ライカカメラのエルンスト・ライツが注目を集めている。もう一人のシンドラーと題する記事を読む。
ライツ氏は、家族同名の二代目エルンストで1920年に父親の後を受けて、社長の座に収まっている。経営者としての手腕があった様だが、あまり情報が無いのは、多くのナチスドイツと関わっていた古い企業がこの時代をあまり語らないのと共通している。ライカ社訪問の際も戦時下の様子は手短に述べられていたような記憶がある。
ご多分に漏れず、エルンスト・ライツも高精密光学機器分野で軍需産業の位置を占めており、ゲッペレス博士もプロパガンダにライカの技術を利用しようとした。ライツ自身も1942年にはドイツ国家社会主義労働党の党員となっている。それどころか、ユダヤ人強制労働者を雇用した事で、先ごろライカ社はユダヤ人強制労働者に賠償金を支払っている。もちろん本人は戦後非ナチ化裁判の聴取を受けた。
それが今回、米国フロリダのアンチセミティズム会議で、ライツ氏の功績が表彰されることとなり、お孫さんのコルネリア・クュール・ライツが代わりに表彰を受け取った。アンネ・フランクとその家族を匿ったジャンとミープ・グリスやオスカー・シンドラーに並ぶ受賞である。
ロンドンのフランク・ダッバ・スミス・ラビが最近見付けた資料から、ライツ氏は少なくとも41人のユダヤ人の生命を救った事が判明した。例えばフランクフルトのツァイルでライカカメラをトップセールスしていたエーレンフェルド家の場合、1938年のクリスタルナハトに店舗を襲われ、米国行きのヴィザを申請したもののユダヤ人に対しての財産凍結から、業務上の知人ライツ氏を訪ね、現金を工面出来た事で亡命が可能となった。その他、職能工として自ら育てた多くのユダヤ人少年達を海外の技術援助へと手厚く派遣する事で、次から次へと英米へと送り出していく。ニューヨークの支点へと辿り着いたユダヤ少年は、明くる日からメカニカーとして安全な生活が保障された。
こうして綴ると自らは安全な場所から試みていたように見えるが、海外派遣の紹介書の署名をしていたアルフレッド・テュルク営業部長はゲシュタポに連行されて、三週間に渡ってベルリンに留置された。経済相への陳情で釈放されたが、部長本人が退職する事で責任を取らされた。また、父に倣った、エルンストの娘エルジーは、地元ヴェッツラーのユダヤ女性ヘドヴィック・パルムのために地図とスイスフランを与え、ミュンヘンのおばさん宅からスイスへと逃がそうと試みた。しかしこのユダヤ人女性はゲシュタポに逮捕されて強制収容所送りとなった。その結果フランクフルトの刑務所に三ヶ月間拘束された娘は、エルンストの賄賂によって自由の身となった。エルンスト・ライツは、それまでは自由党の党員であり、事情通はこれは大変な危険を冒していたに違いないと査定する。
そこで、映画に見る限り些か意思薄弱なシンドラー氏よりも、明らかに意思の明確なライツが、一方では軍需産業の枠にとり込まれてナチの協力者として強制労働者をも使用して、一方ではユダヤ人との公平な商関係や雇用関係を結び自らの危険を冒してまで貴重な生命を救った事は、我々に遥かに多くのことを語る。つまり、エルンスト・ライツの人格がここに浮かび上がる。それは想像するに、自らの職業への誠実さと同時に公平を欠く事を許せない企業家の倫理であり、決断能力のようなものである。そこには天性的なバランス感覚が働いていて、それは、自らの旗色を白とも黒とも、勿論赤ともさせない企業人の感覚とも呼べるものである。
特に工業製品が、大量殺害に使われたり、強制収容所の焼却炉に使われたり、ガス室の毒ガスとして使用されたりする例を我々は多く知っている。企業や技術者の責任も、また広く職業上の責任も、個人の責任同様に秤に掛けられる。しかし決して容易に犯罪行為は、相対化され相殺されないと感じたからこそ、エルンスト・ライツは戦後一言もその善行を言い訳として語らなかったのではないか?しかし、焼却炉のトップアンドゾーネ社のオーナーのように自害せずに、1956年に無事生涯を終えたエルンスト・ライツには自ら卑下する所は無かったように感じるがどうであろう。彼は、まともな人間として、一流企業家としての使命を果たしたに違いない。
救いの手を授けられた多くのユダヤ人は、会社からプレゼントとして携えたそのライカカメラを首にかけ感謝と愛着を持って写真を取り続け、上記エーレンフェルドはマイアミでライカカメラを売りまくった。感謝の気持ちは、多くの人に深く大きく育った。ライカの栄光は、こうした人々が背負っていたに違いない。
我々は、容易に旗色を決めたがる。簡略化して容易に第三者の視線を送るのである。しかし現実には、偽善者や狂信者や熱狂者以外にそうした原色の旗を持って先頭に立つの者は極少数なのである。周りの状況を分析して、注意深く窺いながら、バランスを取りながら日常を歩んでおり、旗色を明確にすることは限られている。
参照:
Der andere Schindler von Heidi Friedrich, FAZ vom 8.3.2006
The Leica Freedom Train
freedom train
