Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

峠の手前の栽培風景

2024-10-17 | アウトドーア・環境
窓拭きはここしかない。既に室内の光量は落ちてきている。少しでも光を入れて温度としたい。暖かくなるのはこの二日ほどで、その後に雨が降るとしても片付けるしか手はないであろう。夜間もまるで日本の秋のようなアルプス以南から戻ってくると旅行以前よりも明らかに冷えるようになった。10月の晴れ間も予報からすると望み薄だ。

南の空を思い浮かべながら、ミラノからの復路でのワイン地所を回想する。若干ネットを調べてみたがこれといった情報はあまり見つからない。最初に見つけた醸造所は1990年代からやっていて、どちらかというと病気にも強い品種改良した葡萄で条件の良い収穫と付加価値をつけている醸造所のようで、道理で様々な品種が植えてあった。そこでも一生懸命写真を撮ったが、お目当てのメルローは余り写せていない。メルローはワイン街道ではあまり見かけないので、五つ指の手相はU型とは認知できていなかったからである。

その歴史的な栽培風景を見ると感動する。如何にその谷の高地での生産量と栽培の横たわっている困難が知れる。だからこそ募金をまで募って高付加価値のワインを出している。葡萄を棚状にして栽培しているのも特徴で、周りを適当な高さで花崗岩で囲って霜を避けているのだろうか。標高からすれば400m前後ほどなのだが、村の最高高度は2740mまであるということは如何に大きな斜面が横たわっているかということだ。つまり、燦燦と降り注ぐ光の中で酸も充実して糖も十分な実りが期待される。紫外線が強いと色素も違うだろうか。

そして今回四本のメルローを購入して、二本は既に開けた7フランケンの一本は既に試したことがあるものでロカルノで泊まったキャムプ場のお隣の醸造所だった。もう一本は復路に給油した街にある醸造所で、主に周辺の葡萄を使っている様だ。そこで明らかになるのはやはり南になるほど土壌も変わってイタリアワインのようなどってりした熟成に近くなっている傾向があることだ。

土地勘があるので、ロカルノ周辺の土壌の感じもよく分かる。クライミングほど土壌に親しむスポーツもないだろう。テチーノ自体はワインに関しては白もそれなりに出ているようだが、これに関しては現在研究するほどの動機付けはない。

もう一本買ってきたのは地元のメルローでこれも二回目である。ルツェルンで購入したものと同じ年度のもので全く同じものだが開けるのは楽しみだ。それ程アーモンド感など味わい深かった。次にバーゼルにでも出かける時にでも補給しておきたい。

残りの一本は価格的には少し上であったが、20フランケン以下で選定した。理由は高価で樽に寝かしておいたりしていても、その葡萄の素養とは関係なくて、所謂酒蔵での仕事に付加価値であることが多いからだ。勿論、手間をかけたワインにはそれなりの栽培から摘み取りにまでコストを掛けられるということはある。

但し大手の醸造所が工場のようなワイン蔵で醸造して付加価値をつけるだけということも少なくないので、その辺りもエティケットなどである程度検討をつける。嘗てLPを購入するのにジャケットで零細の手作りの録音を率先するという人気のオーディオ物書きがいたのを思い出す。



参照:
持ち交わす共感のありか 2024-10-14 | アウトドーア・環境
クリスマスに向けて 2023-12-20 | 暦
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羽根の生えた軽やかさ

2024-10-16 | 
承前)ミュンヘンでのペトレンコ指揮「ばらの騎士」は必ずしも大成功していなかった。その理由は2017年の評に書いてある。そのシェンクの演出に問題があったことは余りにも明白だった。そして読み返して意外に思ったのはあの時でもまだミュンヘンの座付きは克服していなかった。

先ず今回のスカラ座の楽団は、管の色合いが異なり、全てにおいて色彩的であったことだ。これはミュンヘンの影を認識させる響きとは全然異なり、ヴィーナーの倍音成分の多い響きとも異なり、なによりも明るい。

