Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

職業倫理の音楽性

2022-02-12 | マスメディア批評
2月11日は指揮者キリル・ペトレンコ生誕五十周年で、記念番組なども組まれている。それに関する記事をバイエルン放送協会のノイホフ氏が書いている。読んで感動したのは、先日来日本のネットでも話題になっているブラームスの交響曲のミュンヘンでの四番の演奏について、昨年の指揮としては最高級の上演だった「トリスタン」と並べて書いている部分である。

ベルリンで始めて批判的な評が出た先々週の交響曲二番の問題は二年前のソーシャルディスタンシング配置での演奏の時に既に出ていたと考えているが、その私見を後押しするだけの感想が書かれている。私も聴いたそのミュンヘンでの交響曲四番の解釈についてである。

ノイホーフ氏にとっては知り尽くしている愛好曲であったらしいのだが、ペトレンコ指揮の細部にもわたっての新たな啓示は、構造的であると同時にそのトリックについても露わにして、その演奏実践はあまりにも常軌を逸したエクスタシーの響きとなり、数日間寝ても覚めてもそれに捉われてしまったと述懐する。私の感想もそのあまりにもの斬新さは到底ヴィーナーフィルハーモニカーの定期公演では実現不可能なものであったことを理解して、ベルリンでのそれを待ち望んでいたのだった。

しかし結果はペトレンコ本人がインタヴューで語っていたように、自らが音楽監督をしていたマイリンゲンでのブラームス自らの指揮の初演からの総譜の書き込みの復活を求めたが、ベルリンのフィルハーモニカーでのブラームス演奏の伝統との折衷としての演奏実践となった。それはそれで決して間違っていない判断だったのだが、それを少なくとも四曲終えるまでは継続することも肝に銘じている筈である。

そのことを踏まえてノイホーフ氏は敢えて、ミュンヘンでの素晴らしい演奏会の記憶としていて、今後は放送を通じてしか体験出来ない喪失感もミュンヘンの聴衆と共に分かち合っている。

ノイホーフ氏はもしかすると私が昨晩見つけて引用した前述シュタインバッハの総譜や書き込みに関するティテュス・エンゲルのコメントを読んでいたのかもしれない。なぜその実践がベルリンでは容易ではなかったかは、まさしく7月にティロルの音楽祭でエンゲルが小規模簿の楽団を振って、それもベルリンでのマイニンゲンの監督であったビュロー指揮の写真を参考に、その通り立奏で演奏する予定であることを鑑みれば、ペトレンコの妥協が納得されることになる。要するにエンゲル指揮ではもっと遥かに容易にマイニンゲンでの初演からの総譜の書き込みを具体化することが可能となる。それだからこそ余計にペトレンコ指揮の演奏実践をどうしても改めて評価しておきたいという気持ちが働く。

ノイホーフ氏の南アフリカ出身歌手ゴルダ・シュルツとの対談番組においてもとても優しい人間性を示していたのだが、ここでもとても親切な気持ちが読み取れた。しばしば甘い批評をするのではあるが、こうした気持ちは大切である。

前回紹介した指揮者スレキーテよりも少し先輩の同郷のティーラが至らないのはその音楽性だけでなくまさしくその行動の無責任さやそこに表れる人間性である。若いペトレンコがヴィーンのフォルクスオパーの支配人だったバッハラーの気持ちを打ったのはその真摯な態度にあった。こうした特別に専門的な社会でも最終的には職業人としてのその倫理が問われるという事である。エンゲルに関しては勿論個人的に知己があるのでそれは当然分かっているが、最近もやはり間違いないと思う事もあった。



参照:
ACH, DIESE LÜCKE, DIESE ENTSETZLICHE LÜCKE, Bernhard Neuhoff, BR-Klassik vom 9.2.2022
いざシュトッツガルトへ 2022-02-11 | 文化一般
LANケーブルで中継 2022-01-29 | マスメディア批評
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする