母が寝室として使っていた部屋はそろそろ当方の使いやすいようにするために、母の遺品類を少しずつ処分しながら、寝室のレイアウトを直していますが、今回は5月の連休前にトップライト下に総ヒノキの机を誂えました。
留守にしながら、友人に頼んでの取付でしたが、まあまあイメージ通りです。
椅子は古いミシン用のものです。早速、息子が休みの宿題をやるために使っていました。故郷の山々が見えるようになっているトップライトです。
さて本日紹介する作品は絽(ろ)に描いた作品です。これほど細長い絽(ろ)は長襦袢・・???
ご存知の方は多いと思いますが、そもそも「絽」とは・・・。
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絽(ろ):綟り織(もじりおり)で織られる、薄く透き通った絹織物の一種。江戸時代に夏の衣料に用いる生地として発展した織物で、紗の変形に当たる。
大きく分けて、生糸で作る生絽と半練り糸で作る練絽があり、糸の使い方や織り方などによって数多くの種類がある。通気性が高いので、夏物の着物、帯、袋物などに使われる。
基本的な織り方は羅や紗と共通するが、絽は7・5・3本おきに横糸に2本の縦糸を交差させて織っていくもので、織り上がったものはそれぞれ七本絽・五本絽・三本絽と呼ぶ。産地としては大聖寺・桐生・八王子などが有名。
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増原宗一の作品は本ブログで「その2」(2作品目)となりますね。
燕図 増原宗一筆 その2
絹本水墨着色軸装 軸先塗 誂箱
全体サイズ:縦1733*横390 画サイズ:縦843*横305
増原総一の略歴は下記のとおりです。
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増原 宗一:(ますはら そういち、生没年不詳)は大正時代から昭和時代の日本画家。鏑木清方の門人です。本名は咲次郎。山口県に生まれる。巽画会に咲二郎の名で「読売」と称し、昔辻々に市井の出来事を瓦版に刷って売り歩いた姿を出したことが縁で清方に入門している。
1917年に開催された第1回芸術社展に「舞」、「春の怨」、「三の糸」を出品、以降、第2回同展に「悪夢」、「華魁」、「舞子」、「悪魔」、「菖蒲湯」を、第3回同展に「虚無僧」、「思い思い」などを出品したことが知られています。
また、1917年5月の第3回郷土会展に増原咲次郎として「うつつ」及び「紅がん」を出品した後、1919年には一月会に「初音」、「鷺娘」などを出品しています。
1921年には日本橋倶楽部において増原宗一自作展覧会が開催され、この時には『宗一画集』が出版されています。
その後、1922年1月の第7回郷土会展に「馬の願い」、
1924年3月の第9回郷土会展に「人魚の嘆き」を、
1925年5月の第10回郷土会展に「八重垣姫」、「旅僧」を、
1926年5月の第11回郷土会展に「宵の金春」、「蛍飛ぶ頃」を出品。
そして、翌1928年5月17日から21日に日本橋三越において開催された第13回の郷土会展には宗一の遺作として「悪夢」及び「誇り」が出品されており、同年頃、死去したとされています。
耽美で怪異な作風が特長で、鏑木清方が「こしかたの記」の中で「増原は谷崎潤一郎の『人魚の嘆き』や歌舞伎十八番『けぬき』に登場する鏡の前などを彷彿とさせる怪奇な作風を好んだ」と書き残しています。
なお、2006年に星野画廊において、『夭折した幻の大正美人画家 没後78年 増原宗一遺作展』が開催され、14点展示されました。
増原宗一については残念ながらその略歴を記録したようなものはないようです。その生年や出身地さえさだかではないとされています。わずかに師である鏑木清方がその画塾展である「郷土会」について記した文章のなかに、「増原宗一は咲二郎の画名で巽画会に「讀賣」と云って昔辻々に市井の出来ごとを瓦版に刷って売りあるいた姿を出した時、それが縁となって門に入ったので、この人には谷崎さんの「人魚の嘆き」だとか歌舞伎十八番の「鑷(けぬき)」に出る、髪の逆立つ病に悩む錦の前だとか怪異な作風を好んだがその人はいつも身形(みなり)を整へ行儀も正しかった。」(「郷土会」『続こしかたの記』中央公論美術出版、昭和42年)と、紹介があるのみです。
増原が若いとき参加した「巽画会」は、明治37年に出来た美術団体で、当初は日本画家の集まりであり、主に院展系の作家が多く参加していました。今村紫紅、石井林響、上原古年といった「紅児会」のメンバーたちもこの巽画会の中堅幹部でした。増原の師となる清方もこの巽画会の活動には深い関わりをもっていたし、伊東深水はじめ多くの清方門下の画家たちも出品していました。またこの巽画会の若手画家たちは大正のはじめに「自由絵画展覧会」という、きわめて実験的な内容もふくむ展覧会も開催しています。のちに「未来派美術協会」の中心的な存在としてその活動に参加する伊藤順三(村田丹陵門下)、普門暁(当時は暁水と号した)、萩原青紅、木下茂(ともに尾竹竹坡門下)らは、当時における巽画会の若手の急先鋒であり、画会の研究会の中心メンバーであったとされます。
