Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

イエス家の三つ以上の棺

2007-03-01 | マスメディア批評
キリストの墓が話題になっている。結論から言えば、映像制作会社とそれをして商売としている学者の話題作りのようだ。

プレス向けの試写会は、米国では既に済んで、英米に続きドイツでは聖金曜日にプロ7と称する商業放送グループがTV放映する。制作監督は、最近タイタニック号難破リメイク映画で商業的に成功して名を挙げたジェームス・カメローンであり、ディスカヴァリーチャンネルの制作なので、一般大衆を躍らせる術は十分心得ているといわれる。

二十七年以上前の発掘からそれを今回キリストの墓とする論拠は、遺骨箱に彫られていた名前のようである。その名前自体は、1994年に正確なリストが提示されていて、そこに今回の二人の学者、ジェームス・タボールシモン・ギブソンは依拠している。つまり、ヤシュア・バル・ヤセーフ、つまりヨセフの倅イエス、マティア、ヨセをイエスの家族とする。しかし、ヤシュア・バル・ヤセーフ自体は、一世紀に頻繁に表れた名前であり、既に1926年にこの名の遺骨が見つかっている。

そのような事から、今回の話題作りは、専門家をシャットアウトして、アカデミックな領域から遠ざかっているのが特徴と言う。だからこのような研究発表には、批判や怒り以上に、嘲笑やドキュメンタリー捏造の容疑がかかっている。

主な主張とそれに対する糾弾は以下の様である。

根拠として挙がる三人の名前が揃う数学的確率は、一味のトロント大学教授によって六百分の一と計算されているが、統計母体を明らかにした専門的な統計として審査されるとでっちあげに違いないとするのはライデン大学のイエス時代のパレスチナ埋葬の専門家ユルゲン・ツァンゲンベルクである。さらに厳しいのはイスラエルのベングリオン大学のグンナー・レーマンで、「イエスの墓の連中は、まるで一流の専門家の顔をして、錚々たる学者の出番を待ち構えているような勝負師で、告訴ものだ」と述べて、「ギブソンとターレンは大恥を掻き、笑止千万ものだ」としている。

1980年に自ら発掘にあたった考古学者アモス・クロナーは、お行儀良く距離を置いているが、先ほどのツァンゲンベルク氏は、ギブソンとターレンの主張である「ユダヤのミリアムをマリアとする表記はこの場合大変珍しい」とするのはタールイランの支配を見れば珍しくないと誤りを指摘する。同様に、「それを、ハ-ヴァードの有名教授フランシス・ボーフォンをして、四世紀のグノシス、所謂フィリップス文書を根拠とする」とするタボールを指して、「イエスの時代にはなんら歴史的文献価値の無いフィリップス文書を挙げる者が、専門課程で学ぶ事が出来たものだ、博士号すら疑わしい」と一刀両断するのはアウグスブルクの、グノシス学者で教会史のグレゴール・ヴストである。

もう一つの論拠となっているDNS鑑定を伴う家族構成も、論理的な短絡でしかなく、端的に「薄弱」であるとされる。しかし墓に骨があると言うのは福音に沿わない反面、ヨハンネスによる福音13.23に相当する。

― イエススのすぐ隣には、弟子たちの一人で、イエススの愛していた者が席に着いていた。―

つまりイエスの息子である。

もともと、ギブソンとタボールは、バプテスマのヨハネの洞窟を数年前に発見して、2006年に、― 有識者には二世紀のアンチキリストの哲学者ツェルススを模倣したとばれている ― イエスをローマ帝国のユダヤ人部隊の倅とする「イエスの帝国」を出版している。だからこの札付きの二人のやることに学術的な価値は端から無いとされる。

さてここからが本題である。それならば、なぜこうした「カメローン・コード」が捏造とマーケッティング専門家の格好の商売となるか?それも、消極的で懐疑的なプロテスタント信者やその社会に訴えかけるだけでなく、世界中の市場を狙えるのか?

一つには、この該当記事にあるように、時代に即した代用神学では、敬虔な学術的経験論はコードを即答するには役立たず、尚更考古学もそれに当たるからである。謂わば、復活の情景は歴史的に解明するものでなく、そうではあらなければいけないものであって、あったとかあるとかの事象ではない。歴史修正主義にも一脈通じるような定理無き証明のように見えるがどうであろうか?

これを捏造によって事実を明かそうとするのは愚の骨頂だとしても、商業報道や報道制作は、そもそも政府の報道機関に対照して位置していて、テーゼに対してアンチテーゼの二項対立もしくは権威に対する反権威等々の姿勢が自由市場の中で切磋琢磨する事によって淘汰されるシステムになっている。その自然淘汰が存在の根拠ともなっているが、今回のような企画はどうも事情が少し違う。

それは、二元論的なもしくは構造的なドグマなどに対して、非構造的なもしくはアンチドグマの姿勢を採る事で価値が生まれるとするポストモダーン時代にも有効な企画意図が存在していて、それを市場が喜んで受け入れる現象となっている。しかしである、そこにはその企画自身を内包した、― 例えばWIKIのような ― 包括的で構築的な批判精神は一切存在しない。なぜならば、そこでは大衆に見せかける似非権威が明確に射影されていて、そもそも誰かがその影から復活する前提が存在しないからである。



参照:
Der Cameron-Code von Ulf von Rauchhaupt, FAZ vom 26.2.2007
二元論の往きつく所 [ 文学・思想 ] / 2006-04-16
毒にも薬にもならぬ話題 [ 文化一般 ] / 2006-05-20
コメント (2)
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