蝕まれたカメラの伝統 [ 雑感 ] / 2006-03-17
ライツ氏は、家族同名の二代目エルンストで1920年に父親の後を受けて、社長の座に収まっている。経営者としての手腕があった様だが、あまり情報が無いのは、多くのナチスドイツと関わっていた古い企業がこの時代をあまり語らないのと共通している。ライカ社訪問の際も戦時下の様子は手短に述べられていたような記憶がある。
ご多分に漏れず、エルンスト・ライツも高精密光学機器分野で軍需産業の位置を占めており、ゲッペレス博士もプロパガンダにライカの技術を利用しようとした。ライツ自身も1942年にはドイツ国家社会主義労働党の党員となっている。それどころか、ユダヤ人強制労働者を雇用した事で、先ごろライカ社はユダヤ人強制労働者に賠償金を支払っている。もちろん本人は戦後非ナチ化裁判の聴取を受けた。
それが今回、米国フロリダのアンチセミティズム会議で、ライツ氏の功績が表彰されることとなり、お孫さんのコルネリア・クュール・ライツが代わりに表彰を受け取った。アンネ・フランクとその家族を匿ったジャンとミープ・グリスやオスカー・シンドラーに並ぶ受賞である。
ロンドンのフランク・ダッバ・スミス・ラビが最近見付けた資料から、ライツ氏は少なくとも41人のユダヤ人の生命を救った事が判明した。例えばフランクフルトのツァイルでライカカメラをトップセールスしていたエーレンフェルド家の場合、1938年のクリスタルナハトに店舗を襲われ、米国行きのヴィザを申請したもののユダヤ人に対しての財産凍結から、業務上の知人ライツ氏を訪ね、現金を工面出来た事で亡命が可能となった。その他、職能工として自ら育てた多くのユダヤ人少年達を海外の技術援助へと手厚く派遣する事で、次から次へと英米へと送り出していく。ニューヨークの支点へと辿り着いたユダヤ少年は、明くる日からメカニカーとして安全な生活が保障された。
こうして綴ると自らは安全な場所から試みていたように見えるが、海外派遣の紹介書の署名をしていたアルフレッド・テュルク営業部長はゲシュタポに連行されて、三週間に渡ってベルリンに留置された。経済相への陳情で釈放されたが、部長本人が退職する事で責任を取らされた。また、父に倣った、エルンストの娘エルジーは、地元ヴェッツラーのユダヤ女性ヘドヴィック・パルムのために地図とスイスフランを与え、ミュンヘンのおばさん宅からスイスへと逃がそうと試みた。しかしこのユダヤ人女性はゲシュタポに逮捕されて強制収容所送りとなった。その結果フランクフルトの刑務所に三ヶ月間拘束された娘は、エルンストの賄賂によって自由の身となった。エルンスト・ライツは、それまでは自由党の党員であり、事情通はこれは大変な危険を冒していたに違いないと査定する。
そこで、映画に見る限り些か意思薄弱なシンドラー氏よりも、明らかに意思の明確なライツが、一方では軍需産業の枠にとり込まれてナチの協力者として強制労働者をも使用して、一方ではユダヤ人との公平な商関係や雇用関係を結び自らの危険を冒してまで貴重な生命を救った事は、我々に遥かに多くのことを語る。つまり、エルンスト・ライツの人格がここに浮かび上がる。それは想像するに、自らの職業への誠実さと同時に公平を欠く事を許せない企業家の倫理であり、決断能力のようなものである。そこには天性的なバランス感覚が働いていて、それは、自らの旗色を白とも黒とも、勿論赤ともさせない企業人の感覚とも呼べるものである。
特に工業製品が、大量殺害に使われたり、強制収容所の焼却炉に使われたり、ガス室の毒ガスとして使用されたりする例を我々は多く知っている。企業や技術者の責任も、また広く職業上の責任も、個人の責任同様に秤に掛けられる。しかし決して容易に犯罪行為は、相対化され相殺されないと感じたからこそ、エルンスト・ライツは戦後一言もその善行を言い訳として語らなかったのではないか?しかし、焼却炉のトップアンドゾーネ社のオーナーのように自害せずに、1956年に無事生涯を終えたエルンスト・ライツには自ら卑下する所は無かったように感じるがどうであろう。彼は、まともな人間として、一流企業家としての使命を果たしたに違いない。
救いの手を授けられた多くのユダヤ人は、会社からプレゼントとして携えたそのライカカメラを首にかけ感謝と愛着を持って写真を取り続け、上記エーレンフェルドはマイアミでライカカメラを売りまくった。感謝の気持ちは、多くの人に深く大きく育った。ライカの栄光は、こうした人々が背負っていたに違いない。
我々は、容易に旗色を決めたがる。簡略化して容易に第三者の視線を送るのである。しかし現実には、偽善者や狂信者や熱狂者以外にそうした原色の旗を持って先頭に立つの者は極少数なのである。周りの状況を分析して、注意深く窺いながら、バランスを取りながら日常を歩んでおり、旗色を明確にすることは限られている。
参照:
Der andere Schindler von Heidi Friedrich, FAZ vom 8.3.2006
The Leica Freedom Train
freedom train
蝕まれたカメラの伝統 [ 雑感 ] / 2006-03-17