年末の庭掃除で家内が見つけてきた蛇の脱皮後の抜け殻・・。なぜかしら黄金虫まで付いている・・。息子と小生の干支は巳であり、これは縁起物・・・
回収して桐箱に収めて神棚へ祀ることと相成りました。桐箱は寸法間違いで使っていない箱がありましたのでそのひとつを使いました。
さて本日は本ブログで幾つかの作品を紹介してきた大橋翆石の作品ですが、本日紹介する明治30年代の作品は残存数が少なく貴重とも言えるでしょう。
雪中一声 大橋翠石筆 明治31年(1898年)頃
絹本水墨淡彩軸装 共箱二重箱 三尾呉石鑑定箱 軸先本象牙
全体サイズ:横650*縦1950 画サイズ:横495*縦1160
分類A.青年期から初期 :1910年(明治43年)夏まで ~46歳
月下の虎というのは好んで描かれる題材のようです。
画集には下記のような作品も掲載されています。
大橋翆石の大正以降の作品は数多くありますし、それらは書き込みの多い秀作ではありますが、西洋画風を取り入れ、いかにも大橋翆石という感じで面白味が少ないという好みの方もおられるようです。
その点では本ブログで紹介した下記の作品は初期の作で非常に出来の良い面白味のある作品と言えましょう。
正面之虎 大橋翠石筆 明治40年代(1907年)頃
絹本着色軸装収納箱二重箱 所蔵箱書 軸先本象牙
全体サイズ:横552*縦2070 画サイズ:横410*縦1205
分類A.青年期から初期 :1910年(明治43年)夏まで ~46歳
画面いっぱいに描かれた虎の顔は異質のように感じる作品ですが、大橋翠石の傑作中の傑作と言えましょう。
さらには大正初年頃の下記の作品も面白いですね。
臥乕之図 大橋翠石筆
絹本着色軸装 軸先本象牙 自署鑑定共箱
全体サイズ:横640*縦2140 画サイズ:横490*縦1246
こちらの作品の虎の顔の表情もいいですね。
明治40年頃の描かれたと思われる作品を並べて愉しんでいます。虎の各々の表情が見所となっています。
本日の作品も虎の表情が見どころとなっています。
本作品で特筆すべきは銀粉がふんだんに使われて、雪の表現とともに画面に華やかさ?があることです。かなりの力作と判断しました。毛並みの表現は触りたくなるほどふんわりとした見事な描写です。
この時代の共箱ならば 大垣の文錦堂の表具とされる?らしいですが、そうかどうかは当方ではよくわかりせん。
一カ所に折れがあり、改装の要否は判断の迷うところですが、改装にしても締め直し(現在の表具材のまま)が基本としなくてはいけないでしょう。
一応は共箱にて、二重箱に収められています。
共箱ですが、さらに門下である三尾呉石の鑑定が記されています。
ちなみに三尾呉石の画歴は下記のとおりです。
*********************************************
三尾呉石:(みお ごせき)1885年(明治18年)5月10日~1952年(昭和27年)1月。東京府(東京市日本橋本町)に生まれる。本名は秀太郎。
15歳の時に上野の院展の前身、日本美術協会に初めて出品した際、時の農商務大臣金子堅太郎にその画才を認められ、岐阜の動物書家。大橋翠石の元に送られ専心画道への精進いそしんだ後、翠石に師事して四条派を学ぶ(当時の日日新聞、都新聞の記事にて)。
東京勧業博覧会に《猛虎》で三等賞杯受賞、文展に《寒風猛威》《村芝居》で入選、その後研鑽怠らず院展、文展、日本美術協会展出展に数回にわたり入選する。
関東大震災に被災し、1923年(大正12年)には埼玉県浦和市に移住。浦和画家の一人として数えられるようになった。また、トラの研究のために満州、朝鮮に寒帯の勇虎を、インド、アラビア地方に熱帯の猛虎を数年間、写生行脚し帰国後も専ら虎専門に彩筆を振るう。
