このコロナ禍で学んだことはあった。人生哲学や世事的なことではなくて学んだのは矢張り音楽だった。読書も殆ど出来なかった。原因は様々だが落ち着く暇がなかった。音楽に関してはこの期間に態々出かけたのは重要な公演の山々で、中々抽出できないほどだ。
それでもコロナ禍にありながらもある程度大編成の演奏も体験して更にソーシャルディスタンシング配置とされる小規模の編成ではからずも1920年代をも追体験した。
しかし学んだことはとても個人的なのだが可也普遍的な近代西洋音楽では重要な事だった。元々それ程大管弦楽に集中していたのではなかった。理由は1980年代に既に頂点を迎えていて、レパートリー的にも最早先細り感しかなかったので、1990年以降は所謂メインストリーミングとされるような商業的な催し物にも出入りしなくなった。
ベルリナーフィルハーモニカーのカラヤンサーカスサウンドとされた管弦楽の響きに代表されたような単純化され大衆化されたポピュラーレパートリーとは一線を画したという事でしかないが、ここに来て漸く新たな響きや音楽劇劇場上演なども定着してきていることなどで、やはりその相違に耳を傾ける様になった事の次第である。
嘗て、ある録音監督が楽譜と睨み合わせて音の誤りを指摘する際は自身が弾いていたピアノの様にそこに指を並べて置いてみるというのがあった。要するに五線譜を横置きしてそこに指を置くというのである。これはまたとその時思ったのは、一つは平均率を相手にすればそれで正しい音が取れるだろうが、その他の自然調音された楽器では鳴る響きが異なるだろうと思ったことだ。しかしこの大管弦楽の響きを考える場合にやはり平均率が取り分け便利で、その音を取りやすいと気が付いた。否、音楽におけるデコード作業を考える場合に、作曲に於けるエンコードの平均率へと戻る作業は決して間違いではないと今頃気が付いた。
要するに平均率でも正しく鳴っているかどうかはやはり重要なのだ。それを思い知らされたのは、例えばその和声間でバランスを変えてくるトリフォノフなどのピアノを聴いたりすると、その音色に留意しなければならなくなった。最終的には平均率から離れて楽器間の管楽器法へと広がっていくのだが、その一歩手前でそれを平均率上で想像できるかどうかはやはり大きい。
「ボリス」のお勉強を始めた。先ず何よりも感じたのが思っていたよりもよく出来た楽譜だという印象だ。こんなに素晴らしいのになぜ編曲や未完が残されているのかと思うのだが、それもこのプロジェクトの動機の一部にはなっているのだろうか。少なくとも始まりは新曲から上手に重ねられて始まった。また途中はベルント・アロイスツィムマーマンの作品の様に綺麗にモンタージュされる形で劇が進んでいる。その挿入部内容は音楽技術的だけでなく内容的にとても素晴らしいと思って聴き進むと今度はまた、ムソルグスキーの原作へと戻る。今度はますますその重ね方が複雑になっていて、その成否を厳密に評価しようと思うとんでもなく難しくなってくる。当然であろう、それだけ情報量が増えてくるのだから。それにしても幾らでもプロジェクトに合わせて楽曲を指揮できるよとエンゲルが豪語する様に、とてもクリエイトな仕事ぶりが鮮やかに展開する。おお彼はもうこの方では、つまり音楽劇場指揮者としては第一人者なんだなと改めて思う。
参照:
人生における省察の日 2021-09-09 | 音
あか抜けないもの 2022-02-19 | 料理
それでもコロナ禍にありながらもある程度大編成の演奏も体験して更にソーシャルディスタンシング配置とされる小規模の編成ではからずも1920年代をも追体験した。
しかし学んだことはとても個人的なのだが可也普遍的な近代西洋音楽では重要な事だった。元々それ程大管弦楽に集中していたのではなかった。理由は1980年代に既に頂点を迎えていて、レパートリー的にも最早先細り感しかなかったので、1990年以降は所謂メインストリーミングとされるような商業的な催し物にも出入りしなくなった。
ベルリナーフィルハーモニカーのカラヤンサーカスサウンドとされた管弦楽の響きに代表されたような単純化され大衆化されたポピュラーレパートリーとは一線を画したという事でしかないが、ここに来て漸く新たな響きや音楽劇劇場上演なども定着してきていることなどで、やはりその相違に耳を傾ける様になった事の次第である。
嘗て、ある録音監督が楽譜と睨み合わせて音の誤りを指摘する際は自身が弾いていたピアノの様にそこに指を並べて置いてみるというのがあった。要するに五線譜を横置きしてそこに指を置くというのである。これはまたとその時思ったのは、一つは平均率を相手にすればそれで正しい音が取れるだろうが、その他の自然調音された楽器では鳴る響きが異なるだろうと思ったことだ。しかしこの大管弦楽の響きを考える場合にやはり平均率が取り分け便利で、その音を取りやすいと気が付いた。否、音楽におけるデコード作業を考える場合に、作曲に於けるエンコードの平均率へと戻る作業は決して間違いではないと今頃気が付いた。
要するに平均率でも正しく鳴っているかどうかはやはり重要なのだ。それを思い知らされたのは、例えばその和声間でバランスを変えてくるトリフォノフなどのピアノを聴いたりすると、その音色に留意しなければならなくなった。最終的には平均率から離れて楽器間の管楽器法へと広がっていくのだが、その一歩手前でそれを平均率上で想像できるかどうかはやはり大きい。
「ボリス」のお勉強を始めた。先ず何よりも感じたのが思っていたよりもよく出来た楽譜だという印象だ。こんなに素晴らしいのになぜ編曲や未完が残されているのかと思うのだが、それもこのプロジェクトの動機の一部にはなっているのだろうか。少なくとも始まりは新曲から上手に重ねられて始まった。また途中はベルント・アロイスツィムマーマンの作品の様に綺麗にモンタージュされる形で劇が進んでいる。その挿入部内容は音楽技術的だけでなく内容的にとても素晴らしいと思って聴き進むと今度はまた、ムソルグスキーの原作へと戻る。今度はますますその重ね方が複雑になっていて、その成否を厳密に評価しようと思うとんでもなく難しくなってくる。当然であろう、それだけ情報量が増えてくるのだから。それにしても幾らでもプロジェクトに合わせて楽曲を指揮できるよとエンゲルが豪語する様に、とてもクリエイトな仕事ぶりが鮮やかに展開する。おお彼はもうこの方では、つまり音楽劇場指揮者としては第一人者なんだなと改めて思う。
参照:
人生における省察の日 2021-09-09 | 音
あか抜けないもの 2022-02-19 | 料理