管はもとより弦の奏法が異なるのは、今回ソロを弾いていたドイツで学んだアバドチルドレンのスカラ座二代目の友人のその演奏でも馴染みなものであり、特に一幕における叙唱風の沢山の短縮化されない歌詞へのつけ方で大きな意味を示した。

たとえミュンヘンの楽団がどんなにペトレンコ指揮で統制されていてもあのような弓使いの軽やかさはその伝統的な特徴からは離れる。それを軽やかに羽が生えたようになりながらもしっかりとリズムも刻みそして何よりも声に寄り添う能力はヴィーンの劇場では到底叶わないものだった。

こうしたアンサムブルはなるほどアバド指揮のロッシーニで聴いたものであり、現在のシェフのシャイーのそのトレーナー能力のお陰であることは全く同じなのだ。もしかするとペトレンコ自身も今こそアバドの跡を継いでの仕事が出来ると考えているのかもしれない。

同時にスカラ座からこうした嘗てクライバー指揮で経験したようなダイナミックで力動感溢れ大きく波打つ音楽はシャイー指揮では到底不可能なもので、トレーナー指揮者であることを確認させてくれる。ある意味それ程現在の状況があの当時の全盛期を超えているかもしれない。それ程真面に振れる指揮者が登壇してなかったということだ。

なるほど今回の公演最後の拍手においてもとても大きな成果を上げていたオックス役第一人者のグロイスベェックの歌唱に対して少なからずにブーも混じっていた背景がそこにある。ミュンヘンなら大喝采で終えていた、恐らく最も喝采を受けた筈のその歌唱も、イタリアにおいてはジャンニスキッキのマエストリのようなベルカントの声を望んでいるのだろう。

映像等では確認していたのだがマルシャリンを歌ったストヤノーヴァにはダイナミックスが欠けていたと思うのだが、一つには演出と指揮者の制御も効いていた可能性がある。それゆえに明らかにクライマックスは最終幕にもってこられ、シェンク演出のドラマテュルギー上の問題が明らかにされる。

こうなるとどうしてもベルリンでのメータ指揮のニールントの歌唱と比較して、技術的にもそれゆえに独語歌唱も優れているのだが、明らかに劇場の大きなミュンヘンではやはり厳しいだろう。その分より精査な歌唱と上演となった。(続く
Der Rosenkavalier - Trailer (Teatro alla Scala)




参照:
持ち交わす共感のありか 2024-10-14 | アウトドーア・環境
苦みの余韻の芸術 2017-02-11 | 音
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幻のコモ湖畔の昼食

2024-10-15 | 雑感
雨の合間に走った。四日間殆ど歩いていないのでとても厳しかった。車で移動していると旅行中に歩いたのは駐車場とスカラ座との往復、ワイン地所での写真撮影に50メートル四方内、それ以外ではコモ湖で数十メートル、それが全てだ。合わせても数百メートルも行かない。

更にシークレットシューズで膝に来て、中敷きのお陰で靴が狭くなっているので、土踏まずが押さえられていた。ハイヒールしか履かない女性が膝を傷めるのもよく分かった。更に中敷きを入れてから初めて長い時間を履いて、やはり一寸厳しくなった。型が崩れてきたら変わるのだろう。

苦しんで戻って来て体重をはかると3㎏ほど増えていた。真面な食事を摂れなかったのに理由が分からない。運動を止めたら直ぐに代謝が落ちて太ることが明白だ。太るのは何も食べ過ぎだけではないようだ。

スカラ座に向かう前にコモ湖畔で昼食をと思った。魚介レストランをネットで見つけたが、予約なしではどうかなと思いながらそちらに向かった。然し前日に下見した国境とは異なる所に導かれて、結構街中をうろうろ走った。最終的には湖畔道路に戻って来て、公園などを観たのだった。素晴らしいどころだが、これといったところは見つからなかった。既に14時に近くなっていたので、そこで昼食は諦めて、ピクニックにして、今後の為に土地勘がつくように走り回った。

