年長崎に遊学、日高鉄翁に入門し、木下逸雲、徐雨亭らにも教えを受ける。その後、生涯3回にわたって中国に渡り、張子祥、胡公寿に学んだ。
明治15年第1回内国絵画共進会で「集古名書画式」が絵事著述褒状、17年同第2回で「山水」「花卉」が褒状、23年内国勧業博で「蕉石美人図」が妙技3等賞を受賞。
明治30年(1897)に猪瀬東寧・川村雨谷・中島杉陰・菅原白龍・石井鼎湖・山岡米華ら20余名が日本南画会を結成し、香谷も参加した。同年大阪に移り、大阪南宗画会主催の全国南画共進会で2等賞、36年内国勧業博では「米法浅絳山水」が褒状となる。山水にも長じ、関西南画界の重鎮として活躍した。
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本作品の描写は山水として観ると稚拙ですが、人の描き方、とく表情などが愉しめる作品です。村田香谷の作品はこの作品に出会うまで過小評価していたようです。今までは積極的に蒐集しようと意欲を誘う画家ではありませんでした。
下から順番に写真を並べていくとその遠近の描写とともに楽しめます。
難所を皆で緊張感を味わいながらも旅を愉しんでいるようです。
村田香谷は現在では知る人も少ない画家でしょうし、明治末以降の画家では富岡鉄斎以外の画家は「つくね芋山水」としてマンネリ化した南画は近代日本画壇から排除された風潮があります。
「つくね芋山水」と称して全南画家や作品を評価するのはいかがなものかと思います。たしかに村田香谷の作品の多くはその部類の作品が多くあるのは事実です。
それでも「つくね芋山水」と称しされている多くの画家、作品の中には観るべきもの数多くあり、正当な評価をしていくべきでしょうね。村田香谷は綿密描いた青緑山水画に優品が多いようです。
幕末から明治期以降の「つくね芋山水」と揶揄された南画作品は、現代になって解る人には解る作品がそれなりに評価されてきているようにも思いますが、金額的な評価はまだまだ低いものです。
思文閣出版の墨蹟資料目録「和の美」に掲載の作品を見ていると、思文閣ではこのような作品をきちんと正当に評価していることが解ります。ときおり出来のよい南画の作品が、「高いな。」と思う評価を受けています。これは良くみるとその画家の作品の中でもかなり出来のよい作品のようです。
骨董品については「見れるべき人に見られるべき作品が納められていく。」というのが蒐集のあるべき姿なのでしょう。基本的に骨董品は美術館に収められるべきものではないと小生は思っています。
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蜀桟:桟道とは一般に,山中の険しい崖などに木を組んでかけわたして作った道で,〈かけはし〉ともいう。
中国では,関中から蜀への道が大巴山脈を越える所にあるのを蜀桟と呼び,北にある秦桟に対する。
蜀桟は陝西省沔(勉)県(べんけん)より,四川省剣閣に至る道で,長安と成都を結ぶ交通上の難所にあたり,金牛道,石牛道とも呼ばれる。剣閣は大剣山(剣門山)に,諸葛亮(しよかつりよう)が石を鑿(うが)ち空に架して飛閣を作ったものである。
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与謝蕪村の幻の大作「蜀桟道図」(下写真左)といわれている作品が2014年に92年ぶりに確認されいています。またそれを模写した横井金谷の作品(下写真右)が著名です。
与謝蕪村の幻の大作「蜀桟道図」はシンガポールにあったようです。
本作品の画題となっている「蜀桟道図」は多くの画家によって描かれている画題のようです。
読者の方には稚拙な文、ガラクタをご覧いただき感謝しております。そろそろ紹介する作品が無くなると思いながら、ガラクタの山からついついこの作品もと整理を進めるうちに、またブログに載せたくなってくるという思いからまだ続いています。
もう7年になりますが、おかげさまで訪問者数が70万、閲覧が420万を超えました。ここまできたら10年はと思いますが、こればかりは何があるか解りませんし、紹介する作品にも限りがありますので、いつまで続くかは当方でも正直わかりません。ともかく引き続きご愛読をよろしくお願いいたします。独善的な内容のブログとはいえ、訪問数、閲覧数がブログを投稿する意欲になっていのは事実ですから・・。
さて、本日も独善的な評価をしている作品の紹介です。
青緑蜀桟図 村田香谷筆
絹本水墨絹装軸 軸先本象牙 共箱
全体サイズ:横700*縦2050 画サイズ:横561*縦1543
村田香谷の作品は蒐集を始めた頃に作品を所有していましたが、一時期資金調達が必要となり、100作品ほど売却した際に処分しております。
