Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

雲にも舞い上がる想像力

2007-08-17 | 雑感
久方ぶりに寝転んで雲を見る。特定の場所での特定の状況が浮かぶ、しかし特定の時ではない。

元来、想像力がないようで、あまり途方もない考えが浮かんだ覚えがない。その後も実際に雲の中を歩き彷徨う体験は数多く、それを上から見る体験にも欠けないので、以前の想像はそれ以上でも以下でもなかったのが知れる。

そのような人間が、SFとかファンタジーとか呼ばれる作りものを体験しても、どうも宜しくない。

様々な関心から、大分以前に丸善でわざわざ取り寄せたミヒャエル・エンデの出世作「モモ」を、意地悪いぐらい批判的に時間を掛けて読み始めた。直に残りの半分を読み終わるだろうが、VIDEOも更に観てから、その先入観を踏まえて感想を書いてみよう。
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東京でのヒトラーの遣い

2007-08-16 | 文化一般
先日紹介したナチ・イデオロギーの作曲家の言葉の一つの原点を見る。ヒットラーの「我が闘争」からの一節が文化欄に掲載されている。先頃までの発禁の書のテキストを、こうして高級紙に発見するのは時の流れを感じさせる。

「今日限りアーリアの影響が日本に途絶えたとすると、例えばアメリカやヨーロッパの滅亡するとなると、今日の日本の学術的、技術的な勃興は暫らくは留まり、数年すれば、日本が独自に勝ちとったその泉も枯れてしまい、枯渇して、七十年前にアーリア文化によって目覚まされたように、再び眠りに落ちるのである。」

この文節は、文化創造国、文化荷担国、文化破壊国に別けて、各々をその人種・文化的に差別したナチズムの基本概念の説明の中で特別にアジアの国として唯一の文化荷担国に引き立てられている部分である。

これを読んで、あまりにも今日に至るまで、その批評として的を得ているので驚くしかないが、一体こうした知識的背景がどこにあるのかは、大変興味ある。これについては、ゲオルゲの問題も含めて引き続きみて行きたい。

この記事の中では、よってアーリア文化を伝えるべく、東京に派遣されて然るべき顔として滞在した教授の全てについて述べられている。1920年中盤には文化交流協定が成立して、ベルリンと東京に其々文化機構が開設されていた。そこにヴィルヘルム・グンデルトは、反共の余波を受けて更迭される1935年までそこの所長として君臨した。そして、1935年にはヒットラーの上の命を受けて、後の帝国公安局の親衛隊名誉大隊長となるハンブルクの日本学のヴァルター・ドナートが赴任する。

そして、第三帝国への招聘講師として有名な教授人を集めた。ナトルプリッケルト、フッセール、ハイデッガーの弟子たちは、第一次世界大戦以前にドイツ留学をしていてあらゆる日本の大学の教授に散見することとなるが、ヒットラーの言うように公式にこうして泉が枯れないような手立てを打った。

その時期にヒットラーの隠密として派遣されたプロイセンの保守的な教育学者エドワルト・シュプランガーは、祖国で失脚して、日本では武士道と儒教の混合による日本の秘密を学び、また宗派分れした仏教に関心を持ち、日本から吸収したものの方が与えたものより多いと言われる。なぜならば、東京近郊では明らかにに距離を置いていたナチに極度に「統制」されていて、つまらないおしゃべりをしてお茶を濁していたのだが、東北の仙台では戦前からの事実を語っていたようである。

1939年に赴任したのが後任のミュンヘンの司法官オットー・ケールロイターで、日本に国家社会主義を明快に示し伝えたのは自分であると主張している。つまり、単一民族による党派無しの民族利益を言い、「ドイツや日本の 空 間 的 余 地 の 無 い 民 族 は、他の領域を 侵 略 して新しい秩序を掲げる正統性がある」と言うことであり、だから両国民は個人の 極 端 な 自 由 の 贅 沢 には恵まれないが、他民族を自由の概念として発展させなければいけないと主張した。

つまり独裁者の権力と軍部の勢力の関係こそが、二十世紀の憲法上の新たな問題となっていると結論つけた。

そして、日独伊の三国同盟へと進むのだが、最近の報道によると裕仁天皇が、これをして、松岡外相を叱ったと言うのも、この文脈からすると話者の知識程度の問題をも加味しなければ歴史的意味合いを持たないだろう。

そのほかに、ドイツ外務省の学術部員で精神学者のカール・フリードリッヒ・グラーフ・エックブレヒト・フォン・デュルクハイム・モンマルタンは、1935年から日本の躾の研究員として、また祖母がユダヤ人ある事から東京にて観察下に措かれ、1947年に帰国後シュヴァルツヴァルトのトットモースに禅道場を開いている。

この参照記事を書いたのはフランク-ルットガー・ハウスマン教授で精神学史の専門家で、日本はベルリンで、東京以上に独自の文化を活動的にプロパガンダしていたとしている。
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葡萄の味を自主研究

2007-08-15 | ワイン
昨晩もいつものルートを同じぐらいの時刻に散歩した。前・前々日に比べると、温度は明らかに高いと言うものの、ポロシャツを被って一生懸命歩いても汗は殆どでなかった。

