
*2017年9月24日 追記
最近の「なんでも鑑定団」で小村大雲の作品が紹介されていたようです。本ブログでもなんどか紹介されている画家ですが、それほど著名でもない画家を取り上げたのには驚きました。また本ブログで最近改めて投稿されている山元春挙の作品も小村大雲の師として紹介されていました。それにしても評価額の現実離れした金額には改めてびっくりしますね。
さて本日は「森徹山」の作品の「その2」の紹介です。小生が好きな「鐘馗」を描いた作品であることと賛が著名な儒学者「菅茶山」であることが購入した大きな動機です。
鐘馗図 森徹山筆 その2・菅茶山賛
紙本水墨軸装 軸先象牙 合箱
全体サイズ:縦2400*横792 画サイズ:縦1370*横583

大幅いっぱいに描かれた「鐘馗図」です。なんともとぼけた鐘馗様ですね。「鐘馗図」は魔よけ、吉祥の図柄として好まれています。

何度も記載していますが、改めて鐘馗様の謂れをきしておきます。
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鐘馗:中国で広く信仰された厄除けの神。唐の玄宗皇帝が病床に伏せっていたとき、夢のなかに小さな鬼の虚耗(きょこう)が現れた。
玄宗が兵士をよんで追い払おうとすると、突然大きな鬼が現れて、その小鬼を退治した。そしてその大きな鬼は、「自分は「鍾馗」といって役人の採用試験に落弟して自殺した終南の者だが、もし自分を手厚く葬ってくれるならば、天下の害悪を除いてやろう」といった。

目が覚めるとすっかり病気が治っていたので、玄宗は画士に命じて鍾馗の姿を描かせ、以来、鍾馗の図を門にはり出して邪鬼悪病除けにするようになったという。

初めは年の暮れの習俗であったが、のちに5月5日に移り、図柄としては鍾馗が刀を振るってコウモリ(蝙蝠)を打ち落としているものが好まれた。これは蝠の字が福に通じることから、これによって福を得たいという気持ちを表現したものである。
この鍾馗の信仰は、日本にも伝わって室町時代ごろから行われ、端午の節供を通してなじみが深い。
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森徹山の作品はすでに下記の作品が本ブログで紹介されています。興味のある方は本ブログで検索してみて下さい。
瀧ニ猿公図 森徹山筆
絹本水墨着色軸装 軸先象牙 添状付二重箱
全体サイズ:縦1960*横510 画サイズ:縦110*横345

上記の作品についてですが、古来日本では、猿は神の使者と信じられています。そして、「サル」と「去る」の語呂合わせから、災いを取り去るという縁起物として知られていますし、また「落ちない」という意味からの縁起ものともされています。森徹山は縁起物の作品を多く描いた?
森徹山は応挙門下で応挙十哲の一人。また猿の絵で著名な森祖仙は叔父にあたり、森祖仙の養子になっている画家です。
*応挙十哲:応挙の門人のうち、下記の最も優れた10人をいう。
駒井源琦・長沢蘆雪・山跡鶴嶺・森徹山・吉村孝敬・山口素絢・奥文鳴・月僊・西村楠亭・渡辺南岳
本ブログではあくまでも真贋を別として、駒井源琦・長沢蘆雪・森徹山・吉村孝敬・山口素絢・渡辺南岳の六人の画家の作品を紹介しています。
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森徹山:生年: 安永4 (1775)~没年: 天保12.5.6 (1841.6.24)。 江戸後期の四条派の画家。大坂の人。大坂生。名は守真、字は子玄・子真、徹山は号。

森狙仙の兄周峰の子、森狙仙の兄の周峯の子で,狙仙の養子となった。父及び円山応挙に学び、応挙門下十哲の一人。
狙仙の勧めで、晩年の円山応挙について画を学んだ。狸などを飼って、その写生に励み、動物画家として名をなした。また好んで獅子,虎などを描いた。
狙仙の跡継ぎではあったが、狙仙の画風とは異なり、完全に円山派の画風によった。大坂に住んで京都と行き来し、円山派を大坂にひろめた。また江戸へ下り、京風の画を江戸に伝えた。のち大坂に帰り、熊本藩主細川氏の藩臣となる。
謹直、子ぼんのうで、子供の着物の模様の下絵を自ら描いたりしたという。門人の森一鳳、森寛斎は義子。67歳で没し、京都の帰命院に葬られた。
代表作に「双牛図屏風」(東京国立博物館蔵),「千羽鶴図屏風」(プライス・コレクション)などがある。
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補足
大坂船町(現在の大阪市大正区)で、森周峰の子として生まれる。寛政2年(1790年)徹山16歳時の『浪華郷友録』では、森周峰、森狙仙の次に徹山の名も記載されており、既に狙仙の養子となり、名の知られた絵師だったことがわかる。
狙仙の勧めで、晩年の円山応挙について画を学び、寛政7年(1795年)の大乗寺障壁画制作では、わずか21歳で小画面ながら『山雀図』を描いている。

徹山の妻はゑんといって京都の仏師・田中弘教利常の娘だったが、ゑんの姉・幸は応挙のあとを継いだ円山応瑞の妻であり、徹山と応瑞は義兄弟といえる。
大坂に住み、しばしば画家としても著名な木村蒹葭堂宅を訪ねている。また、大坂と京都と行き来し、円山派を大坂にひろめた。67歳で病没。墓は京都の帰命院と、大阪の西福寺にある。
画風は実父・周峰から学んだ狩野派と、養父・狙仙ゆずりの動物写生に円山派の写実を加味し、情緒性に富むのが特色である。

特に動物画を得意とし、狙仙のように猿だけでなく、あまり描かれない動物も巧みに描いている。応挙と応瑞の指導も受け、天保3年(1832)から9年間、京都御所の御用絵師を勤めるほど、有名になりました。本当に周峰と狙仙を合わせたような画風で、禁裏(きんり=皇居)のふすま絵や屏風等も描いています。
徹山には二子がいたが、共に妻の実家・田中家の養子となり、仏師となったため森派を継がなかった。
弟子に婿養子となった森一鳳、養子となった森寛斎、他に森雄山、和田呉山などがいます。

森祖(狙)仙から森徹山、森一鳳へと続く森派は、繊細な毛描きによる動物画を得意とし、近世大坂画壇における写生画派の代表として、重要な位置を占めていた。徹山は森派を継承した写生的で抒情性に富んだ作風といえる。
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円山派の二代円山応端と義兄弟、また弟子の「森一鳳」は「もうかるいっぽう」として人気のあった画家です。この画家も本ブログで紹介されています。
「菅茶山」についてはおそらく本ブログでは初めての紹介となります。文人画家らと交流があり、その関連から画家らとも交流があったと推察されます。
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菅 茶山(かん ちゃざん(さざん)):延享5年2月2日(1748年2月29日)~文政10年8月13日(1827年10月3日))。江戸時代後期の儒学者・漢詩人。諱は晋帥(ときのり)。字は礼卿。通称は太仲・太中。幼名は喜太郎、百助。

備後国安那郡川北村(現広島県福山市神辺町)の出身。農業・菅波久助の長子として生まれる。茶山が生まれ育った神辺は、山陽道の宿場町として栄えていたが、賭け事や飲酒などで荒れていた。
学問を広めることで町を良くしようと考えた茶山は、京都の那波魯堂に朱子学を学び、和田東郭に古医方を学んだ。
京都遊学中には高葛陂の私塾にも通い、与謝蕪村や大典顕常などと邂逅した。故郷に帰り、1781年(天明元年)頃、神辺(現在の福山市)に私塾黄葉夕陽村舎(こうようせきようそんしゃ)を開いた。皆が平等に教育を受けることで、貧富によって差別されない社会を作ろうとした。塾は1796年(寛政8年)には福山藩の郷学として認可され廉塾と名が改められた。
茶山は1801年(享和元年)から福山藩の儒官としての知遇を受け、藩校弘道館にも出講した。化政文化期の代表的な詩人として全国的にも知られ、山陽道を往来する文人の多くは廉塾を訪ねたという。
詩集『黄葉夕陽村舎詩』が刷られている。(復刻版は葦陽文化研究会編、児島書店、1981年(昭和56年))
廉塾の門人には、頼山陽・北条霞亭など多数。墓所は神辺網付谷にある。「廉塾ならびに菅茶山旧宅」は1953年(昭和28年)に国の特別史跡に指定された。
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賛の読み(一部当方では判読不能です)
遊印
終南進士姓□鐘 長剣峩□称鬼□
千戴於□□霊銎 家々□上突□瞳
百助 押印(「晋帥」朱文白累印)

