Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

地盤沈下の音楽の都

2022-02-09 | 生活
ヴィーンからの中継を観た。結論からするとフランクフルト公演の方が遥かに上だった。その要因は奈落が下手の一言に尽きる。若手の指揮者はミュンヘンも出るのでまともだと思っていたが、これがとんでもない能無しだった。プッチーニで今時あれだけ吠える管弦楽は珍しい。往々にしてありがちなのだが同時に絞る能力もない。更に舞台との切っ掛けも待っていて掴んでいるようで、録音のディレーが生じているのかと思ったぐらいだ。名門の座付き楽団は一呼吸おいて音が出るとされるが、そこで一呼吸遅れるのだろうか。

そんな指揮だから鳴る管弦楽も最低だった。これがあのヴィーナーフィルハーモニカーのホームでのお勤めかと思うと呆れるしかない。今からでは三十年前に何を考えていたかの記憶はないが、ザルツブルクでオペラを聴いてやろうと思った理由はそこにあったのは覚えている。要するにアンサムブルが整っていなくても質の高い上演を求めた。

今回改めてこうした日々の営みをストリーミングとして受けると、当時よりも状況が悪くなっているのではないかと思った。こういう書き方をすれば旅行者やそういう聴衆のナイトライフとしてはそれで十分だという声もあるだろうと思う。しかし、芸術は質が悪ければその発する影響も弱まり、観光資源のただの一つでしかなくなっていくのではなかろうか。嘗ての遺産で食っていくにも限界がある。他所のことに提言をしても始まらない。

こちらの興味はオーストリアのTVニュースでも取り上げられていた主役のアスミク・グリゴーリアンの歌にあるのだが、またもやデビューの「蝶々さん」に続いて本格的な歌唱とはなっていなかった。理由は奈落の責任であるのは書いたとおりだが、この劇場の公演では適当に流すことにしてしまったいるかと思うと情けないお話しだ。確かに上の様な被せてくる管弦楽に大声を張り上げるような藤四郎ではないのでタクティクスとしては当然だともいえる。よって、期待したような熱唱ともならずに、ヴィーンが更に地盤低下となる。そもそも聴衆を舐めたヴィーンの興行方針がその原因となっている。自業自得である。

さて今年のアスミク・グリゴーリアンの世界的な大活躍を予想して制作してあったドキュメンタリー映画がコロナ禍で四月に遅らされてロードショーとなるらしい。放送でも流されるだろうからそれを待っていればよいと思うが、中々の歌手の人選である。先ずはエルモネーラ・ヤホ、バーバラ・ハニンガムそしてアスミク・グリゴーリアンの三人のトップ歌手が描かれている。

最初のはミュンヘンでもペトレンコ指揮「三部作」の修道女アンジェリカで聴いてから、翌年の再演でのフェストシュピーレまでに出かける切っ掛けになった歌手である。二人目はやはりミュンヘンでのアロイス・ツィムマーマンの「ディゾルターテン」では彼女がいなければ再演とならない唯一無二の存在だった。そして最後のは今年ザルツブルクで「三部作」を歌い、その前には復活祭の「スペードの女王」で大きな脚光を浴びることになっている。
FUOCO SACRO: Suche nach dem Heiligen Feuer des Gesangs Trailer German Deutsch UT (2022)


だから、ヤホの練習をつけるペトレンコが少なくともワンカットは登場しているようで、ここだけで我々からすると見逃せないところだ。その実、彼女の歌とペトレンコの指揮という事ではそれなりの合意がなければ出来なかった表現がなされていて、その一端でも知りたいと思うからである。



参照:
『スペードの女王』へと 2022-02-08 | 文化一般
素人の出る幕ではない 2018-05-12 | 文化一般
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