沿道の葡萄を、燃える向学心から、幾つか失敬した。グランクリュの葡萄を狙い澄ました。隣合わせの三地所の三つの異なる醸造所の葡萄を試食したことになる。

驚いたことに、その熟成度や味の傾向がすっかり違っていた。出来上がりのワインの各々の特性を確認することが出来た。普段は、あまり悪戯心もないので、これほどに特性が表れているとは露知らなかった。

醸造の当事者である専門家は、これで多くのことが判るに違いない。もしくは、当然のことなのかも知れない。それにしても、一地所の熟成の進み方は激しく、既に糖比重は醸造可能な感じであった。その分、酸味が薄く、一月もすると、腐敗の危険性もぐっと高まるようである。

他の一地所は、その土壌から特別な味がしていて、間違えようのない葡萄であったが、酸味も糖分も控えめで、出来上がりの味を思い起こさせる。

最後の一地所は、糖はあまり感じられなくて、酸が幾らか瑞々しかった。昼夜の寒暖の差は重要そうである。

最初の地所の葡萄は、切り取って家に持ち帰ればデザートの食用となりそうであるが、勿論それば窃盗行為である。何れにせよ、各々の出来上がりのワインを来年は試飲して、授業料として少なくとも一本づつは買い取らなければいけないだろうか。大変勉強になった。

何れにせよ、2007年度産は例年よりも三週間ほど早く開花して、成長しているので、やはりそれだけ早く収穫されるようだ。現時点では、もう一息の光が欲しそうであるが、果皮もしっかりしているような印象なので、過熟成による腐りさえ無ければある程度の収穫は期待出来るのではないだろうか?早めに収穫して、健康な葡萄の豊作を願いたい。

上の一地所を除く他の二箇所の葡萄は、現時点では決して美味いものではなかったので、誰も手を出さないだろうが、既に美味い葡萄を知ってしまうと、これからも毎晩のようにその前を通る度にどうしても、つい手が出そうになる悪戯心と戦わなければいけないことになった。このワインの2006年産も近々試飲してみたいものである。
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豚とソクラテス、無知の知

2007-08-14 | マスメディア批評
マグデブルクでドイツ民主共和国の秘密警察スタジの命令資料が見つかった。それによると、国境を侵して西側へと逃亡する女子供も躊躇わずに撃てというもので、東ドイツの国家首脳エゴン・クレンツなどの「一切、射撃指令は存在しない」と言う裁判での主張とは相反している。

東ドイツでの生活は、通常の市民生活をしている限り、その剥奪された自由にも気がつかずに、帝国主義者の牙を避けて安全に暮らしていけると言う安心感があったのは事実である。贅沢は無くとも慎ましやかな生活が出来ればそれで良かったのである。

しかし、一度その窮屈さに気がつくと、どうしても壁を越えてより冒険に溢れた世界へと憧れたに違いない。そうして、生命を落したものは千人を越えると言われるが、その詳細は今でも謎が多いようだ。

どのような政治体制でも、社会秩序を乱す犯罪者でも無い亡命や自由を求める自国民に銃を向ける政府は認めることが出来ない。同様な事象は、中華人民共和国が強い支持をするスーダンや北朝鮮などのみならず、自国にも存在する。

北京でのオリンピックを一年後に控えて、西側ジャーナリストは民主化へ向けての最後の運動の時と見ている。そして大統領選挙を控える台湾の動向が大変注目されている。オリンピックを控える北京に対して、なにかを起すなら今がその好機と言う。

しかし、どうだろうか、多数派と言う鳥籠に入った者に、次のように訊ねてみるべきではないか?

Is Socrates dissatisfied better than a Pig satisfied?

餌を与えられた太った豚よりも、不満だらだらの痩せたソクラテスの方が良いのか?とは、ベンサムの影響を受けた19世紀中盤の英国功利主義者ジョン・スチュワート・ミルの有名な言葉である。豚は誰でも知っているが、それではソクラテスとは一体?

手元にある書物で、中江兆民の「三酔人経綸問答」を批判的に扱って、丸山真男がプラトンの対話論と、これを比較している。その中で、「ポリティア」から「正義とは何か?」を挙げて、トラシュマコフと言うソフフィストが「正義なんてものは結局強者の利益なんだ」とまくしたてるのに対し「強者が自分の利益に成るように法律を作り、その法律に反するやつは不正義とする、これがトラシュマコフの立場です(念のために一言、付け加えますが、正義と日本語でいうと、もっぱら倫理的な意味にとられますが、西洋語ではJUSTICEに当たる言葉は、伝統的に法との関連で用いられます…)」と説明する。

そして上の問いかけに対してソクラテスが「そうですか、すると強者は常に判断を誤らないのでしょうか」と反論、「いや、それは強者でも判断を誤ることがある」とトラシュマコフが応え、ソクラテスが「とすれば強者は自分の利益だと思って法律を制定したのが、本当は判断を誤って、それが自分の利益にならないということがありうるわけですね」と指摘する。

そして、「ありうる」と肯定するトラシュマコフに、「そうするとあなたが、正義とは強者の利益だ、という場合、それは、本当に、つまり客観的に強者の利益なのか、それとも強者がこれが自分の利益だと思っていることなのか」と命題の矛盾を突く。