賛には上部に遊印、下部には晋帥(ときのり)の累印が押印されています。落款は「百助?」・・。*→「普師」

*終南進士:鐘馗は唐の終南山に住む進士
日本では、江戸時代末(19世紀)ごろから関東で鍾馗を五月人形にしたり、近畿で魔除けとして鍾馗像を屋根に置く風習が見られるようになりました。京都市内の民家(京町家)など近畿〜中部地方では、現在でも大屋根や小屋根の軒先に10〜20cm大の瓦製の鍾馗の人形が置いてあるのを見かけることができます。
これは、昔京都三条の薬屋が立派な鬼瓦を葺いたところ向かいの家の住人が突如原因不明の病に倒れ、これを薬屋の鬼瓦に跳ね返った悪いものが向かいの家に入ったのが原因と考え、鬼より強い鍾馗を作らせて魔除けに据えたところ住人の病が完治したのが謂れとされています。
平成25年(2013年)12月、京都市東山区にある若宮八幡宮社の境内に日本初となる鍾馗を祭った鍾馗神社が創建されたそうです。
本作品は表具がなかなか立派な表具で、軸先も象牙が使われています。

天地の布地には龍の文様があしらわれています。

本作品は特大の鐘馗の作品で、菅茶山の賛・・・、ひとつは欲しいと思っていた鐘馗の作品ですが、当方ではずいぶんと作品数が多くなりました。

小生も縁起物好き・・・、それにしてもこの大きさ、長さ2.4メートルは本展示室でもぎりぎりの大きさです。
最近の「なんでも鑑定団」で小村大雲の作品が紹介されていたようです。本ブログでもなんどか紹介されている画家ですが、それほど著名でもない画家を取り上げたのには驚きました。また本ブログで最近改めて投稿されている山元春挙の作品も小村大雲の師として紹介されていました。それにしても評価額の現実離れした金額には改めてびっくりしますね。
さて本日は「森徹山」の作品の「その2」の紹介です。小生が好きな「鐘馗」を描いた作品であることと賛が著名な儒学者「菅茶山」であることが購入した大きな動機です。
鐘馗図 森徹山筆 その2・菅茶山賛
紙本水墨軸装 軸先象牙 合箱
全体サイズ:縦2400*横792 画サイズ:縦1370*横583

大幅いっぱいに描かれた「鐘馗図」です。なんともとぼけた鐘馗様ですね。「鐘馗図」は魔よけ、吉祥の図柄として好まれています。

何度も記載していますが、改めて鐘馗様の謂れをきしておきます。
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鐘馗:中国で広く信仰された厄除けの神。唐の玄宗皇帝が病床に伏せっていたとき、夢のなかに小さな鬼の虚耗(きょこう)が現れた。
玄宗が兵士をよんで追い払おうとすると、突然大きな鬼が現れて、その小鬼を退治した。そしてその大きな鬼は、「自分は「鍾馗」といって役人の採用試験に落弟して自殺した終南の者だが、もし自分を手厚く葬ってくれるならば、天下の害悪を除いてやろう」といった。

目が覚めるとすっかり病気が治っていたので、玄宗は画士に命じて鍾馗の姿を描かせ、以来、鍾馗の図を門にはり出して邪鬼悪病除けにするようになったという。

初めは年の暮れの習俗であったが、のちに5月5日に移り、図柄としては鍾馗が刀を振るってコウモリ(蝙蝠)を打ち落としているものが好まれた。これは蝠の字が福に通じることから、これによって福を得たいという気持ちを表現したものである。
この鍾馗の信仰は、日本にも伝わって室町時代ごろから行われ、端午の節供を通してなじみが深い。
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森徹山の作品はすでに下記の作品が本ブログで紹介されています。興味のある方は本ブログで検索してみて下さい。
瀧ニ猿公図 森徹山筆
絹本水墨着色軸装 軸先象牙 添状付二重箱
全体サイズ:縦1960*横510 画サイズ:縦110*横345