やはり湖畔道路は何処もかも道が狭く、宿泊しても不便そうでもあった。今後ミラノに通うとすれば国境を跨がずに湖畔でと思っても車での条件はそれほど良くない。それはザルツブルグの湖畔地方とは大きく異なる。

ミラノ市内はナヴィの助けでと書いたのだが、渋滞よりも複雑な道程が慣れないとスピードが出し難く時間が掛かった。週末だったの交通量は往復ともそれ程ではなかった。

23時32分の出庫で市街地を抜けるのも思ったよりも時間が掛かり、最終的に工事とかでコモに降りてしまったので余分に一時間ほど走った。既に夜中の1時を過ぎていた。それでも通行量は山中の狭い道路でも多く、背中を浮かしてハンドルを握り必死で走らなければいけなかった。

帰宅して2時過ぎからジャガイモサラダを食して、缶ビールと赤ワインを飲んで、就寝が3時半前となると、朝の9時前にしか撤収活動がならなかった。睡眠は足りなかったが、ある程度の前夜の興奮もあり、10時20分ぐらいまで宿泊場所の駐車場でネットに入って、ナヴィ等の準備をした。

なぜならば往路にワイン地所を確認できなかったことと、ゴッタルダ峠前で2010年に登ったテッシンで最も長いクライミングルートの場所が確認できなかったからである。復路にそれらを確かめるのが目標となった。

先ずは比較的安かった燃料を求めてメンドリーシオというところで降りて、ドイツまでの20リットルを給油する。まだ髭も剃っていなかった、そんな時間もなかったのだ。



参照:
マッジョーレ湖の風が快い汗 2010-09-27 | アウトドーア・環境
持ち交わす共感のありか 2024-10-14 | アウトドーア・環境
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開花するスカラ座の薔薇

2024-10-14 | 文化一般
スカラ座訪問。先ずは駐車場からだ。無料ナヴィを使っていたが、旧市街は以前滞在していた時には絶対入らないようなところまで導かれた。進入規制で、ネットで調べていなかったら入れなかったと思う。表記が読み切れないからだ。次回も電気自動車として問題はない筈だ。そこで、実はもう一角先の駐車場をナヴィに入れていたが、より近くに見つかった。今調べてみると確かにリストから落ちているサイトがある。理由は分からないが絶好の場所で、前回も使っていないと思う。隣にテチ―ノの自宅から当夜の出演者が停めたことでそれ以上の証はないだろう。然し駐車してから場所を確かめるために地上に出てGPSを機能させた。

19時開演で、オックス男爵は16時30分に入って来たので私より丁度30分後に入庫だった。因みに出庫が23時32分だったので、26,50ユーロの料金もミュンヘンと比較しても妥当である。劇場まで250メートルほどで徒歩3分ほどだった。雨雪でもなんとかなる距離。

早めに入り口で待っていたものだから偶然に隣に座ることになるミュンヘンからの女性に顔を見られていたのだ。ドイツからの客は十分な数が確認できた。まさしくスカラ座における独墺オペラの需要はやはりドイツ語圏からの訪問者によっても支えられている面があるだろう。勿論指揮者ペトレンコのおかあさんも中央のローゲに招待されていたようだ。

目前には小さなモニターが所狭しと設置されている。そこで言語を選べる様になっている。初めて使ったが、ドイツ語を確認するには見難い。イタリア人がイタリア語を見ていても意味はない。なぜならばドイツ語の語感と歌の内容が結びつかないからだ。その点、二か国語でテロップが上に出ている方が便利なことが多い。私でも英語でコンテクストを再確認することもある。

このことに言及したのは、ミラノで10回目の「ばらの騎士」新制作だったようで、作曲家自作自演の1928年、カラヤン指揮演出の1952年、ベーム指揮の1961年、1976年のクライバー指揮シェンク演出、2016年のメータ指揮の今回のクッパ―演出で出色の出来となった理由であり、それがグロイスベック氏が語った意味だと分かった。この歴史的な背景が分かっていたらそのことを質していた。メータ指揮に瑕疵があったとは言わないが今回のペトレンコ指揮は明らかに一線を画していた。