そして、知っていると思いこんでいることが実は、本当に知っていないのだと言う自覚、これがいわゆる真理発見の出発点としての「無知の知」を暴く弁証法の修辞法であることを簡潔に説明して、丸山真男は以下のような結論を導く。


ところが「三酔人」は、…絶対的な真理、あるいはドグマ ― ドグマと言うのは何も悪い意味でいうのではなく、経験的命題ではない教理と言う意味ですが ― そのドグマが前提とされていて、それを伝達する手段として問答体の形をとる「法輪」ないし「カテキズムどちりな・きりしたん)」の伝統とは、あきらかに違っています。中略...ところが「三酔人」で登場する三人は、何かの特定の教義を代表しているのではない。では特定の当時流通していたイデオロギーをそれぞれ代表しているのか。…必ずしもそうばかりともいえないことがわかります。中略...というと当時の日本が直面している問題の広さと深さ 中略...そういう問題の所在、問題のパースペクティヴを読者に示すためです。


こうして、異なった意見を対等に弁証する場合や、賢者が愚者に語リ啓蒙する場合や、様々な観点から光を当てることで認識が立体的に豊穣になる問答の形式の差異を観察する事で、ソクラテスのみならず、知っていると思いこんでいる豚の姿もくっきりと見えて来るのではないだろうか?


参照:
丸山真男著「忠誠と反逆」-日本思想史における問答体の系譜
欧州特派員の視点(1)朝日新聞 (小林恭子の英国メディア・ウオッチ
不破前議長の記念講演(VIDEO) - 日本共産党創立85周年記念講演会
襲い掛かる教養の欠落 [ 雑感 ] / 2007-07-27
自由民主の連邦共和制 [ 歴史・時事 ] / 2007-06-03
無色、要・取り扱い注意 [ 生活 ] / 2007-03-03
ここにいたか、売国奴よ! [ 歴史・時事 ] / 2007-01-17
野蛮で偉大な時の浪費 [ 歴史・時事 ] / 2006-12-06
強靭で灰汁の強い宣教 [ 生活 ] / 2007-01-16
素朴に宿る内面の浄化 [ 文学・思想 ] / 2007-08-11
ズタズタにされた光景 [ 音 ] / 2007-08-10
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気付薬は廉い方が良い?

2007-08-13 | ワイン
土曜日は、暑くもなし寒くもなしであった。台所の食塩の口が湿気って箱までグッショリしていた。確かに山沿いの稜線は霧に隠れた。そのような特殊な低気圧下にあったためか、胸苦しく、全く元気が出ない。

こうした天候には気付け薬代わりに強いアルコールが良い。しかし、ワインを常用するようになってから、48度のスコッチも永らく切らしている。それで、先日手に入れた2003年産のシュペートブルグンダーを初めて家で試す事にした。

試飲の様子は既に書いたが、注目点は食事との相性で、味の広がりと、酔い心地である。結論から言えば、酔い心地はアルコール度14.03の強さに係わらず大変気持ち良く、その素性の良さを示していた。食事は、ビーフステーキを焼いたのだが、試飲で気になった酸も邪魔にならないのは当然としても、食事を更に流しこませて進ませることはなかった。つまり、更に血生臭い料理になるとあまり良くないかも知れない。

その種からピノノワールに合わせる食事が良いのは分かるが、そのワインの味自体は、白檀のような香木の香りが一晩も措くと消えて、アルコールにパイナップルが交じったような土壌の味が出てくる。その透き通った色が示すとおり、このクラスとしては弱いと言う感じで、特に2003年産はタンニンも少なくアルコールだけが目立ちやすくなっている。反対に、南ワイン街道などに多いふてぶてしいワインではなくて透明感と繊細さがあるのだが、一本で21ユーロの価格を考えると些か物足りない。ブルゴーニュを探せばこの価格で更に良いものが見つかりそうだからである。

フランス製のブルーチーズをこれで食すと、決して悪くはないばかりか素晴らしいのだが、先日の格下の16ユーロの商品と比べて、この価格だけの差は、アルコールの強さ以外にはそれほど大きくはなかった。つまり、廉価商品の方が遥かに国際競争力があると言うことになるのではないか。2003年のドイツの赤ワインに血眼になる国粋主義者や田舎者ならば、その差異に気がつかないのかも知れないが。

さて百薬の長の効果は、大変顕著で、快適な酔い心地で、日が暮れるのを待って、漆黒のワイン畑を半時ほど一生懸命彷徨い歩く。アルコールが入って暫らくは、幾らか心臓に負担のようなものを感じたが、散歩後は大変生気に満ち溢れたのであった。

夜が明けて、昼飯には残りを飲む。残念ながらアルコール分までが物足りなくなる感じで、偉大なワインには程遠い。反面、アルコールの力強さと清楚さを持ち合わせているワインであった。評価は、上に示した通りで、大変割安であるが、廉ければ廉い方がやはり良いのである。

このワインは、2003年ケーニクスバッハのオェルベルク産のものであった。
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日常消費ワインの夏越し

2007-08-12 | ワイン
ワインの夏越を考えている。どうも2006年のリースリングは、なかなかこれを容易に越えてくれないようだ。

何種類かのリースリングに、ヘタレ易い酸を確認した。最も手ごろなクラスからシュペートレーゼまで皆同じ傾向にあるようだ。そして、バランスが取れていたそれらは一様に酸が急に落ちてミネラル風味が前面に出てくる。

