(承前)二日目のルツェルンへ向かう車の中で一月のインタヴューを聴いた。キリル・ペトレンコがその時のプロコフィエフ協奏曲一番のソリストであったトリアノフについて語っている。その内容には無観客演奏会でもあったのであまり記憶が無かったのだがとても興味深い評価をしている。トリフォノフを生で聴いたのは先月で、本来ならば昨年ルツェルンでベートーヴェンを聴く筈だった。しかし、それだけでどれだけ理解していただろうか?
ペトレンコは、トリフォノフを現在とても珍しいロシアンピアニズムの継承者としていて、彼自身もそこに含まれていて、為そうとしていたとあった。その心は、打鍵を曲によって臨機応変に変えれることとあった。これはトリフォノフのリサイタルを経験した者は皆分かった筈である。そしてペトレンコはその流派にあるものとしてリヒテルや若い頃のシュケナージを挙げていた。すると私にはストンと合点がいく。
Prokofiev: Piano Concerto No. 1 / Trifonov · Petrenko · Berliner Philharmoniker
何度も繰り返しているかもしれないがリヒテルを聴いた時にサンサーンスの協奏曲を弾いたのだが、これほどに軽やかな打鍵は見たことが無いという羽の生えるようなそれだった。驚きは、下馬評の重い強打のピアニズムの正反対からだったからで、続いてのガーシュインは全く異なっていて気が抜けてしまったのを思い出す。まさにトリフォノフの本領はそれを殆ど即興的なように選択できることだというのである。だからベートーヴェンでなにか定まったイメージを期待していても駄目だったろう。
それからすると今回同プログラムのピアノを受け持ったのは女流のアナ・ヴィニツカヤは、先ず前回三番の協奏曲で協演したユジャ・ワンとは異なり大音響のピアノを綺麗に鳴らす。恐らくそれが最大の特徴で、どちらかというと音自体の磨き方はそれほどではなかった。同じようにフランクフルトで三番を聴いたイタリアのベアトリーチェ・ラナとも異なるが、明らかに物足りなかった。比較する対照がいけなかった。
さて、ルツェルンでは休憩無しで演奏されたために「ロメオとジュリエット」は割愛されたが、ペトレンコ指揮チャイコフスキーオペラの一つの練習になっていたことだろうと思う。ネットで聴いてその様子は分かっている。そしてお目当てのスーク作「夏のメルヘン」。パリでの演奏評では昨年予定されていたドヴォルザーク家の死を扱ったアスラエル交響曲でなく、なぜこんなに影の薄い曲なのだと失望が書かれている。しかし、交響曲も詳しくはお勉強していないが、「夏のメルヘン」の方が出来が良いように思う。
上のインタヴューでもあったように比較されるのはシェーンベルク作「ペレアスとメリザンド」であるが、演奏はこちらの方が難しそうで、更にとても不経済な楽器利用が演奏会での可能性を減らしているだろう。最後に少ししか使われないピアノとかオルガンあり、中世の吟遊詩人を思わせる「盲音楽師」の三楽章では室内楽セッションが繰り広げられる。そこで盲人が見えていないように、作曲家が最早見る事が出来ない「アスラエル」で描かれた亡き妻とその父親のドヴォルザークの面影を追いかけているとされている。
音楽的な表現内容としての省察であるとかは、思い起こすところではヤナーチェックなどこれまたチェコの文化でしか思い当たらない。それ以上にその音楽語法のユニークさがよりよく知られる事でしか舞台上でも客席でも広くは受け容れられない筈だ。
一楽章の盛り上がりは強烈であり、久しぶりに大管弦楽の絡み合いを堪能した。そうした合奏を観るためには最高の席だった。平土間などではその絡みは全く分からない。二楽章はドビュッシーの「海」よりも否「牧神の午後」よりも遥かに激しい光が射し掛ける。ベルリンでのペトレンコの指揮振りを観ていると眩しい太陽に目を細めている。印象派でもあり、シェーンベルクの初期の「グレの歌」などを越えた表現主義でもある。マーラーなどの直接的なランドスケープ音や民謡の引用を使うこともないのだが、ペトレンコに言わせるととてもオーソドックスな方法で音楽化しているというのが、ある意味より大人の音楽となっているかもしれない。そして四楽章の物の怪の世界。当然のことながらマンフレッド交響曲へと繋がる面もあり、単純化すればディズニーのファンタジーとなるのだろうか?