隣のおばさんは、ミュンヘンで2017年2月11日のペトレンコのお誕生日のそれを観ていた。その上演回を質して分かったのだ。少しオタク罹っているが仕方がない。この話しが出るのは勿論今回の演出と比較してペトレンコ指揮の音楽が更によいかどうかが問われていたからだ。

結論からすると、当初の想定通りクッパ―演出の科学的な作業はこの楽劇の真価を明確にしていた。だからこそ今回のような指揮が出来たのはミュンヘンの聴衆も皆認めるだろう。それはシェンク演出が「少しお芝居がかって」というおばさんの言葉に分かるように内容の真価からは遥かに遠い演出でしかなかったからだ。

蛇足だが、クライバー指揮は素晴らしくても、音楽的な内容はカラヤン指揮のそれからそれ程には上まることはなかった。なぜならばそれはシェンク演出公演の限界であり、恐らく本人の指揮のあり方がその域を出るものではなかったことは明らかだったからでもある。(続く



参照:
苦みの余韻の芸術 2017-02-11 | 音
持ち交わす共感のありか 2024-10-14 | アウトドーア・環境
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持ち交わす共感のありか

2024-10-13 | アウトドーア・環境
ミラノから帰宅した。この日の為に何か月準備したのだろう。何時間の時間を掛けたのだろう。車検切れの車で無事に1336kmを走り抜けた。往路でも復路でも四回の国境越えもフリーパスだった。車検に関してはドイツ当局以外誰も関心はないのだが、国境で車輛所証を示すことが多い。そこには最後の車検のハンコが圧してある。つまりいつまで有効かは分かる。国内法規では四カ月以内は猶予が与えられて警告、それを越えると違反となる。前回は5カ月越で見つかって、廃車にするかどうかを迫られた。今回はそこ迄に新車納入の予定だ。

往路は特に早めにいちゃもんをつけられるとミラノどころか宿泊場所にまで到達出来なくなる。その時にはレンタカーを借りてまでを考えていた。更にスイスからイタリアへは車も借りにくくなる。実際に今回はコモの街へとスイスへと同じように小さな税関越えだったが、それでも両方向とも夜中まで渋滞気味になっている。

しかし流石にイタリアの道路状況は悪かった。自動車専用道路にも穴が開いている。狭いだけならばいいのだが、あれだけの穴が至る所に開いているとミラノ旧市内の石畳程度ではなくなる。

現在の車では羽根は折れていても車軸が潜り込まないか心配になる程度である。こちらのワイン地所の道よりも酷い。新車なら明らかに空気羽根の空気が抜ける。イタリアに乗り付けるとなるとなると偶然にも隣に停めた歌手で当夜当代随一のオックス男爵を歌うグロイスボェック氏がなぜVWの小型のSUVを乗っていたかが分かる。泊っていたティチーノに住んでいる一流歌手だが、そういうのも自転車を積む為にも一台持っているのだろう。

隣に停まっていた私の車の番号やらを見て、更に事故で透明テープを張った車を見て、また世間話の話題作りをしてしまった。ヴィーン近郊の出身で父親の医師が早く亡くなったとかの育ちからすれば、大体こちらの感覚も分からない人ではないと思うが、ワイン街道から態々廃車間近の車を走らせてそこまでやってくる苦労も想いも少しは分かってくれたか。

先方から会釈してくれたので、一寸だけ話しておいた。「いい制作になってるよ」ということで、「コロナ初期にヴィスバーデンで会ったよね」ということを思い出してもらった。吉本ばななの文章ではないが、ある意味育ちの良さのある人で、バスバリトンの豪放そうに見える雰囲気からそのような振る舞いがイメージになっていると思うが、とてもいい人なのだ。