砂利の土壌のキャビネットクラスで大変素晴らしかったダイデスハイム産も、二月程前には素晴らしかった酸の爽やかさが土壌の味そのものの灰色の味になってしまっている。それでもミントの味などは残るものの、当初の瑞々しが落ちるのが早過ぎる。

これは、昨年の葡萄の生育と熟成度によるものと想像出来るのである。それにしても、味の繊細さの微妙なバランスが六年も経たずに、収穫から十ヶ月もしないうちに背後に追い遣られるとなると、上下のクラスの価格差が全く無視されてしまうようで、廉い単純なワインの方が明らかにお徳となる。

こうしてリースリング種の葡萄が土壌から吸い上げたミネラル質の味ばかりではつまらないので、今日は赤ワインを開ける。
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素朴に宿る内面の浄化

2007-08-11 | 文学・思想
承前)シュテファン・ゲオルゲ一派のシェーンベルク一派への影響をさらに考える。後者の中にいて、首班を父親の権威の如く仰ぎ影響を受けていたのは、ミニュチュアリズムの作曲家トニーことアントン・ヴェーベルン博士である。

当然のことながら、無調音楽へと進む作品番号で二番から四番を、またそれ以外の作品カタログから除外された曲を含めて都合全15曲ほどの作品を、ゲオルゲの詩作を用いて完成させている。

そこでは、素材を徹底的に活かすことから、作品三との創作時期が前後すると言われる作品二の四声混声合唱曲ではカノンによる対位法によって調性の束縛から遠ざかる方法を取りながら、最後の作品四ではその厳格なシンタックスの詩作に既に明らかに点描的に色付けをしており、その内容と共に改めて注目すべき点が存在する。

なぜならば、一つにはそのシンタックスを、素材と幾分距離を置いた師匠とは異なる方法で扱っていることであり、もう一つは作曲家の世界観が詩人のそれとは相容れないとする一般的な指摘*が流布しているからである。

そして、この創作の次ぎの過程に訪れる有名な作品五からの荒唐無稽と思われた芸術は、ここにその萌芽を見て取るのが最も都合が良い。それゆえに、その後の約四半世紀の時の経過にもその作曲家の美学を読み取ることが出来る。

ナチ・レジームとなった時である。祖国オーストリアが合弁されて、自らの作品は退廃音楽の烙印を押されるようになった後も、ゲオルゲ一派とナチとの親密な関係を知り、自らの不名誉の撤回を期待していた作曲家は、1941年のクリスマス状に、パールハーバーの大日本帝国参戦の報を受けて次のように語っている。

「私には、それがどう係わるかはなんとも言えません。一体、誰がこの民族から生じるものについて知りつくしているのですか!この考えは、充分に信憑性があるものですと言わなければいけません。私が想像するに、大和民族は、全く健康な種族のようです!徹底的に!新しいものが、湧き起こるのではないですか?無垢で、太古の土壌から! ― 私はそのように思うばかりです。それ以外に言い様がありません。それで、私はなんと幸福なのでしょう!!!...もう少しで、再び活発化するのです。― 私が年中、強く心に感じている自然の大きな変動なのです。なんと素晴らしいことでしょう!」

当時あまり読まれていなかったヒットラーの著書「我が闘争」を下線を引くほどに熟読しながらも、元々社会民主党の親派でもあり1934年の労働闘争に拍車をかけた演奏会「闘争への歌」を指揮してナチに「ボルシェヴィツキの作曲家」と糾弾される。それでも1940年にこの作曲家は、「内面の浄化において発展を示す幾つかをあげることが出来るのです。それは、ドイツであり、他でもない国家社会主義なのです!!!二十年前に出来た国は、いまだ嘗てない新しい国となっているのです。新しいものです。...一期一会の、この自然に端を発するものを認めましょう。」と、自然災害のような独裁体制の革命的急変に憂慮しながら、世界を力によって平和に導く第三帝国に大きな希望を抱いている。

あれまでに、厳格なドイツ伝統音楽の継承者に、一般には*そのあまりに素朴な思想が指摘されるが、実際には当時の文化人にとっての共通項をも見る事ができる筈である。少年リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカーの首を強く握ったゲオルゲの手の感触を思い浮かべながらその文学の影響力と愛着を先日もインタヴューで語っている。同じように戦後ビンゲンの隣町で化学会社ベーリンガーに務めていた、後に連邦大統領となる会社員が案内したエルンスト・ユンガーの印象とそれへの評価とは、しかし大きく異なる、ゲオルグ派の世界観を読んでいくのは、今日から見る戦前レジームつまりヴァイマール憲章下のドイツ共和国を備に見ていくことでもある。

