様々な動きがあった。そして今も動いている。少なくともウクライナは軍事的には最早終わっている。如何にベルルーシ化を避けるかにしか関心は無くなった。隣の陸の国境線で接する大国から軍事的に最小の防衛線を引くことが如何に難しいかが分かる。
嘗て東西ドイツ時代にも国境線を固めていたのは何も亡命者の為だけではなかった。西側には核弾頭も森の中に隠されて、大きな部隊が展開する準備が出来ていたのだった。徴兵でそれだけの要員がいた。
これでウクライナにはプラハの春やハンガリー騒乱の様に僅かな春しかなかったのかとも思った。しかし改めてオクサーナ・リニヴが今度は自らの育てたウクライナジュニア楽団の家族と連名で声明を出したのを読んだ。彼らは、昨年度のザクセン州のモーツァルト受賞団体で、今年もドイツツアーでの公演を予定している。
上述のようなことを考えていたら、とても強い口調で個人的な声明に加えて、32の都市から12歳から22歳までの楽員の連名で、「私達は、欧州の全ての国に呼びかける。一体して、軍事、経済的制裁で抵抗することを求める。私達は、音楽の芸術の全力を以て決して諦めない、世界平和と私達の故郷の真の価値を守る。」と書いている。
このように書かれると、軽々に傀儡政権云々とは語れなくなる。リニヴの人間性はある程度分かっているつもりなのだが、流石にここまで強い意志には驚かされる。まさに先般の写真の印象に違いない。
復活祭の舞台の箱出しが始まったようだ。これで来週ぐらいには指揮者ペトレンコもバーデンバーデンにやって来て、演出家との打ち合わせが始まるのではなかろうか。こういう時期であるから余計に演出やそのコンセプトも注目される。
ペトレンコ指揮チャイコフスキーに触れれば、それがなぜ違うのかが分かる筈だ。あの「マゼッパ」に於いて演出は取り止めになったのだが、十二分に繊細な感情の表現が為された。その芸術的な質が問われる。
それを今西欧から排除されるゲルギーエフ指揮のそれと比較してみればよい。芸術音楽は必ずしも政治的な意味を其処に有している訳ではないが、そのセンスが問われる。更にそれを分かりやすく説明するのはカーネギーホールで共演する予定だったピアニストマツーエフの打鍵を一小節でも聴けばその野蛮さに気が付くだろう。それををマッチョとしてもいいと思う。そうした音楽が今日誰も求めていない。少なくとも西欧においてはである。もしそれが求められている市場があるとすれば、その社会がやはり異なる。
同じ楽譜で同じ歌詞の音楽を演奏してもその演奏家のセンスで変わる。そして受けるか受けないかは聴衆で変わり、その社会で違い、時代でも変わる。だから上の様なマッチョな音楽なんて真面な音楽家は演奏しない。
音楽は政治の投げられるボールにはならないとヴィーナーフィルハーモニカーのフロシャウワーがニューヨークで語っていたが、そのようなセンスのないところに芸術音楽なんて存在しない。
参照:
独裁の協力者を許すな 2022-02-25 | 文化一般
日本人妻たち対慰安婦たち 2017-03-16 | 女
嘗て東西ドイツ時代にも国境線を固めていたのは何も亡命者の為だけではなかった。西側には核弾頭も森の中に隠されて、大きな部隊が展開する準備が出来ていたのだった。徴兵でそれだけの要員がいた。
これでウクライナにはプラハの春やハンガリー騒乱の様に僅かな春しかなかったのかとも思った。しかし改めてオクサーナ・リニヴが今度は自らの育てたウクライナジュニア楽団の家族と連名で声明を出したのを読んだ。彼らは、昨年度のザクセン州のモーツァルト受賞団体で、今年もドイツツアーでの公演を予定している。
上述のようなことを考えていたら、とても強い口調で個人的な声明に加えて、32の都市から12歳から22歳までの楽員の連名で、「私達は、欧州の全ての国に呼びかける。一体して、軍事、経済的制裁で抵抗することを求める。私達は、音楽の芸術の全力を以て決して諦めない、世界平和と私達の故郷の真の価値を守る。」と書いている。
このように書かれると、軽々に傀儡政権云々とは語れなくなる。リニヴの人間性はある程度分かっているつもりなのだが、流石にここまで強い意志には驚かされる。まさに先般の写真の印象に違いない。
復活祭の舞台の箱出しが始まったようだ。これで来週ぐらいには指揮者ペトレンコもバーデンバーデンにやって来て、演出家との打ち合わせが始まるのではなかろうか。こういう時期であるから余計に演出やそのコンセプトも注目される。
ペトレンコ指揮チャイコフスキーに触れれば、それがなぜ違うのかが分かる筈だ。あの「マゼッパ」に於いて演出は取り止めになったのだが、十二分に繊細な感情の表現が為された。その芸術的な質が問われる。
それを今西欧から排除されるゲルギーエフ指揮のそれと比較してみればよい。芸術音楽は必ずしも政治的な意味を其処に有している訳ではないが、そのセンスが問われる。更にそれを分かりやすく説明するのはカーネギーホールで共演する予定だったピアニストマツーエフの打鍵を一小節でも聴けばその野蛮さに気が付くだろう。それををマッチョとしてもいいと思う。そうした音楽が今日誰も求めていない。少なくとも西欧においてはである。もしそれが求められている市場があるとすれば、その社会がやはり異なる。
同じ楽譜で同じ歌詞の音楽を演奏してもその演奏家のセンスで変わる。そして受けるか受けないかは聴衆で変わり、その社会で違い、時代でも変わる。だから上の様なマッチョな音楽なんて真面な音楽家は演奏しない。
音楽は政治の投げられるボールにはならないとヴィーナーフィルハーモニカーのフロシャウワーがニューヨークで語っていたが、そのようなセンスのないところに芸術音楽なんて存在しない。
参照:
独裁の協力者を許すな 2022-02-25 | 文化一般
日本人妻たち対慰安婦たち 2017-03-16 | 女