Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

「夏のメルヘン」の企画

2021-09-01 | マスメディア批評
フランクフルターアルゲマイネ新聞にヴァルトビューネでのコンサート評が載っている。この高級紙が音楽会評を載せるのは音楽劇場評の五分の一ほどしかない。つまり重要な音楽会しか扱わない。音楽劇場は公共の社会的な催し物であり、音楽会の多くはエンターテインメントの興行であるから当然かもしれない。

しかもそれがヴァルトビューネというオープンエアーの大イヴェント会場となると余計に稀有なことである。そこに何が報告されているのか。本当の初日にはそこでは触れられていない。ヴェバーのオベロン序曲とシューベルトのハ長調だけのプログラムで、PAが使われているにも拘わらず、音楽的にも印象に残る報告となっている。

つまり大雑把に捉えると、シューベルトのこの交響曲がもっている浪漫性であり、それが自然との繋がりとなっていて、ヴァルトビューネでは小鳥の囀りや天候を感じて音楽との掛け合いとなっていたというのだ。そしてそれを感じているのは、長く苦労の時を過ごしてきた舞台関係者だけでなくて、こうして皆と一緒に共鳴し合う聴衆であったということであった。ある意味、音楽の本質的なことに迫っている。

CPOに録音したスーク作曲「夏のメルヘン」のブックレットを読んだ。新たに見えて来たのは今回のオープニングツアーにおける知的なプログラミングアイデアだった。書いているのが右腕クラスティングなので、彼が直接係っている可能性も強い。スークの昨年同じ枠組みで演奏予定だったアスレアル交響曲の続編になっていて、そこではスークの近親の死が提起となっていて、この曲はそこからの新たな人生が背景にあるとされる。そうなると昨年お勉強しなかったアスレアルまで時間が割く必要が出て来た。気が付くのが遅すぎた。

そしてこのメルヘンで描かれているプックの世界はそのもの「オベロン」の世界である。「オベロン」を高く評価したのはマーラーであり編曲をして復興させている。同じようにスークを評価して死の前の最後に準備していたのがまさにこの「夏のメルヘン」だったようだ。音楽的な素材や内容に関しては改めてとなるのだが、知的にとても面白い。

作曲家の孫のヨゼフ・スークがペトレンコ指揮の録音を聴いて感動して手紙をよこしたようで、ペトレンコが望むように今回のツアーにおいても徐々にこの曲が大きな話題となってくるような演奏が出来るようになるか。

10月のフランクフルトのオペラの券を二枚購入した。ペトレンコと並び称されたティテュス・エンゲルの指揮で初めての新制作だと思う。ニールセン作曲「マスケラーデ」を振って演出はバイロイトで一躍話題になったトビアス・クラッツァーが演出する。個人的には偶然入手したLPからとても馴染みのあるオペラであり、とても期待している。だからいい席を求めたのだが、減員で二人席主体に売っているのでシングルで買えるところは殆ど無かった。

翌日に発売となっていたので準備が進んでいたことは知っていたのだが床に就いてから発売に気が付いて急いで買い付けに走った。久しぶりの友人の指揮であり初日で高価な席も辞さないつもりでいたのだが、ないのである。定期会員などに配るだけならまだしも、シングル規制が酷かった。二枚購入してもこれという席が無かったので、先ずは安いところでお茶を濁した。

もう一枚はそれに先立って、昨年マルヴィッツ指揮で上演されたバリコスキー演出の「サロメ」を今回はエンゲルが再演指揮する。評判が芳しくなかった指揮だったので失敗に終わっているようだが、指揮の力で成功に導いて欲しいのだ。同じ10月に音楽監督としてミュンヘンで「鼻」を振るユロウスキーとの比較になってくると思う。

10月はドナウエッシンゲン音楽祭も振るので、ペトレンコならば有り得ないほどの並行した仕事になるようで、その人間性からするとそうなのかなと思う反面、全てを高水準にこなせれば矢張りそれは凄い事だと思う。



参照:
Teambuildung in freier Wildbahn, Clemens Haustein, FAZ vom 30.8.2021
爪楊枝では駄目な話し 2021-06-14 | マスメディア批評
まだまだ遠い目標点 2021-03-28 | マスメディア批評
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