シュテファン・ゲオルゲが残したもの、その一派を教育したもの、マックス・ヴェーバーからアドルノが放棄していた秘密、それをこれからこうして見ていくのである。



*昭和54年度文化庁芸術祭参加受賞作品「ヴェーベルン全集」録音制作の資料を見ると、特に該当の日本版においては誤りなどが幾つか散見した。その日本語版の執筆陣がただの誤訳資料を参考にした誤りと言うよりも、衒学的な知識や認識からのステレオタイプの思い込みがその誤りの背景にあるようで大変具合悪い。「ナチに対する賞賛」が先入観念**から「ナチ否定の文章」として訳されるのはご愛嬌である。しかし、それは今ここで扱おうとしている議論や考察に初めから参加出来ないようにする構造主義的な知識や思想の固定化であり、ゲオルゲを「冒涜の思想」で括れる大胆な単純化や均一化は、「ニヒリズム」を「無常観」と容易に置き換える文化土壌ならではでもあり、「無神論」を「素朴な宗教観」に対比させるその素朴な民族文化は、上の作曲家が絶賛した「無垢な民族」の特徴なのでもあろう。そうした土壌に、知的な議論も本当のジャーナリズムも生まれないに違いない。

**後には、第三帝国を批判していたのは良く知られている。ヒットラー暗殺計画未遂の粛清の影響はどうか?



参照:
"Webern" von Hanspeter Krellmann
"Opus 1945" von Stefan Amzoll(Freitag37)
"Das Geheimnis des Stefan George" von Frank Schirrmacher(FAZ)
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ズタズタにされた光景

2007-08-10 | 
承前)シュテファン・ゲオルゲの詩作に作曲したシェーンベルクは、その当時の本人の言葉を借りると次のようになる。

「発展は、そこに強いるのです。リヒャルト・シュトラウスはそこにグスタフ・マーラーと共に功績があるのだろう。しかし、ドビュシーやマックス・レーガー、それにプフィッツナーがそれに突進したのである。私がここで行い、彼を踏襲したことなのです。手順において最も優先されるのは、最初に足を踏み出す一歩を定めることで、一般的な貢献と言うことを顧慮することではありません。― しかし現実には、残念ながら無視できないものなのです。」

こうして、調性からまさに浮き上がる瞬間を迎えるのだが、その踏み出す向きは、既に所謂後期ロマン派の延長線として存在する世界で、マーラーの交響曲にまで遡る必要も無く、同作曲家の「グレの歌」や「浄められた夜」でお馴染みの世界である。

しかし、ここではゲオルゲの厳格に編まれた詩が、そのまさに解き放たれた世界が、重力を以って大地との関係を保つような形で、音化されているのである。その関係こそが、無調へと進むこの時代に作曲家たちが拠り所とした「宇宙の掟」であり、アドルノが解説するようにそれはあまりにも教科書的な枝葉末節なことでしかないが、シェーンベルクがその後十二音技法へとそして米国へと亡命して、ロス・アンジェルスで創作活動を続けた晩年の先祖帰りのような創作を評価する 標 準 点 ともなり得るのである。

弟子のアントン・ヴェーベルンが飽く迄も素材に拘ったのとは反対に、それはシェーンベルクがベートーヴェンの後期の作品群を指して、突然の断絶と外へ向う空洞と、客観的にはそのズタズタにされた光景を、主観的にはその光景が灼熱に輝く光を言い、不協和の力に裂かれた協和の合成でもないとしていることに相当する。

さてゲオルゲの該当の詩は、その英語対訳では到底その真価を理解できない、少しでもドイツ語の字面を観察すれば解るほどの視覚的相違は、綴り方の厳格さからして音響的にも断絶を持った形式を与える事となる。そうした、枠組みがあってこそはじめて浮遊することが出来る自由空間が得られたのである。

この詩を用いた四重奏曲の初演は、グスタフ・マーラーが反ユダヤ主義から宮廷劇場の監督の座を追われ、本人もベルリンへと移住した、あまりにも保守的な当時のヴィーンでは受け入れられずに、その様子を作曲者自身次のように報告している。

「驚いたことに、一楽章は賛意も反対も何も示されなかった。しかし、二楽章は始まるや否や、多くの人は笑い出し、三楽章「リタナイ」と四楽章「別世界に移る」の上演を妨害し続けた。それは、ローゼ四重奏団とマリア・グットハイル・ショ-ダーを打ち乱した。」

現在の我々は、マーガレット・プライスの歌唱とラサール四重奏団の録音でこれらの楽曲の真価を知ることが出来る。嘗て全曲演奏を行なったアルバンベルク四重奏団や今日もこれらをレパートリーとする演奏家が、この秀逸な録音を凌ぐことは難しいかも知れない。それは、今日の世界の思潮にある種の超越した枠組みと言うものが存在しないように、そうした原理原則が存在しない世界であるからなのである。(続く


視聴:
Arditti String Quartet / Dawn Upshaw
NEW VIENNA Quartet / Evlyn Lear
Crazy Quilt



参照:
"Schönberg" von Eberhard Freitag
"Philosophie der neuen Musik! von Adorno
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どこかで聞いたような話

2007-08-09 | 文学・思想
ドイツ象徴主義詩人シュテファン・ゲオルゲは、1907年に「七つ目の指輪」と題する詩集を認めている。その一つ、「別世界に移る」では、他の惑星からの大気を吸いながら、暗闇に囲まれて、いつもの道や木が見えず、地面は白く柔らかい乳漿のようで、荒れ狂う嵐に襲われてと書いている。そして渦巻く音の中に自己を解放している。

どこかで聞いたようなである。葡萄の畑の中を歩いているのか?この詩と「リタナイ」と題された同じ詩集からの詩を並べると、同じ年に作曲されたアーノルド・シェーンベルクの作品番号10の嬰へ短調の第二番弦楽四重曲のそれぞれ四楽章と三楽章となる。リフレイン毎に変奏曲とした三楽章と、まさに別世界へと調性の世界から離れるその終楽章で、この詩が忠実に音化されている。