日月会幹事、巽画会、浦和土曜会の会員。 戦前日本一の「虎の呉石」と称えられた。先祖は近江滋賀にある三尾神社神主一族で、江戸時代初期に江戸に移り住む。二男二女。長男に日本画家正豊(日本橋本町生まれ)東京美術学校を首席で卒業後、横山大観に可愛がれ師事したが、結核で若くして亡くなる。長男の死は呉石をひどく落胆させた。次男に同じ日本画家・浦和画家の三尾彰藍(浅草阿倍川町生まれ、東京美術学卒)がいる。長女輝子(後春子、日本橋本町生まれ)の夫は医師井上一男、次女英子(浅草阿倍川町生まれ)の夫は文化勲章受章者津田恭介。
*********************************************
明治31年「瑞草鯉江幟之図」の落款と印章は下の写真右です。落款の書体が一致することからこの時期の作と推定され、「正面の虎」や「臥乕之図」より前の作で、大橋翆石としては修行と模索の時代から連続受賞と画風昂揚の時代へ、「大垣時代前期から後期」の時代に属する一作と判断しています。
明治43年までの作品の落款は「点翆石」の落款と称され、それ以降は「石」への点がなくなります。これは大橋翆石の作品を描いた時代判別には必須の知識のようです。
印影は必ずしも図鑑のものが正しいとは限りません。下の写真右が図集、左が本作品ですが、図集のほうが違和感のあるものです。本作品に押印された印章のほうが真印です。
*印章は紙質、絹本、さらには年代で修正したりして変化します。真贋の判断であまりに印章にこだわりすぎるのはよくありませんね。
さて高値の作の後期の作品よりも初期の作に魅力に感じるのは天邪鬼か・・・?? もの良し悪しはこの世はすべて個人の価値観、蛇の抜け殻も縁起物となるか否かと同じこと・・??
この作品を描いた後に出品した1900年のパリ万博にて、橋本雅邦、黒田清輝、横山大観、下村観山、竹内栖鳳、上村松園ら94人の日本からの出品中で、唯一大橋翆石が金賞を受賞しています。
回収して桐箱に収めて神棚へ祀ることと相成りました。桐箱は寸法間違いで使っていない箱がありましたのでそのひとつを使いました。
さて本日は本ブログで幾つかの作品を紹介してきた大橋翆石の作品ですが、本日紹介する明治30年代の作品は残存数が少なく貴重とも言えるでしょう。
雪中一声 大橋翠石筆 明治31年(1898年)頃
絹本水墨淡彩軸装 共箱二重箱 三尾呉石鑑定箱 軸先本象牙
全体サイズ:横650*縦1950 画サイズ:横495*縦1160
分類A.青年期から初期 :1910年(明治43年)夏まで ~46歳
月下の虎というのは好んで描かれる題材のようです。
画集には下記のような作品も掲載されています。
大橋翆石の大正以降の作品は数多くありますし、それらは書き込みの多い秀作ではありますが、西洋画風を取り入れ、いかにも大橋翆石という感じで面白味が少ないという好みの方もおられるようです。
その点では本ブログで紹介した下記の作品は初期の作で非常に出来の良い面白味のある作品と言えましょう。
正面之虎 大橋翠石筆 明治40年代(1907年)頃
絹本着色軸装収納箱二重箱 所蔵箱書 軸先本象牙
全体サイズ:横552*縦2070 画サイズ:横410*縦1205
分類A.青年期から初期 :1910年(明治43年)夏まで ~46歳
画面いっぱいに描かれた虎の顔は異質のように感じる作品ですが、大橋翠石の傑作中の傑作と言えましょう。
さらには大正初年頃の下記の作品も面白いですね。
臥乕之図 大橋翠石筆
絹本着色軸装 軸先本象牙 自署鑑定共箱
全体サイズ:横640*縦2140 画サイズ:横490*縦1246
こちらの作品の虎の顔の表情もいいですね。
明治40年頃の描かれたと思われる作品を並べて愉しんでいます。虎の各々の表情が見所となっています。