上記の作品についてですが、古来日本では、猿は神の使者と信じられています。そして、「サル」と「去る」の語呂合わせから、災いを取り去るという縁起物として知られていますし、また「落ちない」という意味からの縁起ものともされています。森徹山は縁起物の作品を多く描いた?
森徹山は応挙門下で応挙十哲の一人。また猿の絵で著名な森祖仙は叔父にあたり、森祖仙の養子になっている画家です。
*応挙十哲:応挙の門人のうち、下記の最も優れた10人をいう。
駒井源琦・長沢蘆雪・山跡鶴嶺・森徹山・吉村孝敬・山口素絢・奥文鳴・月僊・西村楠亭・渡辺南岳
本ブログではあくまでも真贋を別として、駒井源琦・長沢蘆雪・森徹山・吉村孝敬・山口素絢・渡辺南岳の六人の画家の作品を紹介しています。
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森徹山:生年: 安永4 (1775)~没年: 天保12.5.6 (1841.6.24)。 江戸後期の四条派の画家。大坂の人。大坂生。名は守真、字は子玄・子真、徹山は号。

森狙仙の兄周峰の子、森狙仙の兄の周峯の子で,狙仙の養子となった。父及び円山応挙に学び、応挙門下十哲の一人。
狙仙の勧めで、晩年の円山応挙について画を学んだ。狸などを飼って、その写生に励み、動物画家として名をなした。また好んで獅子,虎などを描いた。
狙仙の跡継ぎではあったが、狙仙の画風とは異なり、完全に円山派の画風によった。大坂に住んで京都と行き来し、円山派を大坂にひろめた。また江戸へ下り、京風の画を江戸に伝えた。のち大坂に帰り、熊本藩主細川氏の藩臣となる。
謹直、子ぼんのうで、子供の着物の模様の下絵を自ら描いたりしたという。門人の森一鳳、森寛斎は義子。67歳で没し、京都の帰命院に葬られた。
代表作に「双牛図屏風」(東京国立博物館蔵),「千羽鶴図屏風」(プライス・コレクション)などがある。
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補足
大坂船町(現在の大阪市大正区)で、森周峰の子として生まれる。寛政2年(1790年)徹山16歳時の『浪華郷友録』では、森周峰、森狙仙の次に徹山の名も記載されており、既に狙仙の養子となり、名の知られた絵師だったことがわかる。
狙仙の勧めで、晩年の円山応挙について画を学び、寛政7年(1795年)の大乗寺障壁画制作では、わずか21歳で小画面ながら『山雀図』を描いている。

徹山の妻はゑんといって京都の仏師・田中弘教利常の娘だったが、ゑんの姉・幸は応挙のあとを継いだ円山応瑞の妻であり、徹山と応瑞は義兄弟といえる。
大坂に住み、しばしば画家としても著名な木村蒹葭堂宅を訪ねている。また、大坂と京都と行き来し、円山派を大坂にひろめた。67歳で病没。墓は京都の帰命院と、大阪の西福寺にある。
画風は実父・周峰から学んだ狩野派と、養父・狙仙ゆずりの動物写生に円山派の写実を加味し、情緒性に富むのが特色である。

特に動物画を得意とし、狙仙のように猿だけでなく、あまり描かれない動物も巧みに描いている。応挙と応瑞の指導も受け、天保3年(1832)から9年間、京都御所の御用絵師を勤めるほど、有名になりました。本当に周峰と狙仙を合わせたような画風で、禁裏(きんり=皇居)のふすま絵や屏風等も描いています。
徹山には二子がいたが、共に妻の実家・田中家の養子となり、仏師となったため森派を継がなかった。
弟子に婿養子となった森一鳳、養子となった森寛斎、他に森雄山、和田呉山などがいます。