そして往路は少し探しても確かめられなかったワイン地所も確認した。これはとても熱い体験であった。日曜日でワイン関係者とはコンタクトを持てなかったが、いい場所で急いで出がけに作って来たサンドイッチなどを摘まんでいると谷の上の最奥部へと走らせる車があった。戻りで上から下りてくるときに振り返ると手を振っていた。よく知っている人なら車の番号から、態々見に来たのだなと分かったのだと思う。その栽培の苦労が募金活動にもなっている。



参照:
Kamala IS Bratの意味 2024-07-25 | 文化一般
朝立ちの旅行準備 2024-10-12 | 生活
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朝立ちの旅行準備

2024-10-12 | 生活
エンジンオイルと150㏄加えた。これで戻ってくるまでの1400kmは警告も出ない筈だ。決して入れ過ぎでもないとは思うが余り回転数をを上げないように留意しよう。現在の総走行距離は295000kmだと思うので、無事帰宅しても300000kmにはまだ遠い。たとえ古くてもそこまでは走って貰わないと駄目だ。

リアウインドーに縞が入っていたので転がっている布で吹いたら汚れた。仕方なく再び窓洗浄液を持ち出して、新しい布で乾拭きまでした。これで窓に関しては殆ど完璧だと思う。南欧の光で輝いて欲しい。

序にヘッドライトを磨いたので光量が増すだろう。少しでも不慣れな道路での安全性を高めたい。ミラノ市内は前回の経験では車線などもなく走り回るので前後左右の車幅感などが重要になるので椅子の高さも変えた方がいいだろう。平日は19時ごろまでは進入許可書がいるようだが週末には必要ないようだ。

往路にワイン産地で下りて休憩がてら買い物をする予定だ。既にワイン街道から470kmの地点になるので、午後も大分時が経っている。往路の推奨にバーゼルを通らずに小さなラインの橋を使うルートが出ている。屡使っているところで、トラックは通れないので調べられることはあるが、お互いに目が効くので比較的話しは早い。ドイツ国内の走行距離が少し伸びる。8月に張った通行券が目新しくはないのでそれも有利に働くだろう。距離は宿まで544kmになっているので、そこからスカラ座へと往復も無給油で可能になる。

どうもバーゼルの国境渋滞が最も激しいようでこれを避けるようが良いようだ。遠くから来て国境を超える人は小さな国境は不確かなのであまり通りたがらない。今回は数キロ距離が伸びてもその方が良さそうである。やはり地元住民でなくても慣れが大きい。

朝が早いので握り飯まで用意した。コーヒーを淹れて、魔法瓶の紅茶を沸かし、冷蔵庫の食品を保冷と籠で持って行く。今回はジャガイモサラダを持って行くのだがリースリングは持ち込まない。スーパーでの物色を先行させるからだ。更に下記するように旅行時間が長くなるので、あまり飲んで酔いを残しているような余裕もない。結構ビジネスライクな旅行となる。

旅行カバンがなぜか場所が開いている。何故かよく分からない。PCを入れてないからかもしれない。前回のルツェルンでは持参した。今回は何か時間がなさそうなのである。同じ日数でも走行時間が往復7時間程長いかもしれない。宿泊地でゆっくり寝ている時間はあまりないからだ。

宿に泊まる時の宿泊税を別途払ってくれと連絡がきた。土地によっても違うが、今迄後払いや現地払いの記憶はあまりない。現金で求められるよりはペイパルで払うのは楽なので支払っておいた。4フランケンで、換算して手数料込みで5,5ユーロ程になった。それで済むなら問題ない。



参照:
再演「ばらの騎士」初日へ 2024-10-11 | 文化一般
楽しみな甘い朝食 2024-10-10 | 料理
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再演「ばらの騎士」初日へ

2024-10-11 | 文化一般
スカラ座での「ばらの騎士」再演初日が迫る。今回の初日へは案内ヴィデオも作られていて、先ごろ亡くなったクッパー演出へ再演出者の話しとなっている。そこには練習で振っているペトレンコのモニターなどに映る様子も小さく捉えられていて、恐らく総稽古時の音が背後に使われている。
Der Rosenkavalier - Intervista a / Interview with Derek Gimpel (Teatro alla Scala)


