松本からの中継を観た。スイス人指揮者デュトワが日本の斎藤門下母体の管弦楽団を振るというものだ。その指揮者がNHK交響楽団を連れてフランクフルトのアルテオパーで指揮したのを93年に聴いている。その時の印象は内声部が充分に歌えていなかったことだったが、N響も今はその欠点が直って来ている。勿論この楽団もそのような問題はない。三十年近く経過している。
その一方、指揮者の腕もあってか音楽が流れない。ドビュシ―の「海」などはまるで北斎の版画の様で、その瞬間瞬間がスライドシューのように変わって行く。そもそも音楽は河の流れのように前から後ろへとリズムに乗って流れて行くものだと思うがそうはいかない。その為に指揮者は皆努力をしていると思うのだが、斎藤の楽団は小澤征爾ぐらいが指揮しないと中々流れないのである。要するにかったるく、まどろっこしい。
その流れの最高に早いのがキリル・ペトレンコ指揮ベルリナーフィルハーモニカーのシューベルトの大ハ長調交響曲終楽章だった。リズムの流れの速さは必ずしもテムポが早いことを指すのではなく、下流へと流れるポテンシャルエネルギーの大きさだと思う。それがアンサムブルの上からバスへの積み重なりによるつまり和声的な律動感の作り方でもある。まさにカラヤンサウンドで犠牲にされたのがそれではなかったか。ペトレンコの知られている拘りはそこにあるだろう。
兎に角、これ程に活き活きと流れを進める指揮者もいないと思うが、フィルハーモニカーもそれが身に付いてきている感じで、ラトル指揮時代の一斉放水とは大きく異なる。現代的でその一触即発のポテンシャルエネルギー感が素晴らしい。ラトルやアバド時代には、それがフィルハーモニカーの芸術関係無しの発し発しの姿勢と批判的に言及されていたものだ。
それ故に、ペトレンコはミュンヘンで身近に観察した時と比較しても全身全霊で制御している。今回そうして初めてフィルハーモニカーに選出された時のペトレンコのコメントのその流れの大きさについての発言などを思い出した。要するに彼が指揮台に立って受ける鉄砲水のようなその激流の激しさである。これは比喩的だけではなくて実際の音圧でもあるのだが、今回も舞台下とは言いながら二列目で聴いてよく分かった ― もう一度同じフルプログラムをフランクフルトでこともあろうに二列目で聴くのだ。その様子を身近で観ていると殆ど「大丈夫か」と声を掛けたくなったぐらいに顔の表情や首や全てを動員して指揮しているのだ。
それでも三楽章のトリオ部分などは未だ演奏がこなれていなくて、これからよくしていかなければいけなく、僅か三度目の本番ではやり切れていないことは明らかだった。それに引き換え二楽章は可成り出来上がっていた。新聞評などでもホルンにおける遠近感に言及されているが、木金管を含めて可成り重要な指摘であろう。反面オーストリアの批評では歌が無いとしていたので、余程ザルツブルクでは都合が悪かったのかととても訝られる。
勿論弦楽器の使い方もシューベルトの室内楽におけるそれに見られるようにとても精妙で、今回のフィルハーモニカーの演奏においても、殆どクレメルが弾いたソナタのように殆ど発声しないほどの手法が活きていた。近年話題になっているベアヴァルトの交響曲での技法が1840年頃の創造として、この曲はその二十年ほど前の創作となる。この曲の木管群を前に出して演奏させるズビン・メータなどの試みもあって、音色と遠近法などとても興味深い。
しかし、今回の演奏を聴いていて、それはもう殆どブルックナーの世界と感じたのが正直なところだ。当夜のプログラムにはこれまたペトレンコの片腕のクラスティング氏が腕を振るっているのだが、この交響曲の背景には資本主義や産業革命への疑念によっての南独墺ロマンティズムのファンタジーが指摘されている。
ブルックナーに於いての反復運動はそのもの蒸気機関における弾み車音だとするのが昨今の学術的な見解の様であるが、シューベルトにおいても水車小屋の殆ど永遠運動のような律動は無視できないのである ― ベートーヴェンなどの馬車の模倣とはまたどう異なるか。
ペトレンコがデジタルコンサートホールのインタヴューで語っている様にブルックナーを知りたいならシューベルトをと、この演奏を聴いて思わない人は皆無だろう。(続く)
Schubert: Symphony No. 8 “Great” / Petrenko · Berliner Philharmoniker