増原は同じ世代とみられるこうしたメンバーと、非常に近い位置にいたようです。増原は未来派の活動にこそ参加はしませんでしたが、大正8年1月に普門暁、林倭衛ら若手洋画家によって結成された「一月会」に日本画家として参加しています。ここには関根正二が出品していたし、増原が出品した日本画部には萬鉄五郎が<山水>など3点を出品していたようです。増原はここに<初音>、<鷺娘>などを出品し、とくに<初音>は「ビアズレイ風で稍要領を得」(「一月会短評」『東京朝日新聞』大正8年1月13日)と評されています。
こうした活動は、増原の前衛的な内容もふくむ同時代絵画への共感を示すものであって、むしろ彼の寄って立つ所はあくまで日本画であったようです。
一月会の結成に先立つ大正6年に「芸術社」という団体の結成に参加しています。この団体は織田観潮、小山栄達、町田曲江といった当時の文展日本画の中堅どころが集まった会でしたが、実際に作品を出したのかどうかは不明ながらも、その発起者を見ると北野恒富、山口草平、岡本大更、幡恒春など、かなりの曲者も名を連ねていた一風変わった団体でもあったようです。(「芸術社起る」『都新聞』大正6年4月9日)
増原の志向は、明らかに前者の画家たちよりも後者の画家たちに近いものだったといえるようです。実際その出品作は、他の出品作とはかなり異なったもので、その耽美的な雰囲気や凄みが、見るものの注目を集めたようであり、各新聞や雑誌の展覧会評においてもそのことを指摘するものが多かったとされてます。
これら小グループへの参加はあったものの、増原の主たる作品発表の場は、清方門下の画塾展である「郷土会」であったといえます。当時の清方は、たとえばベックリンの作品との共通性を批判された大正9年制作の<妖魚>に象徴されるように、世紀末的な、あるいはある種耽美的な雰囲気をもった作風を展開しています。こうしたなかで、その門下の画家たちも多くは美人画中心ではあるが、妖艶で耽美的な感覚あふれる作品を発表していました。伊東深水、寺島紫明、大林千萬樹、小早川清、西田青坡などはとくにそうした官能性の強い美人画を出品していましたが、そのなかにあっても増原の描く美人は、独特な雰囲気をもったものとして師の清方も一目置いていたのだろうと思われます。
この郷土会展の内容についてはまだ十分に資料がそろっていないため、増原の出品の状況もはっきりとはわかってませんが、大正4年6月の第1回展の段階では、まだこの会へは出品はしていなかったと思われます。おそらく増原がこの郷土会展へ出品をはじめるのは、大正6年5月の第3回展からであろうとされています。ということは清方の門下となったのも、この頃からと考えていいのでしょう。
『宗一画集』で紹介されている作品は、すべて大正10年に日本橋倶楽部で開催された個展に出品されたものです。序文にも記されていますが、浅井倍之助なる人物からの依頼画に数点の旧作を加えたものであったようですが、その旧作というのが、<舞><三の糸><悪夢><華魁>といった作品かもしれません。星野画廊での出品作と、『宗一画集』とをあわせ見れば、ほぼ増原宗一の制作のあり方を把握することはできます。
清方というよりは、恒富の画風を髣髴とさせる<舞>や<三の糸>から、<悪夢>あたりからその作風に一層凄みが出てきて、<華魁>では細面に筋のように切れ長の目を描く増原独特の美人の顔貌表現が出来上がっています。一方その描く植物はというと、いずれも通り一遍ではなく、いわくありげに自己主張したものばかりです。また<観自在>などでは、その茫洋とした画面が世紀末の雰囲気を強く漂わています。たしかに師の清方が言うごとく、怪異で耽美的な感覚を強くにじませる作品ですが、作品そのものの雰囲気はけっしてどろどろとした退廃的なリアリズムを感じさせるものではありません。むしろそこには古典的、文芸的な趣向と品格を見て取ることが可能なようです。清方が「いつも身形を整へ行儀も正しかった」と述べる増原の姿も、こうした雰囲気を伝えるように思えます。
昭和3年12月に増原の遺作展が開催されていますが、おそらく彼は同門の伊東深水らなどと同世代であったろうことから、絵描きとしてまさに20代から30代にかけての脂の乗り始めた時期に亡くなったことになります。歴史にもしもは禁句でしょうが、もし彼がその後も画家としての歩みを続けることができていたら、どのような美人画を描いたのだろうか。はたして昭和の時代意識を鋭く反映した制作を展開できたかのだろうか。そんな推測はともかくも、遺作展以来はじめてとなる近年の増原宗一の作品展示がきっかけとなって、さらなる彼の代表作の出現を期待したいものです。
当方で紹介している作品もまた小品ながら新たな作品なのでしょう。