菊二美人之図 岡本大更筆 大正4年(1915年)
絹本着色軸装 軸先鹿角 東都華亭 大正6年識箱 壽禄堂主人旧蔵
全体サイズ:縦2150*横525 画サイズ:縦1225*横355
岡本大更の画歴は下記のとおりです。
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岡本大更(たいこう):日本画家。三重県生。名は直道。明治12年(1879)9月14日、名張郡滝之原村(現・名張市滝之原)で、父・多吉、母・まさの二男として生まれた。明治12年三重県名張市滝大更8歳の時、一家を上げて上京。
神童とうたわれた大更の美人画の境地をきりひらいた作風は「近代的な浮世絵」と激賞された。若い頃は貧しさのため師につかず、独学にて文部省美術展覧会などで入選を重ね、美人画の大家(近代的な浮世絵師)になった。
大更は、若くして名張の地を離れたため、伊賀地方では全く忘れ去られた存在となった。第八・九回文展、第一回院展に入選。人物画を得意とする。また音楽・演劇を好む。戦争が激しくなった同19年(1944)、後妻の郷里、香川県豊島に疎開。翌20年12月、疎開先で死去、満66歳でした。主に大阪に住した。
*妻の妹だった更園(こうえん・本名、星野延子)は、20歳で義兄大更の私塾「更彩画塾」で、日本画の手ほどきを受け、2年後の大正5年(1916)の文部省美術展覧会で初出品初入選に輝きました。のちに上京し、鏑木清方の門を叩き、女流画家として活躍しました。
*大更の長男・富久馬は更生(こうせい)と号して、京都絵画専門学校を卒業後、土田麦僊に師事し、大阪美術展覧会などに出品しました。戦後、当時の名張町で「桔梗ヶ丘学園」が開校されるや、日本画講師に就任し、名張地方の画家仲間で結成した「コンパル画会」に参画するなど活躍したが、昭和55年(1980)、74歳で没しました。
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本人義理の妹、子息が画家ということですね。岡本更園の作品は本ブログに投稿されています。
岡本大更の画名が著名になったのは、大正4年(1915年)に文展に力作である「無花果」を出品し、入選を果たしたことによります。美人画は「近代的な浮世絵」と激賞されたとされます。
ただし郷里である名張や上野では評価が今一つであったようで、妖艶な美人画が格調高い城下町の風土に拒まれたようです。
岡本大更の作品は郷里にはほとんど存在しないのは稀有ですね。
平成15年になって「日本画家 岡本大更 その画業と更生・更園」という画集が郷里の方の尽力で発刊されています。
落款と印章は下記のとおりですが、大正10年頃の作と推定しましたが、下記の巻止や箱書きから大正4年の作と思われます。この頃の作品はモノクロの写真のみが遺る作品が多く、貴重であるかもしれません。
箱には「大正丁巳歳暮 東都華亭之観 押印」とあり、大正6年(1917年)に箱書されたと推定されますが、「東都華亭」と称された人物についての詳細は不明です。
巻止には「岡本大更 美人之図 大正4年揮毫 壽禄堂主人秘蔵」とあります。
*なお大正4年には第9回文展で「無花果」が入選しています。
**揮毫:「揮」はふるう、「毫」は筆の意。毛筆で文字や絵をかくこと。特に、知名人が頼まれて書をかくこと。どなたかに頼まれた描いた可能性がありますが、「壽禄堂主人」という人物も不明であり、仔細は残念ながら不明です。
本作品は1万円以下での入手、市場でも出来の良い作品は数万円で入手できます。画集になりながらもコスト的には手頃な画家かもしれません。