それを共同制作のザルツブルクに続くメータ指揮によるらしいトレイラ―の録音と比較するととても興味深く、そこにベルリンでの2020年での公演での演奏と同じ指揮が聴かれる。当然のことながら今回の新しい音源とのコントラストはとても豊かである。
Der Rosenkavalier - Trailer (Teatro alla Scala)


実はまだ音だけ流したがザルツブルクでの映像はまだ観ていない。演奏が余りにもお粗末なので動機付けが生じないからだが、是非出かける前にざっと流しておきたい。
Strauss - Der Rosenkavalier, Franz Welser-Möst and the Vienna Philharmonic


映像を観ずに同じ音だけを聴いたメータ指揮のベルリンでのここ十年程の最も成功した制作は、恐らくもう一度車中で聴いていくのだが、歌手陣がとても悪かった。恐らくミュンヘンで通じるのは実際にペトレンコ指揮で今回も歌うグロイスべックのオクセンだけである。生中継を観た時には気が付かなかったのだが、やはり小さな劇場はあの程度の歌手でも歌えるという程度だ。
DER ROSENKAVALIER - Richard Strauss (Trailer) | Zubin Mehta | Staatsoper Unter den Linden


その点、今回ミラノでもマルシャリンを歌うストヤーノヴァはメスト指揮でザルツブルクでも丁寧に歌っていて、ルーマニアのヴェテランのようだが、この演出だけでなくミュンヘンでもマルシャリンを歌ってデビューしている。ペトレンコが断るほどの理由はなく、新たな大物への予算もなかったのだろう。ベルリンの制作に比較すると、ザルツブルクの楽団は酷いのだが、歌手陣は揃っている。

一幕に続いて、二幕においても二幕のゆったりさで全く異なる書法もあって、より成果は上がっているかもしれない。その分演出を確認はしていないが若干ダレルところがあるかもしれない。しかしカラヤンのテムポルバートへの批判的な面もあるのか、ベクトルが違うようだ。これも演出の意思が出ているのだろう。逆に三幕においてはもう一息一幕と同様に細かなアンサムブルなど必要とされるところであり、若干粗くなっている。

クッパ―演出の一幕をちらちらの見ているが、その音楽同様にとても細かな演出が行われていて、音楽そのものに劇が活かされている。シェンクの演出をして永遠にあれがいいという放言も見かけるが、現在の水準からすると音楽劇場としてお話しにならないだけでなくて、そのもの音楽の精妙さやその書法を内容を全く反映していない。

現在においては舞台上の一挙一動が科学的に演出されるわけだが、それはそのもの奈落の音楽も歌手の歌もその程度で通ったということでしかない。追々この楽劇の創作の真髄がそのような制作では全く反映されない公演となる。

そこに気が付いただけでも今回の制作の再演への期待がとても高まる。全然そんなちゃちなミュージカルになるになるような創作ではないのは今回よく分かった。豊かでたおやかな歌と精緻な音楽運びが為されるものと疑わない。



参照:
拙いシェンク演出よりも 2024-10-08 | 文化一般
ミラノ2016年初日シリーズ 2024-09-20 | 文化一般
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楽しみな甘い朝食

2024-10-10 | 料理
朝起きが辛くて仕事が進まない。忙しいと余計にこうなるか。旅行の準備とか色々とある。車輛の調子は気になるのはギアが若干滑る感じが強くなっていて、出来るだけ負担が掛からない様に騙し騙し使いたい。エンジンもガタガタしてきたが、油を適量に保って動いて貰いたい。少なくともミラノへの往路はゆっくりと走って、問題が出ない様に走るだけだ。窓ももう一度拭いておきたいが時間があるのかどうか。その他で出来ることはもうあまりない。なんとかここまで無事走って来ただけでもよしである。