森祖(狙)仙から森徹山、森一鳳へと続く森派は、繊細な毛描きによる動物画を得意とし、近世大坂画壇における写生画派の代表として、重要な位置を占めていた。徹山は森派を継承した写生的で抒情性に富んだ作風といえる。
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円山派の二代円山応端と義兄弟、また弟子の「森一鳳」は「もうかるいっぽう」として人気のあった画家です。この画家も本ブログで紹介されています。
「菅茶山」についてはおそらく本ブログでは初めての紹介となります。文人画家らと交流があり、その関連から画家らとも交流があったと推察されます。
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菅 茶山(かん ちゃざん(さざん)):延享5年2月2日(1748年2月29日)~文政10年8月13日(1827年10月3日))。江戸時代後期の儒学者・漢詩人。諱は晋帥(ときのり)。字は礼卿。通称は太仲・太中。幼名は喜太郎、百助。

備後国安那郡川北村(現広島県福山市神辺町)の出身。農業・菅波久助の長子として生まれる。茶山が生まれ育った神辺は、山陽道の宿場町として栄えていたが、賭け事や飲酒などで荒れていた。
学問を広めることで町を良くしようと考えた茶山は、京都の那波魯堂に朱子学を学び、和田東郭に古医方を学んだ。
京都遊学中には高葛陂の私塾にも通い、与謝蕪村や大典顕常などと邂逅した。故郷に帰り、1781年(天明元年)頃、神辺(現在の福山市)に私塾黄葉夕陽村舎(こうようせきようそんしゃ)を開いた。皆が平等に教育を受けることで、貧富によって差別されない社会を作ろうとした。塾は1796年(寛政8年)には福山藩の郷学として認可され廉塾と名が改められた。
茶山は1801年(享和元年)から福山藩の儒官としての知遇を受け、藩校弘道館にも出講した。化政文化期の代表的な詩人として全国的にも知られ、山陽道を往来する文人の多くは廉塾を訪ねたという。
詩集『黄葉夕陽村舎詩』が刷られている。(復刻版は葦陽文化研究会編、児島書店、1981年(昭和56年))
廉塾の門人には、頼山陽・北条霞亭など多数。墓所は神辺網付谷にある。「廉塾ならびに菅茶山旧宅」は1953年(昭和28年)に国の特別史跡に指定された。
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賛の読み(一部当方では判読不能です)
遊印
終南進士姓□鐘 長剣峩□称鬼□
千戴於□□霊銎 家々□上突□瞳
百助 押印(「晋帥」朱文白累印)


賛には上部に遊印、下部には晋帥(ときのり)の累印が押印されています。落款は「百助?」・・。*→「普師」


*終南進士:鐘馗は唐の終南山に住む進士
日本では、江戸時代末(19世紀)ごろから関東で鍾馗を五月人形にしたり、近畿で魔除けとして鍾馗像を屋根に置く風習が見られるようになりました。京都市内の民家(京町家)など近畿〜中部地方では、現在でも大屋根や小屋根の軒先に10〜20cm大の瓦製の鍾馗の人形が置いてあるのを見かけることができます。
これは、昔京都三条の薬屋が立派な鬼瓦を葺いたところ向かいの家の住人が突如原因不明の病に倒れ、これを薬屋の鬼瓦に跳ね返った悪いものが向かいの家に入ったのが原因と考え、鬼より強い鍾馗を作らせて魔除けに据えたところ住人の病が完治したのが謂れとされています。
平成25年(2013年)12月、京都市東山区にある若宮八幡宮社の境内に日本初となる鍾馗を祭った鍾馗神社が創建されたそうです。
本作品は表具がなかなか立派な表具で、軸先も象牙が使われています。

天地の布地には龍の文様があしらわれています。

本作品は特大の鐘馗の作品で、菅茶山の賛・・・、ひとつは欲しいと思っていた鐘馗の作品ですが、当方ではずいぶんと作品数が多くなりました。

小生も縁起物好き・・・、それにしてもこの大きさ、長さ2.4メートルは本展示室でもぎりぎりの大きさです。