ヴィーンの国立音大で教鞭をとっていた湯浅氏が先月18日に上げた文章が紹介された。昨年の三月頃から暖めていた指揮、音楽界への提言である。日本語で書かれていて、日本のそれに広く向けた提言が先ずは本義である。我々のような耳知識人にとっては、こうした高度に技術化された職人技の専門家からの視座がなによりも興味深い。少なくともこちらが文章から理解するものと今迄の認識には矛盾がないか、もしくは新たな見識が得られるのかが最大の関心事となる。
ざっと目を走らせてみて、それ程の認識の差異は無かったのだが、やはりそこは全く違う視点からのそれを想起させる一節がある。
「演奏する相手側が優れた音楽家であり、いろいろな事ができるという前提のもと大体の事を伝えると言うヨーロッパ型の指揮法の教本ではありません。弾けない人達もいて、その人達もなんとか合奏に合わせて弾けるようにさせようとする発想です。これは世界のオーケストラの指揮法とはある意味で違った方向ですけれども、 …」
これは斎藤メソッドについて触れた一節からの引用であるが、聴衆が客席で指揮者の背後から感じていること、舞台の上の奏者が向かい合って感じていること、そして指揮者が演奏家に向かって感じていることの視座の差異として読むと面白い。
因みにこの様な技術のことを独逸の一般紙などでは指揮者の職人的技量と呼ぶ。それがどこから一般的な評価となるかは、音楽ジャーナリストが楽員などから取材したり、こうした同業者の声を集めたり、または自らの経験でそれを評価してみたりの総合的な判断となっている。そして湯浅氏こそがそこでは誰も異論のなかったキリル・ペトレンコにそのメソッドで手ほどきした人物である。
聴衆が最終的に関心があるのは、当該文章でも音楽家の最終的な目標とされる音楽芸術的な表現と共有が為されるかどうかである。そしてその為の方策への提言がなされているのである。これは聴衆側からすれば、態々出向いてそれだけの支払った価値のある芸術体験が出来るかどうかという事である。
一例としてペトレンコがミュンヘンで為したことがその立場から語られている。最初の二年半で全てを掌握したとある。2016年春からならば新制作「マイスタージンガー」の頃からとなる。確かに2015年暮れの「神々の黄昏」再演では批判されていた蓋の無い奈落での演奏をものにしていた。
しかし、演出家や舞台監督の人事で思うようにいかなかったと書いてある。勿論何らかの愚痴がペトレンコ本人の口から出ていたからだろう。確かに今年の復活祭において、その演出についても既に言及していて、演出側からも十分に時間を掛けての協調作業が求められていることでもペトレンコの演出への拘りがよくわかる。
実際にインタヴューで、演出に合わせて音楽を作るという発言もあり、先日モルティエ―劇場に関して言及したそれ以上の拘りという事にもなる。勿論それだけにあのカラヤンが復活祭を始めて為しえなかった芸術的な価値を確立できるかどうか。そこにより関心が集まる。(続く)
写真;ラインの乙女の中村
参照:
指揮者としての条件 - 2, オペラについて、湯浅勇治(Wiener コアラの会)
ペトレンコの「フクシマ禍」 2015-12-21 | 音
「マイスタージンガー」の稽古 2016-05-17 | 音
ざっと目を走らせてみて、それ程の認識の差異は無かったのだが、やはりそこは全く違う視点からのそれを想起させる一節がある。
「演奏する相手側が優れた音楽家であり、いろいろな事ができるという前提のもと大体の事を伝えると言うヨーロッパ型の指揮法の教本ではありません。弾けない人達もいて、その人達もなんとか合奏に合わせて弾けるようにさせようとする発想です。これは世界のオーケストラの指揮法とはある意味で違った方向ですけれども、 …」
これは斎藤メソッドについて触れた一節からの引用であるが、聴衆が客席で指揮者の背後から感じていること、舞台の上の奏者が向かい合って感じていること、そして指揮者が演奏家に向かって感じていることの視座の差異として読むと面白い。
因みにこの様な技術のことを独逸の一般紙などでは指揮者の職人的技量と呼ぶ。それがどこから一般的な評価となるかは、音楽ジャーナリストが楽員などから取材したり、こうした同業者の声を集めたり、または自らの経験でそれを評価してみたりの総合的な判断となっている。そして湯浅氏こそがそこでは誰も異論のなかったキリル・ペトレンコにそのメソッドで手ほどきした人物である。
聴衆が最終的に関心があるのは、当該文章でも音楽家の最終的な目標とされる音楽芸術的な表現と共有が為されるかどうかである。そしてその為の方策への提言がなされているのである。これは聴衆側からすれば、態々出向いてそれだけの支払った価値のある芸術体験が出来るかどうかという事である。
一例としてペトレンコがミュンヘンで為したことがその立場から語られている。最初の二年半で全てを掌握したとある。2016年春からならば新制作「マイスタージンガー」の頃からとなる。確かに2015年暮れの「神々の黄昏」再演では批判されていた蓋の無い奈落での演奏をものにしていた。
しかし、演出家や舞台監督の人事で思うようにいかなかったと書いてある。勿論何らかの愚痴がペトレンコ本人の口から出ていたからだろう。確かに今年の復活祭において、その演出についても既に言及していて、演出側からも十分に時間を掛けての協調作業が求められていることでもペトレンコの演出への拘りがよくわかる。
実際にインタヴューで、演出に合わせて音楽を作るという発言もあり、先日モルティエ―劇場に関して言及したそれ以上の拘りという事にもなる。勿論それだけにあのカラヤンが復活祭を始めて為しえなかった芸術的な価値を確立できるかどうか。そこにより関心が集まる。(続く)
写真;ラインの乙女の中村
参照:
指揮者としての条件 - 2, オペラについて、湯浅勇治(Wiener コアラの会)
ペトレンコの「フクシマ禍」 2015-12-21 | 音
「マイスタージンガー」の稽古 2016-05-17 | 音