参照:
陰性証明書の出番なし 2021-09-04 | 歴史・時事
待たれるワクチンベビー 2021-09-04 | 雑感
その一方、指揮者の腕もあってか音楽が流れない。ドビュシ―の「海」などはまるで北斎の版画の様で、その瞬間瞬間がスライドシューのように変わって行く。そもそも音楽は河の流れのように前から後ろへとリズムに乗って流れて行くものだと思うがそうはいかない。その為に指揮者は皆努力をしていると思うのだが、斎藤の楽団は小澤征爾ぐらいが指揮しないと中々流れないのである。要するにかったるく、まどろっこしい。
その流れの最高に早いのがキリル・ペトレンコ指揮ベルリナーフィルハーモニカーのシューベルトの大ハ長調交響曲終楽章だった。リズムの流れの速さは必ずしもテムポが早いことを指すのではなく、下流へと流れるポテンシャルエネルギーの大きさだと思う。それがアンサムブルの上からバスへの積み重なりによるつまり和声的な律動感の作り方でもある。まさにカラヤンサウンドで犠牲にされたのがそれではなかったか。ペトレンコの知られている拘りはそこにあるだろう。
兎に角、これ程に活き活きと流れを進める指揮者もいないと思うが、フィルハーモニカーもそれが身に付いてきている感じで、ラトル指揮時代の一斉放水とは大きく異なる。現代的でその一触即発のポテンシャルエネルギー感が素晴らしい。ラトルやアバド時代には、それがフィルハーモニカーの芸術関係無しの発し発しの姿勢と批判的に言及されていたものだ。
それ故に、ペトレンコはミュンヘンで身近に観察した時と比較しても全身全霊で制御している。今回そうして初めてフィルハーモニカーに選出された時のペトレンコのコメントのその流れの大きさについての発言などを思い出した。要するに彼が指揮台に立って受ける鉄砲水のようなその激流の激しさである。これは比喩的だけではなくて実際の音圧でもあるのだが、今回も舞台下とは言いながら二列目で聴いてよく分かった ― もう一度同じフルプログラムをフランクフルトでこともあろうに二列目で聴くのだ。その様子を身近で観ていると殆ど「大丈夫か」と声を掛けたくなったぐらいに顔の表情や首や全てを動員して指揮しているのだ。
それでも三楽章のトリオ部分などは未だ演奏がこなれていなくて、これからよくしていかなければいけなく、僅か三度目の本番ではやり切れていないことは明らかだった。それに引き換え二楽章は可成り出来上がっていた。新聞評などでもホルンにおける遠近感に言及されているが、木金管を含めて可成り重要な指摘であろう。反面オーストリアの批評では歌が無いとしていたので、余程ザルツブルクでは都合が悪かったのかととても訝られる。
勿論弦楽器の使い方もシューベルトの室内楽におけるそれに見られるようにとても精妙で、今回のフィルハーモニカーの演奏においても、殆どクレメルが弾いたソナタのように殆ど発声しないほどの手法が活きていた。近年話題になっているベアヴァルトの交響曲での技法が1840年頃の創造として、この曲はその二十年ほど前の創作となる。この曲の木管群を前に出して演奏させるズビン・メータなどの試みもあって、音色と遠近法などとても興味深い。
しかし、今回の演奏を聴いていて、それはもう殆どブルックナーの世界と感じたのが正直なところだ。当夜のプログラムにはこれまたペトレンコの片腕のクラスティング氏が腕を振るっているのだが、この交響曲の背景には資本主義や産業革命への疑念によっての南独墺ロマンティズムのファンタジーが指摘されている。
ブルックナーに於いての反復運動はそのもの蒸気機関における弾み車音だとするのが昨今の学術的な見解の様であるが、シューベルトにおいても水車小屋の殆ど永遠運動のような律動は無視できないのである ― ベートーヴェンなどの馬車の模倣とはまたどう異なるか。
ペトレンコがデジタルコンサートホールのインタヴューで語っている様にブルックナーを知りたいならシューベルトをと、この演奏を聴いて思わない人は皆無だろう。(続く)
Schubert: Symphony No. 8 “Great” / Petrenko · Berliner Philharmoniker
参照:
陰性証明書の出番なし 2021-09-04 | 歴史・時事
待たれるワクチンベビー 2021-09-04 | 雑感