本来はここにコルンゴールト作交響曲嬰へが入る筈だった。表プログラムのオベロン序曲との関連などコロナ版プログラムへの変遷などとても興味深いところでもあった。(続く)
参照:
「夏のメルヘン」の企画 2021-09-01 | マスメディア批評
BACHへのその視座 2021-08-22 | 音
ペトレンコは、トリフォノフを現在とても珍しいロシアンピアニズムの継承者としていて、彼自身もそこに含まれていて、為そうとしていたとあった。その心は、打鍵を曲によって臨機応変に変えれることとあった。これはトリフォノフのリサイタルを経験した者は皆分かった筈である。そしてペトレンコはその流派にあるものとしてリヒテルや若い頃のシュケナージを挙げていた。すると私にはストンと合点がいく。
Prokofiev: Piano Concerto No. 1 / Trifonov · Petrenko · Berliner Philharmoniker
何度も繰り返しているかもしれないがリヒテルを聴いた時にサンサーンスの協奏曲を弾いたのだが、これほどに軽やかな打鍵は見たことが無いという羽の生えるようなそれだった。驚きは、下馬評の重い強打のピアニズムの正反対からだったからで、続いてのガーシュインは全く異なっていて気が抜けてしまったのを思い出す。まさにトリフォノフの本領はそれを殆ど即興的なように選択できることだというのである。だからベートーヴェンでなにか定まったイメージを期待していても駄目だったろう。
それからすると今回同プログラムのピアノを受け持ったのは女流のアナ・ヴィニツカヤは、先ず前回三番の協奏曲で協演したユジャ・ワンとは異なり大音響のピアノを綺麗に鳴らす。恐らくそれが最大の特徴で、どちらかというと音自体の磨き方はそれほどではなかった。同じようにフランクフルトで三番を聴いたイタリアのベアトリーチェ・ラナとも異なるが、明らかに物足りなかった。比較する対照がいけなかった。
さて、ルツェルンでは休憩無しで演奏されたために「ロメオとジュリエット」は割愛されたが、ペトレンコ指揮チャイコフスキーオペラの一つの練習になっていたことだろうと思う。ネットで聴いてその様子は分かっている。そしてお目当てのスーク作「夏のメルヘン」。パリでの演奏評では昨年予定されていたドヴォルザーク家の死を扱ったアスラエル交響曲でなく、なぜこんなに影の薄い曲なのだと失望が書かれている。しかし、交響曲も詳しくはお勉強していないが、「夏のメルヘン」の方が出来が良いように思う。
上のインタヴューでもあったように比較されるのはシェーンベルク作「ペレアスとメリザンド」であるが、演奏はこちらの方が難しそうで、更にとても不経済な楽器利用が演奏会での可能性を減らしているだろう。最後に少ししか使われないピアノとかオルガンあり、中世の吟遊詩人を思わせる「盲音楽師」の三楽章では室内楽セッションが繰り広げられる。そこで盲人が見えていないように、作曲家が最早見る事が出来ない「アスラエル」で描かれた亡き妻とその父親のドヴォルザークの面影を追いかけているとされている。
音楽的な表現内容としての省察であるとかは、思い起こすところではヤナーチェックなどこれまたチェコの文化でしか思い当たらない。それ以上にその音楽語法のユニークさがよりよく知られる事でしか舞台上でも客席でも広くは受け容れられない筈だ。
一楽章の盛り上がりは強烈であり、久しぶりに大管弦楽の絡み合いを堪能した。そうした合奏を観るためには最高の席だった。平土間などではその絡みは全く分からない。二楽章はドビュッシーの「海」よりも否「牧神の午後」よりも遥かに激しい光が射し掛ける。ベルリンでのペトレンコの指揮振りを観ていると眩しい太陽に目を細めている。印象派でもあり、シェーンベルクの初期の「グレの歌」などを越えた表現主義でもある。マーラーなどの直接的なランドスケープ音や民謡の引用を使うこともないのだが、ペトレンコに言わせるととてもオーソドックスな方法で音楽化しているというのが、ある意味より大人の音楽となっているかもしれない。そして四楽章の物の怪の世界。当然のことながらマンフレッド交響曲へと繋がる面もあり、単純化すればディズニーのファンタジーとなるのだろうか?
本来はここにコルンゴールト作交響曲嬰へが入る筈だった。表プログラムのオベロン序曲との関連などコロナ版プログラムへの変遷などとても興味深いところでもあった。(続く)
参照:
「夏のメルヘン」の企画 2021-09-01 | マスメディア批評
BACHへのその視座 2021-08-22 | 音