シュテファン・ゲオルゲの初の伝記が出版を前に新聞連載される。パリのマラルメを訪れ、影響され、ホフマンスタールによってヴィーンへと伝播した所謂ゲオルゲ派を形成する詩人の全容が始めて明かされようとしている。そのようなことで、ゲオルゲがビンゲンの人間であるとはじめて認識した。

ビンゲンのワイン商の倅として生まれ、ダルムシュタットで教育を受けている。パリをはじめ住所不定でところ定まらずであったとするのが一般的な認識であったようだが、実はビンゲンの生家には必ず帰って来ていたようである。更に、第一次世界大戦で両親を亡くしたことから、戦後15年間フランスにライン左岸が占領されて、その所帯が変わってからもタウナスのケーニクシュタインから、生まれ故郷に近い家族の想い出の地ヴィースバーデンのクーアハウスへと、しばしば舞い戻って来ていたと言う。

そしてその第一回目の連載にトーマス・カーラウフは、― ゲオルゲは、ラインの風景を好んで、訪問者たちと決まってワイン山の中腹へと長めの散歩を楽しんだが、その自然はやはりこの詩人には異質なものであって、牧歌的と言うものが欠けているとして、「風景は経験の背景にしかなかった」 ― と挙げる。

この詩人とその一派が大きな影響を与えたのは、ヴィーンのシェーンベルクらの一派だけでなく、ヴァイマール共和国でのドイツ主義であった。その思想は、国家社会主義の本来のドイツとドイツ文化の自覚であったように、多くのナチ党員を輩出したようである。宣伝相ゲッペレスに、ドイツ詩帝国協会の総裁に推挙されるなど、詩人はそれを固辞したようだが、思想的にナチの重要な核となっていたようである。

そうした一派の影響を特に強く受けたナチの要人に、ヒットラー暗殺計画の首謀者フォン・シュタウフェンべルク伯爵のみならずフォン・ヴァイツゼッカーなどが居り、またクラウス・マンが居ることから分かるように、保守主義から社会主義の間にその1928年のゲオルゲの著書「新帝国」はあるのだろう。

その神秘主義的な世界観の側面を鑑みると、最近議論となったサイエントロジーのトム・クルーズが新しい映画で、フォン・シュタウフェンブルク伯爵を演じることへの反響も、更にその背景をも実感できるのである。(続く



参照:
"Das Geheimnis des Stefan George" von Frank Schirrmacher, FAZ vom 3.8.07
"Stefan George - Die Entdeckung des Charisma"(1) von Thomas Karlauf
シェーンベルク ゲオルゲの詩「架空庭園の書」による15の詩ひろのマーラー独り言
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暑気を忘れて漆黒の闇へ

2007-08-08 | アウトドーア・環境
22時を過ぎて、日が暮れた。食事も済んで心持良くワインを飲んでいた。昼間の暑気を忘れる風が吹き出したので、散歩に出かける。

台風の接近する夜のような強い風が吹くと夜道も騒がしい。葡萄の木は、二メートル以上に伸びて、それらが大きく揺れると、殆ど威圧感がある。それらがざわざわすると不安でさえある。

新月はまだ六日先であるが漆黒の闇である。我々都会人は夜目が効かない。きっと、耳も効かないのだろう。ワイン街道が、ワインフェストのみならず、列車の線路敷き替えのために踏み切りで分断されている。勿論列車も通らない。午後にも物音しない大変静かな時間がある。

こおろぎが葡萄の木の根元で盛んに鳴いている。農道の左右で上手くハーモニーとなり輪唱しているのもある。そこを進んでいくと絶えず音の流れや向きが変わる。

向こうからある年齢に達した女性の声が聞こえた。喉を鳴らすと向こうもそれに応えるように男が喉を鳴らす。正面衝突を避けて、一言かけて行き違える。女は、白っぽい衣装を着ていたようである。

斜面の上の帰路を進むと益々風は強くなり、真っ直ぐ歩く努力をしなければいけない。こおろぎの鳴き声の音の絨毯は相変わらずだが、珪素の多い土壌にやってくると、その合唱は大分疎らである。暗闇を導く白く舗装された道は、往路に比べて明らかに涼しい。昼の暑気は、完全に去っていた。
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差異と感受性を見逃す

2007-08-07 | 雑感
本日も戸外は焼けるように暑かった。日陰でも三十度を越えていたようである。昨日よりも幾らか過ごしにくかったのは、空気が温まってきたからだろう。夜八時の空を見上げると、入道雲が出ている。冷たい風も吹いてきたので、また直ぐに夏は過ぎ去るだろう。やはり空気が冷たいので、夜は冷えるかも知れない。

「あまりにも容易に、差異と感受性を見逃して、時々主観的に綴られたに過ぎない批判」と、古くなったアヴァンギャルドに向けられた幾らか上手に纏められた意見に釘を刺すのは、作曲家で様々な機構の芸術監督でもあるウド・ツィンマーマン教授である。

