昨年制作のフォンカラヤンの「ばらの騎士」はとても面白かった。1960年のザルツブルガーフェストシュピーレ大劇場杮落しの映像放送に先立って流された。ザルツブルク祝祭100周年記念番組だった。大劇場の建設が戦後のザルツブルクにとって重要なエポックであり、当時のカラヤン無しには為し得なかったとされるのもよく分かった。
現支配人シュタトルが子供の頃に現在の場所に社会住居を作る話もあって是非が揺れていたとある。その工事中の発破の映像などを見ると大変な工事だったことが分かる。
そして杮落しで、カラヤンが芸術監督をしており、昨年「エレクトラ」を準備中のヴィーン歌劇場における後任ヴァリサーメストが当然ながら大権力者だったと話す。「カラヤンが祝祭で活躍する為にモーツァルトはザルツブルクに生まれた」という冗談があるとシュタトル支配人。
ドンであったバウムガルトナーに言わせるとそのモーツァルトの作品以外で杮落しは間違いだとしたようだが、その大阪フェスティヴァルホールを手本にしたとされる大劇場の幅広の舞台にはやはり「ばらの騎士」が正解だったとする。
この番組の核は、メスト、ヴィーン歌劇場の支配人だったホルランダー、ヴィーナーフィルハーモニカーのシュミトル、昨年演出で話題になったハラー、歌手のグロイスべック、プロハスカなどが演奏画面を観ながらコメントするところである。
横長の舞台では歌手もそれだけプレゼンスが無ければいけなく、シネマスコープ効果はカラヤンの為のものだとも語られる。
メストに言わせると、高度成長のその時期にはカラヤン自身もコンツェルマイスターのボスコフスキーらも作曲者を知っていたであろうと、プロハスカは楽団もとても良く準備していたようで活き活きとしたテムピで大変素晴らしいと、そしてシュミットルに言わせるとカーテンコールではまるで子供の様に控えめな様子が大指揮者らしくなく、幕が閉じるとまた再び孤独なカラヤンに戻るのだとしている。
ローテンベルガーの素晴らしいゾフィーの歌が出て、プロハスカが語る。この制作に出たとしたらやれると思うと、そして現在の事細かに指示された演出と違って自由度が大きくてそのように演じなければいけないと。
そして彼女がその楽音に鳥肌が立ち、その声の出し方こそがこの楽劇のターニングポイントであって、とても難しいというばらの騎士の登場をセーナ・ユリナッチが歌う。グロイスべック、メストの顔が映し出される。恐らく当時の歌手で現在の技術的な水準からも測れるのはローテンベルガーだと思っていたが、画面を観ていた三人ともに同じような評価のようだ。
[HD] Presentation of the Rose - Jurinac & Rothenberger
そして銀のバラを受け取った、まさしく作り物のロココのバラの音楽のテムポを絞りつつ音響の場を与える指揮をしてまさにカラヤンの芸術だとして、ここで完成されている繋ぎの鳴らせ方が晩年に向けてそこへと集中して行くところだと指摘している。
カラヤンの芸術に関しては様々な意見があるが、この指摘は格別で、またその評価に関してはこの番組の後半にとても客観的な描き方がなされる。昨年制作された音楽関連映像の中でも特筆すべき番組で、ザルツブルクに関してもカラヤンに関しても将来に引き継がれる制作だと思う。(続く)
参照:
なんとも有り難い再臨 2020-02-12 | 文化一般
苦みの余韻の芸術 2017-02-11 | 音
現支配人シュタトルが子供の頃に現在の場所に社会住居を作る話もあって是非が揺れていたとある。その工事中の発破の映像などを見ると大変な工事だったことが分かる。
そして杮落しで、カラヤンが芸術監督をしており、昨年「エレクトラ」を準備中のヴィーン歌劇場における後任ヴァリサーメストが当然ながら大権力者だったと話す。「カラヤンが祝祭で活躍する為にモーツァルトはザルツブルクに生まれた」という冗談があるとシュタトル支配人。
ドンであったバウムガルトナーに言わせるとそのモーツァルトの作品以外で杮落しは間違いだとしたようだが、その大阪フェスティヴァルホールを手本にしたとされる大劇場の幅広の舞台にはやはり「ばらの騎士」が正解だったとする。
この番組の核は、メスト、ヴィーン歌劇場の支配人だったホルランダー、ヴィーナーフィルハーモニカーのシュミトル、昨年演出で話題になったハラー、歌手のグロイスべック、プロハスカなどが演奏画面を観ながらコメントするところである。
横長の舞台では歌手もそれだけプレゼンスが無ければいけなく、シネマスコープ効果はカラヤンの為のものだとも語られる。
メストに言わせると、高度成長のその時期にはカラヤン自身もコンツェルマイスターのボスコフスキーらも作曲者を知っていたであろうと、プロハスカは楽団もとても良く準備していたようで活き活きとしたテムピで大変素晴らしいと、そしてシュミットルに言わせるとカーテンコールではまるで子供の様に控えめな様子が大指揮者らしくなく、幕が閉じるとまた再び孤独なカラヤンに戻るのだとしている。
ローテンベルガーの素晴らしいゾフィーの歌が出て、プロハスカが語る。この制作に出たとしたらやれると思うと、そして現在の事細かに指示された演出と違って自由度が大きくてそのように演じなければいけないと。
そして彼女がその楽音に鳥肌が立ち、その声の出し方こそがこの楽劇のターニングポイントであって、とても難しいというばらの騎士の登場をセーナ・ユリナッチが歌う。グロイスべック、メストの顔が映し出される。恐らく当時の歌手で現在の技術的な水準からも測れるのはローテンベルガーだと思っていたが、画面を観ていた三人ともに同じような評価のようだ。
[HD] Presentation of the Rose - Jurinac & Rothenberger
そして銀のバラを受け取った、まさしく作り物のロココのバラの音楽のテムポを絞りつつ音響の場を与える指揮をしてまさにカラヤンの芸術だとして、ここで完成されている繋ぎの鳴らせ方が晩年に向けてそこへと集中して行くところだと指摘している。
カラヤンの芸術に関しては様々な意見があるが、この指摘は格別で、またその評価に関してはこの番組の後半にとても客観的な描き方がなされる。昨年制作された音楽関連映像の中でも特筆すべき番組で、ザルツブルクに関してもカラヤンに関しても将来に引き継がれる制作だと思う。(続く)
参照:
なんとも有り難い再臨 2020-02-12 | 文化一般
苦みの余韻の芸術 2017-02-11 | 音