本日の作品も虎の表情が見どころとなっています。
本作品で特筆すべきは銀粉がふんだんに使われて、雪の表現とともに画面に華やかさ?があることです。かなりの力作と判断しました。毛並みの表現は触りたくなるほどふんわりとした見事な描写です。
この時代の共箱ならば 大垣の文錦堂の表具とされる?らしいですが、そうかどうかは当方ではよくわかりせん。
一カ所に折れがあり、改装の要否は判断の迷うところですが、改装にしても締め直し(現在の表具材のまま)が基本としなくてはいけないでしょう。
一応は共箱にて、二重箱に収められています。
共箱ですが、さらに門下である三尾呉石の鑑定が記されています。
ちなみに三尾呉石の画歴は下記のとおりです。
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三尾呉石:(みお ごせき)1885年(明治18年)5月10日~1952年(昭和27年)1月。東京府(東京市日本橋本町)に生まれる。本名は秀太郎。
15歳の時に上野の院展の前身、日本美術協会に初めて出品した際、時の農商務大臣金子堅太郎にその画才を認められ、岐阜の動物書家。大橋翠石の元に送られ専心画道への精進いそしんだ後、翠石に師事して四条派を学ぶ(当時の日日新聞、都新聞の記事にて)。
東京勧業博覧会に《猛虎》で三等賞杯受賞、文展に《寒風猛威》《村芝居》で入選、その後研鑽怠らず院展、文展、日本美術協会展出展に数回にわたり入選する。
関東大震災に被災し、1923年(大正12年)には埼玉県浦和市に移住。浦和画家の一人として数えられるようになった。また、トラの研究のために満州、朝鮮に寒帯の勇虎を、インド、アラビア地方に熱帯の猛虎を数年間、写生行脚し帰国後も専ら虎専門に彩筆を振るう。
日月会幹事、巽画会、浦和土曜会の会員。 戦前日本一の「虎の呉石」と称えられた。先祖は近江滋賀にある三尾神社神主一族で、江戸時代初期に江戸に移り住む。二男二女。長男に日本画家正豊(日本橋本町生まれ)東京美術学校を首席で卒業後、横山大観に可愛がれ師事したが、結核で若くして亡くなる。長男の死は呉石をひどく落胆させた。次男に同じ日本画家・浦和画家の三尾彰藍(浅草阿倍川町生まれ、東京美術学卒)がいる。長女輝子(後春子、日本橋本町生まれ)の夫は医師井上一男、次女英子(浅草阿倍川町生まれ)の夫は文化勲章受章者津田恭介。
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明治31年「瑞草鯉江幟之図」の落款と印章は下の写真右です。落款の書体が一致することからこの時期の作と推定され、「正面の虎」や「臥乕之図」より前の作で、大橋翆石としては修行と模索の時代から連続受賞と画風昂揚の時代へ、「大垣時代前期から後期」の時代に属する一作と判断しています。
明治43年までの作品の落款は「点翆石」の落款と称され、それ以降は「石」への点がなくなります。これは大橋翆石の作品を描いた時代判別には必須の知識のようです。
印影は必ずしも図鑑のものが正しいとは限りません。下の写真右が図集、左が本作品ですが、図集のほうが違和感のあるものです。本作品に押印された印章のほうが真印です。
*印章は紙質、絹本、さらには年代で修正したりして変化します。真贋の判断であまりに印章にこだわりすぎるのはよくありませんね。
さて高値の作の後期の作品よりも初期の作に魅力に感じるのは天邪鬼か・・・?? もの良し悪しはこの世はすべて個人の価値観、蛇の抜け殻も縁起物となるか否かと同じこと・・??
この作品を描いた後に出品した1900年のパリ万博にて、橋本雅邦、黒田清輝、横山大観、下村観山、竹内栖鳳、上村松園ら94人の日本からの出品中で、唯一大橋翆石が金賞を受賞しています。