「前衛とは、閉塞したサークル内で忠実に商店街を出しているようなものだ」との批判にこうして答えている。バイエルン放送協会の音楽祭ムジカ・ヴィヴァのプログラム巻頭の言葉である。
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ケロイドの皮膚感を覚える

2007-08-06 | 
Hiroshima, mon amour (広島、私の愛)」を観る。原爆特集でVIDEOに録っておいたものである。長崎への原爆投下を扱った黒澤監督の「八月のラプソディー」に続けて録画されている。

ヌーヴェル・ヴァーグの成功作としての評価が高いアラン・レネ監督の1959年の白黒作品である。ナチの収容所を描いた作品「夜と霧」と対を為しているようである。

その背景や映画の価値については判らないが、録画しておきながらこの作品を真面目に通して観るのは初めてである。何よりも冒頭からのベットシーンが鬱陶しく、到底続けて観ることが出来なかったからである。しかし、我慢して最後まで観ると、大変興味深く、改めて冒頭から見直さなければいけない。

何よりも冒頭の男の汗が吹き出すような肌が大写しとなるシーンは、不思議なことに岡田英次がやはり主人公を演じる数年後に制作された安部公房原作の「砂の女」を思い起させる。その肌は、砂にまみれてざらざらしている様でもあり、ケロイドの様でもあり、でこぼことした質感が強調されている。

この冒頭の感覚が、フランス女の突出する感情にも、男の何を考えているか解り難い不思議な爬虫類のような表情(上「砂の女」の人格を見せる名演技とは異なり、ここではジャッキー・チィエンのような外見に動物的な演技を見せる)にも付きまとう。その感覚が、その直後に映される原爆病院の風景や原爆投下後の映像の効果にも大きく影響を及ぼす。

原爆記念館を訪問したことのある人間にとっても、この文脈で以って、その展示品の一つ一つや様子をこの映画で見せられると、まさに皮膚感覚でそれを感じることを迫られる。

そして、どれほど数字や映像や資料を付きつけられても、何も見ていないから、忘却の彼方へと運ぶ事も出来ないのだと。

当初感じていた抵抗感こそが、その感覚であり、どこまでもその違和感の中に理性的に客観視することを阻害している。それは、音楽の使い方にも表れていて、実録映画の影響を受けたのだろうカメラワークの映像に合わせて、月並みな背景音楽が自然の環境音へと切り替わっていく、聴覚の焦点の合わせ方にその感覚が対応しているようである。

男女ともがその表情から様々なことを語っているのだが、それは最初に説明されていないので何度か観ていかないと意味が分からない。それを指してか、映画監督ゴダールは、この作品をウイリアム・フォークナーとイゴール・ストラヴィンスキーの合わさった映画と呼んでいる。

それにしても、劇映像への実写の抽象的映像への焼き直しのなかで、女の髪を切るカットと原爆症の抜け毛の映像、男のうつらな表情と原爆症に苦しむ被爆者の表情などが数限りなく重ね合わされて、何処までも実感を迫る映画となっている。一旦、上映会場に入るとそこから抜け出すことは出来ないのである。



参照: 
「二十四時間の情事」アラン・レネ (Mani_Mani)
「夜と霧」アラン・レネ (Mani_Mani)
政治的核反応の連鎖 [ 歴史・時事 ] / 2006-10-17
ヒロシマの生き残り [ 暦 ] / 2005-08-06
ホロコーストへの道 [ マスメディア批評 ] / 2005-01-29
市長ズミット博士の港から [ 歴史・時事 ] / 2004-12-07
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ハイデルベアーの味覚

2007-08-05 | 
本日は久しぶりに夏らしい。三十度に至らず、ぽかぽかとしている。爽やかで気持ちが良いとは言えないが、真っ青な空に日差しが強い。夜は冷えるかもしれない。

こうした日には、野菜や果物が美味い。本日は甘いスイカが出ていた。ネクタリンやプラム類に、またミラベルを楽しむ。先日食したハイデルベーアは、それで出来た同じような形の乾燥菓子の強く印象に残る味を思い起させる。

昨晩は、本のネット注文のついでに、廉価CDを探して夜なべした。今日は目が焼けてはれぼったい。結局、本は求めたものとは異なり不要なことが分かったが、既にネットの買物箱の中には沢山のCDが放り込まれているので、異なる手ごろな本を探して注文することになる。本の注文で無料になる多少ばかりの送料をケチりたいからである。こうしてまた積読の書籍が増えるのである。なにせ、一枚は新しい録音ながら二ユーロしないので、払う必要が生じる送料よりも廉いのである。

文庫本一冊に五枚のCDで、殆ど44ユーロとなってしまった。廉価版を選んだ心算ではなかったのだが、必要なCDをお買い得のうちに確保しておこうとした買物であった。

文庫本の方はアドルノの著作であるので、直ぐに手がつけられるかどうか判らない。しかし、CDの方はハイドンの交響曲やピアノソロなので、暑い日々にも邪魔にならないで、鳴らせるのが嬉しい。同じような感興を持って嘗て購入したマンハイム楽派のLPなどは手元にあるが、演奏は素晴らしいもののどうしてもその音楽芸術の限界が見えてくると、鳴らすのもその物足りなさから鬱陶しくなってくるのである。