箱には「田香谷青緑蜀桟図 絹本条幅」と題され、「明治辛卯春日再観□題鑑 □□□□押印」とあり、1891年(明治24年)に再鑑定題されていることが解ります。
賛には「憶昔蠺叢開蜀国 崔嵬剣閣入寒雲 林間多少騎驢家 一路猿聲不思聞 丙戌夏日樵耕煙山人筆意香谷田叔 押印」とあり、1886年(明治19年)に描かれた作品と推察されます。
つまり明治19年に描かれた作品に明治24年に画家本人が箱書をしています。これはよくあることですので問題はありません。むろん箱書・作品共々、真作に相違ありません。
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村田香谷:生年天保2年(1831年)、没年大正1(1912)年10月8日。出生地は筑前国博多(福岡県)。本名は村田叔、別名・別号は蘭雪,適圃,鉄翁,海屋。父である南画家村田東圃に画の手ほどきを受け、弘化3年京都に上り貫名海屋に南画を学ぶ。また梁川星巌に詩を学んだ。
安政元年長崎に遊学、日高鉄翁に入門し、木下逸雲、徐雨亭らにも教えを受ける。その後、生涯3回にわたって中国に渡り、張子祥、胡公寿に学んだ。
明治15年第1回内国絵画共進会で「集古名書画式」が絵事著述褒状、17年同第2回で「山水」「花卉」が褒状、23年内国勧業博で「蕉石美人図」が妙技3等賞を受賞。
明治30年(1897)に猪瀬東寧・川村雨谷・中島杉陰・菅原白龍・石井鼎湖・山岡米華ら20余名が日本南画会を結成し、香谷も参加した。同年大阪に移り、大阪南宗画会主催の全国南画共進会で2等賞、36年内国勧業博では「米法浅絳山水」が褒状となる。山水にも長じ、関西南画界の重鎮として活躍した。
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本作品の描写は山水として観ると稚拙ですが、人の描き方、とく表情などが愉しめる作品です。村田香谷の作品はこの作品に出会うまで過小評価していたようです。今までは積極的に蒐集しようと意欲を誘う画家ではありませんでした。
下から順番に写真を並べていくとその遠近の描写とともに楽しめます。
難所を皆で緊張感を味わいながらも旅を愉しんでいるようです。
村田香谷は現在では知る人も少ない画家でしょうし、明治末以降の画家では富岡鉄斎以外の画家は「つくね芋山水」としてマンネリ化した南画は近代日本画壇から排除された風潮があります。
「つくね芋山水」と称して全南画家や作品を評価するのはいかがなものかと思います。たしかに村田香谷の作品の多くはその部類の作品が多くあるのは事実です。
それでも「つくね芋山水」と称しされている多くの画家、作品の中には観るべきもの数多くあり、正当な評価をしていくべきでしょうね。村田香谷は綿密描いた青緑山水画に優品が多いようです。
幕末から明治期以降の「つくね芋山水」と揶揄された南画作品は、現代になって解る人には解る作品がそれなりに評価されてきているようにも思いますが、金額的な評価はまだまだ低いものです。
思文閣出版の墨蹟資料目録「和の美」に掲載の作品を見ていると、思文閣ではこのような作品をきちんと正当に評価していることが解ります。ときおり出来のよい南画の作品が、「高いな。」と思う評価を受けています。これは良くみるとその画家の作品の中でもかなり出来のよい作品のようです。
骨董品については「見れるべき人に見られるべき作品が納められていく。」というのが蒐集のあるべき姿なのでしょう。基本的に骨董品は美術館に収められるべきものではないと小生は思っています。
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蜀桟:桟道とは一般に,山中の険しい崖などに木を組んでかけわたして作った道で,〈かけはし〉ともいう。
中国では,関中から蜀への道が大巴山脈を越える所にあるのを蜀桟と呼び,北にある秦桟に対する。
蜀桟は陝西省沔(勉)県(べんけん)より,四川省剣閣に至る道で,長安と成都を結ぶ交通上の難所にあたり,金牛道,石牛道とも呼ばれる。剣閣は大剣山(剣門山)に,諸葛亮(しよかつりよう)が石を鑿(うが)ち空に架して飛閣を作ったものである。
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与謝蕪村の幻の大作「蜀桟道図」(下写真左)といわれている作品が2014年に92年ぶりに確認されいています。またそれを模写した横井金谷の作品(下写真右)が著名です。
与謝蕪村の幻の大作「蜀桟道図」はシンガポールにあったようです。
本作品の画題となっている「蜀桟道図」は多くの画家によって描かれている画題のようです。