昨日は息子の運動会、とはいえ雨で順延の順延。年長組だけの幼稚園最後の運動会でしたので会社を半休しての見学。息子と家内にとってのいい思い出、そして小生にとっても嫌なことを忘れせてくれるひとつの息子との思い出となるでしょう。
天龍道人の作品を蒐集し始めた当初は、なんでもかんでも見境なく作品を買い集めたものですが、現在はかなり選別して購入しています。蒐集当時は天龍道人の作品は廉価であったこともあり、かなりの数が集まりましたが、その経過とともに作品の出来不出来、保存状態、描いている対象・時期などからその作品の良しあしがだんだんと解るようになったきたと感じています。
本日の作品は天龍道人としては初期の頃の68歳作の葡萄図です。
葡萄図 天龍道人筆 68歳
紙本着色軸装 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦1990*横580 画サイズ:縦1280*横470
落款に「六十八翁 鵞湖王瑾写 押印」とあります。「鵞湖」とはむろん諏訪湖のことです。「天龍道人」と落款に記するようになったのは70歳頃からであり、それ以前の作品で現在遺っている作品数は非常に少ないと思われます。
天龍道人は姓は王、名は瑾であり、60歳代の作品では本作品のように「鵞湖王瑾」と落款に記していることが多いようです。
本作品に押印されている印章は「王瑾印」、「王公瑜」の白文朱方印であり、他の着色された所蔵作品「関羽(関羽周倉)図 天龍道人筆 70歳」と同一印章であり、印影もまったく同一です。
この頃の作品は葡萄の葉の墨の暈ぼかしが効いて潤いがあり、蔓やつるについても曲線がより流麗に仕上がっています。この頃の作品は「みずみずしい出来」と評され、渋味のある晩年の「枯淡の味のある作」と評される作品と好みの分かれるところです。
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天龍道人について
天龍道人の絵画制作の開始時期は明和8年(1771)54歳頃で、かなり年をとってから、絵画制作を始めたことになります。最も早い年記作品が明和8年の「菊図」で、画面に「辛卯中夏初二/虚庵道人写」と年記と署名があります。もう1点、同じ年の作品として、静岡県立美術館所蔵の「葡萄に栗鼠りす図」が知られています。「辛卯初秋虚庵源義教」と、おなじ「辛卯」の年記があり、初秋は7月で、「虚庵」の署名につづけて「源義教」と署名されています。
天龍道人の絵画学習については享和20年(1735)頃、18歳頃に「長崎で沈南蘋門人熊斐(神代繍江)に学ぶ」とされており、「信州仙人床」という史料を典拠とした推測のようです。絵画制作がはじまる54歳頃まで、20数年のブランクがあり、このブランクについて詳細については現在は不明です。
天龍道人の絵画制作は、54歳頃から死去する93歳近くまで、およそ40年間で、その期間をとおして葡萄画を描いています。その間の画風の変化をみてみますと、80歳代の作品に比して、50歳~60歳代の作品の方が葉の墨の暈ぼかしが効いて潤いがあり、蔓つるについても曲線がより流麗に仕上がっています。30年間の変化としては、それほど大きくはないとしても、細かくみると違いが観察されます。
署名は「天龍道人」が一般的ですが、天龍道人は姓が王で、名が瑾、字が公瑜と自ら名乗っており、「天龍道人」と記する前の署名には「王瑾」をはじめ、「王乙翁」、「乙翁王瑾」、「王瑾公瑜」、「王公瑜」などの署名がみられます。また、初期に「虚庵」、「虚庵道人」のほか「草龍子」や「源義教」という署名もみられます。「源義教」の署名については源義経の妾の子を祖先とすることにちなんだものと考えられます。晩年には足を折って不自由になった時期から「折脚仙」という号を使っています。
名の「瑾」については、「固くて美しい玉」という意味で「瑾瑜」も同じような意味で使われているようです。「王瑾」というのは、ひっくり返すと「瑾王」で、勤王思想の「勤王」と音通するところから、天皇親政を理想としていた道人が自らの名前にしたのではないかと想像されます。ほかに姓名や号に冠して「長門」や「錦水」、「錦水漁叟」の文字を添えた署名をもつ作品が残されています。「錦水」から岩国の錦帯橋が架かる「錦川」が連想され、長門や周防岩国あたりに滞在していた時期があった可能性が考えられています。また「鵞湖」、「鵞湖漁叟」、「鵞湖逸士」などが用いられます。鵞湖というのは諏訪湖の別称で、61歳で下諏訪に家屋敷を購入すると年譜にあり、それ以降の作品に、たとえば「鵞湖王瑾」という組み合わせの署名がみられます。
なお「天龍道人」という署名は、70歳頃からのようです。諏訪湖を源流とするのが天龍川で、浜松辺りに流れ下って太平洋に注ぐのですが、この天龍川にちなんで「天龍道人」と称しました。「天龍道人」と署名をした作品で、制作時期が判明する一番早い作品は「天龍道人王瑾七十三歳筆」と署名された「鯉魚図」のようで、寛政2年(1790)作になります。「天龍道人」を名乗るのは、安永7年(1778)61歳にして下諏訪に家屋敷を購入して住みはじめてから約10年後のことになります。天龍道人は鯉を題材とした作品があり、諏訪湖の鯉を写したと画面に記された作品も残されています。鯉という題材も天龍道人が住んだ、諏訪湖にちなんだ題材です。
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60歳代のみずみずしい天龍道人の葡萄図は意外に希少価値もあり、入手しづらい作品群です。希少価値とともに作成時期の違う作品と比較して並べると冒頭の記述のように作風が違うのがよくわかります。