そうなるとアドルノではないが、どうしても楽聖ベートーヴェンの哲学的美学やその正統的な演奏様式が気になり出してきて困る。そのような構造主義的な美学観は今日的ではないと言う批判が一方にはあるからだ。しかし、ただただ爽やかだから良い訳でもないのである。鬱陶しいのとは、紙一重であるからだ。
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河口から世界に向けて

2007-08-04 | 雑感
ポーランドに拘る。それは、そこに過去とそれに連なる今日が見えるからに違いない。

ステーティンは、ドイツとポーランドの国境を為すオーダー河口の港町で、ハンザ同盟の町であった。戦後直ぐのそこの住人の42%がユダヤ人であったようで、その三万一千人の一部は、1939・40年ソヴィエトに逃れもしくは輸送されていたようである。またその内の一部は、シオニストとしてイスラエルへと巨大な墓場と化した祖国から去り、また一部はスターリンの粛清を逃れてもしくは犠牲者となり、1957年には、ポーランド化したユダヤ人のみが残っていたと言う。

そして今回、世界中から当時の当地ユダヤ人学校の同窓生達が集められた。彼らは、イスラエルや西側へ1968年に追放されたユダヤ人である。彼らは、ナチの迫害を逃れ社会主義の実際に失望しながらも、祖国に同化して暮らしていたのだが、中東で六日戦争(第三次中東戦争)が始まると、イスラエルは敵国となり、ユダヤ人も差別されるようになる。こうして、再びポーランド全土から一万四千人のユダヤ系ポーランド人が旅立つことになる。

ロシアに向う、ポーランドの国民作家アダム・ミツケェヴィッチの上演禁止に反発した高校生は、ユダヤ人であるだけで監視される。同高校のバンドのメンバーで後にイェーテボリの物理学教授となるミエテク・リザークは、反イスラエルの声名を拒んだときから、今でも百パーセントの帰属を感じるポーランドに距離をおかざるを得なくなり、海外へと職を探すきっかけとなった。

ステーティンは、プロイセンの影響も多く新教化した町であるようだが、こうした事実は、現在のナショナリズムが勃興するポーランドの問題でもある。しかし、ポーランドの友人たちの反応を見れば分かるか、彼らにとってこうした仔細な問題は、どうでも良いのであって、出来る限り歴史的な地政学上の認識の内に曖昧にしておきたい問題であるかのように見える。決して明確に議論可能とは思っていないのである。

議論とその姿勢が必ずしも良い結果を齎すとは限らないのが、二十世紀のドイツの歴史とそのあまりにも明快な 選 択 と 処 理 に表れている。しかし、その反対に民族の素朴な信条を利用するような権力は、批判されるべきものに違いない。

そうしたあたかも納屋の影にいつもさりげなく置かれているような素朴さに、如何に照らす光を当てるかが問われているのであるが、それはその素朴さゆえに容易に提示出来る方法はなかなか無いのである。近代の商工業化された世界では、それは様々な媒体によって試みられる認知なのである。



参照:
"Sie glauben, sie seien ein Teil Polens" von Helga Hirsch, FAZ vom 1.8.97
時代錯誤の美しい国の傷 [ 雑感 ] / 2007-07-31
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一晩どころか半時経つと

2007-08-03 | 
温かな日があるかと思うと、涼しい日がやってくる。特に室内で一日中座っていると、肌寒いと言うほかない。

余りの肌寒く体が凍えるので、冷えた白ワインなどは論外である。こうして、ボルドーの豊満な赤ワインを地下へと取りに行く。暑い夏はヒンヤリとする地下であるが、冬のように暖かいということはないが、それほど冷えた感じはしない。

朝、天気が良く青空が見えるような日は、秋のように寒く、曇るとそれはそれで肌寒い。午後に、陽が高く上ると生暖かくなって窓を開ける必要がでてくるが、それも小雨が降ると風が吹き急に気温は下がる。

先日も、天気が良く決して暑くはないので、日差しを浴びに散歩に出かけようとするが、体が冷えてなかなか出かける気が起こらなかった。そこで、地下から運んで来たクリュ・ブリュジョワー級のオー・メドックの栓を抜いて、デキャンタに移す。

1998年産なのでその前々年などに比べると偉大なヴィンテージではないが、果実風味が好ましい。そのシャトーの特徴で、フィルターを余りかけないのか濁りがあるので、その分色が濃く酸味よりも熟した風味が嬉しい。そのまろやかさはボルドーのシャトーの特徴で、タンニンも既に弱っている分大変口当たりが良い。それを少し引っ掛けると、体の中から生気が蘇り、何時の間にか靴を履き換えていた。

いつもの道筋を一心不乱に歩いているうちに体も温まり、半時後に帰ってきたときには薄っすらと汗染みていた。更にチリ入りのカルネを食すると夜になって初めて本格的に元気が出てくるのであった。

ワインは、明くる日も同じように飲んだが前日に比べると些か物足りなくなっていた。決して悪いワインではないのだが、一流のメドックなどとは異なり、力が弱く芯が細い。前日はあれほど美味いと思ったワインであるが、一晩経つとこうなるのが、まあ何事でもそうだが、普通なのである。

ここ暫らくはTシャツ・半ズボンで過ごしたり、窓を開けて就寝することは出来ないが、一日の内でも長袖を着たり半そでを着たりと結構温度変化が激しい。


写真:飲んだワインの地所と南仏の青い空
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