夜噺骨董談義

収集品、自分で作ったもの、見せていただいた品々などを題材に感想談など

お気に入りの作品 聖観音 荒井寛方筆

2021-01-04 00:01:00 | 掛け軸
大みそかは晦日祓い・・・。神々をお祓い後、家じゅうの部屋を祓います。



「晦日祓い」と何度も唱えながら家じゅうを回ります。その後に北東に向かって祓いを立てておきます。これは男の役目、このような風習はだんだんなくなっていくのかな? 神仏に対する畏敬の念が薄れたせいか、居住空間、家族構成の変化か? いくら自然に対して畏敬の念があっても、このような風習を軽視しては言葉だけでは元も子もないようにも思える。



近代日本画における仏画の代表格は村上華岳だと称せられますが、荒井寛方や石川晴彦らも仏画の作品では一目置かれる画家だと思います。本ブログでも両者の仏画の作品を紹介していますが、本日は荒井寛方の作品の紹介です。



聖観音図 荒井寛方筆
紙本水墨淡彩絹装軸 仏具表具 共箱
全体サイズ:縦1415*横575 画サイズ:縦400*横435



「仏画の寛方」と称せられた荒井寛方の画歴は下記のとおりです。

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荒井寛方:(あらい かんぽう)明治11年(1878年)8月15日 ~ 昭和20年(1945年)4月16日)。近代の日本画家。本名は寛十郎。栃木県塩谷郡氏家町(現在のさくら市)生まれ。院展同人。紋所や提灯の上絵を描く家に生まれる。父・藤吉は素雲と号し、瀧和亭に師事して南画を学んでいた。

明治32年(1899年)瀧和亭の勧めで水野年方に入門、歴史画・風俗画を学ぶ。翌年、年方から「寛方」の号を与えられ、同門の四天王の一人と称される。四天王は鏑木清方、池田輝方、榊原蕉園らで鏑木清方は兄弟弟子となります。

明治34年(1901年)第10回日本絵画協会共進会に風俗画「温和」を出品し、2等褒状を受け、以後同会で受賞を重ねる。翌35年(1902年)国華社へ入社、同社出版の古美術雑誌『国華』で掲載する木製複製図版用に、仏画模写の仕事を通じて画家として修練を積んだ。

第一回文展に「菩提樹下」が入選し、第二回から第四回展まで連続受賞。この頃巽画会や紅児会にも参加し、原三渓の庇護を受ける。



大正3年(1914年)再興第一回院展で「暮れゆく秋」(さくら市ミュージアム蔵 荒井寛方記念館)を出品し、院友となる。

翌年、第二回展の「乳糜供養」では、スジャータが粥を釈迦に捧げる場面を描いて、院の東洋主義的理想とも合致し、中村岳陵・冨田溪仙と共に同人に推される。以後は院展で活躍した。

大正5年(1916年)詩人のラビンドラナート・タゴールに招かれて、ビチットラ美術学校の絵画教授としてインドに渡り、アジャンター石窟群の壁画などを模写。大正7年(1918年)帰国後は、仏教関連に多く題材を得て院展を中心に作品を発表、「仏画の寛方」と呼ばれ、大正期院展の傾向であるインド的趣向の代表者として認められた。

大正13年(1924年)から翌年にかけて、中国を訪問。この頃から画風が変わり、伝統的な日本の古典に取材するようになる。

大正15年(1926年)、渡欧しローマの遺跡などを訪問。

昭和15年(1940年)から法隆寺金堂壁画の模写事業の主任画家に選ばれ、春秋は斑鳩の里の阿彌陀院に住み模写に力を注いだが、昭和20年福島県郡山駅で急逝し、完成を見ることはなかった。

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荒井寛方の最大のスポンサーは著名な三渓園のオーナーである原三渓氏です。



箱書きには「戊辰仲秋」とあり、1928年(昭和3年)、荒井寛方が55歳の時に描いた作品と推定されます。

  

きちんとした仏具表具が誂えられています。



なんとも品格の良い作品です。当方の所蔵品の中でも特に気に入っている作品のひとつです。蒐集作品は最低でもこの程度のレベルの作品ばかりにしたいと思っていますが・・。

さて、仏にしても神にしても、祀るところに時とともに宿るもの・・。



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