天龍道人の作品を蒐集し始めた当初は、なんでもかんでも見境なく作品を買い集めたものですが、現在はかなり選別して購入しています。蒐集当時は天龍道人の作品は廉価であったこともあり、かなりの数が集まりましたが、その経過とともに作品の出来不出来、保存状態、描いている対象・時期などからその作品の良しあしがだんだんと解るようになったきたと感じています。
本日の作品は天龍道人としては初期の頃の68歳作の葡萄図です。
葡萄図 天龍道人筆 68歳
紙本着色軸装 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦1990*横580 画サイズ:縦1280*横470
落款に「六十八翁 鵞湖王瑾写 押印」とあります。「鵞湖」とはむろん諏訪湖のことです。「天龍道人」と落款に記するようになったのは70歳頃からであり、それ以前の作品で現在遺っている作品数は非常に少ないと思われます。
天龍道人は姓は王、名は瑾であり、60歳代の作品では本作品のように「鵞湖王瑾」と落款に記していることが多いようです。
本作品に押印されている印章は「王瑾印」、「王公瑜」の白文朱方印であり、他の着色された所蔵作品「関羽(関羽周倉)図 天龍道人筆 70歳」と同一印章であり、印影もまったく同一です。
この頃の作品は葡萄の葉の墨の暈ぼかしが効いて潤いがあり、蔓やつるについても曲線がより流麗に仕上がっています。この頃の作品は「みずみずしい出来」と評され、渋味のある晩年の「枯淡の味のある作」と評される作品と好みの分かれるところです。
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天龍道人について
天龍道人の絵画制作の開始時期は明和8年(1771)54歳頃で、かなり年をとってから、絵画制作を始めたことになります。最も早い年記作品が明和8年の「菊図」で、画面に「辛卯中夏初二/虚庵道人写」と年記と署名があります。もう1点、同じ年の作品として、静岡県立美術館所蔵の「葡萄に栗鼠りす図」が知られています。「辛卯初秋虚庵源義教」と、おなじ「辛卯」の年記があり、初秋は7月で、「虚庵」の署名につづけて「源義教」と署名されています。
天龍道人の絵画学習については享和20年(1735)頃、18歳頃に「長崎で沈南蘋門人熊斐(神代繍江)に学ぶ」とされており、「信州仙人床」という史料を典拠とした推測のようです。絵画制作がはじまる54歳頃まで、20数年のブランクがあり、このブランクについて詳細については現在は不明です。
天龍道人の絵画制作は、54歳頃から死去する93歳近くまで、およそ40年間で、その期間をとおして葡萄画を描いています。その間の画風の変化をみてみますと、80歳代の作品に比して、50歳~60歳代の作品の方が葉の墨の暈ぼかしが効いて潤いがあり、蔓つるについても曲線がより流麗に仕上がっています。30年間の変化としては、それほど大きくはないとしても、細かくみると違いが観察されます。
署名は「天龍道人」が一般的ですが、天龍道人は姓が王で、名が瑾、字が公瑜と自ら名乗っており、「天龍道人」と記する前の署名には「王瑾」をはじめ、「王乙翁」、「乙翁王瑾」、「王瑾公瑜」、「王公瑜」などの署名がみられます。また、初期に「虚庵」、「虚庵道人」のほか「草龍子」や「源義教」という署名もみられます。「源義教」の署名については源義経の妾の子を祖先とすることにちなんだものと考えられます。晩年には足を折って不自由になった時期から「折脚仙」という号を使っています。
名の「瑾」については、「固くて美しい玉」という意味で「瑾瑜」も同じような意味で使われているようです。「王瑾」というのは、ひっくり返すと「瑾王」で、勤王思想の「勤王」と音通するところから、天皇親政を理想としていた道人が自らの名前にしたのではないかと想像されます。ほかに姓名や号に冠して「長門」や「錦水」、「錦水漁叟」の文字を添えた署名をもつ作品が残されています。「錦水」から岩国の錦帯橋が架かる「錦川」が連想され、長門や周防岩国あたりに滞在していた時期があった可能性が考えられています。また「鵞湖」、「鵞湖漁叟」、「鵞湖逸士」などが用いられます。鵞湖というのは諏訪湖の別称で、61歳で下諏訪に家屋敷を購入すると年譜にあり、それ以降の作品に、たとえば「鵞湖王瑾」という組み合わせの署名がみられます。
なお「天龍道人」という署名は、70歳頃からのようです。諏訪湖を源流とするのが天龍川で、浜松辺りに流れ下って太平洋に注ぐのですが、この天龍川にちなんで「天龍道人」と称しました。「天龍道人」と署名をした作品で、制作時期が判明する一番早い作品は「天龍道人王瑾七十三歳筆」と署名された「鯉魚図」のようで、寛政2年(1790)作になります。「天龍道人」を名乗るのは、安永7年(1778)61歳にして下諏訪に家屋敷を購入して住みはじめてから約10年後のことになります。天龍道人は鯉を題材とした作品があり、諏訪湖の鯉を写したと画面に記された作品も残されています。鯉という題材も天龍道人が住んだ、諏訪湖にちなんだ題材です。
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60歳代のみずみずしい天龍道人の葡萄図は意外に希少価値もあり、入手しづらい作品群です。希少価値とともに作成時期の違う作品と比較して並べると冒頭の記述のように作風が違うのがよくわかります。