160で満タンにした、先週の価格154と比較して6セント増しである。70リットル入れると4.2ユーロ高くなる。宿まで638km、スカラ座迄更に60kmまでなので無給油で走れる。しかしそこから宿まで帰還は難しい。つまり宿の近くで更に360km分を入れておくと、ドイツ再入国まではなんとかなるだろう。往路は8時間を計算するので8時過には出ないと難しい。往路でスーパーに寄れるかどうかは交通状況次第となる。初日に食事に行くのはやはり難しいかもしれない。

雨の合間に走ったので窓も綺麗に濡れた。戻って来てから窓枠の端などを拭って、ラムプ類も拭いた。これで見た目からは何をすることもない。トランクの剝がれていたところも接着できたが、白く縁に残った。仕方がない。念のために張り付ける為のテープも持参する。冷房が必要ないのでその分は若干静かな様だ。もう一度エンジンオイルを補充しておけば他には何も手の打ちようがない。丁寧に走ることだけだ。アルプス南側ではサンルーフを開けて走れたら嬉しい。

外気温は摂氏23度まで予想され最低気温は10度までである。パジャマは長袖で良いが、衣装はスーツとタイを考えておく。セーターも持って行けばよいだろう。

先日パン屋で購入したのはモーツァルトトルテというシュヴァルツヴァルターに似たものだった。今まで気が付かなかったのので初めて試す感じだった。中々上品に出来ていて、何か最近腕を上げているような感じがするのは才能ある徒弟さんが入っているということになるだろう。

今調べると宿泊所から500メートルぐらいのところにいいパン屋さんがありそうだ。毎日7時から19時迄開いている。歩いて9分、車で2分である。するとバターを持って行くしかないだろう。スーパーに行けたら朝食用のチーズなどには困らない。やはりイタリア語圏に行くと甘いものも楽しみである。

厨房の写真を見るとオーヴン類は確かめられないので、温めるようなもの出ない方がいい。国境を越えてコモの湖畔まで行くかどうかは分からないが、衛星写真を見ると山沿いの小さなワイン畑の横であったりして、越境してコモ湖畔で働いている人も多そうだ。そうなると国境線も宿泊場所さえ示せばフリーパスのような気もする。その辺りの塩梅は現地に行かないと分かりにくい。但し越境するとなるとアルコールをそれ程飲むことも出来ないので、やはり国境が障害になる。

未明に大荒れになるかもしれないと注意報が出ている。窓をしっかり閉めて就寝する。



参照:
美しい響きをお土産に 2024-08-30 | 音
想定以上のクレディット 2024-10-02 | ワイン
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春夏秋冬の祭典

2024-10-09 | 
承前)ムストーネンは指揮者でもある。後半のバッハのあとの二曲目が当初のバシェヴィッツの弦楽のための協奏曲から変更になってギナステラの弦楽のための協奏曲となった。コントラバスで高域で演奏させて、ヴィオラに繋ぐなど、殆ど武満徹の様な非常識な楽譜を1966年に書いているので、1916年アルジェンティン生まれだが、音楽的には似ている。指揮は、敢えてギリギリのテムピを狙ってくるようなところもあり、チェロなどは明らかに挑戦スタイルになっていた。そうした手法ばかりではよくないのだろうが、少なくとも客演であそこまで一生懸命弾かせれば先ずは偉いのではなかろうか。この選曲などからムストーネンの作品を聴かないでもほぼ見当はついた。作曲の先生がラウタヴァーラというのも納得である。

そのピアノといい、和声の積み重ねの中で音楽を奏でていくのではない、やはりシベリウスなどからの独自の音楽話法が支配している様に思われる。そこからあのフィンランドのパメラ門下の指揮者がどれもこれも駄目な理由がそこにあるのがよく分かる。

さてお目当てのヴィヴァルディ作「四季」である。イムジチを聴いたことがあるのが思い出せないが、今回三四半世紀も経て漸くこの曲のヒットの秘密を認めた。四季感以上にやはり描写が巧い。それを弦の新しいテクニックを駆使してということでやはり他のヴァイオリン協奏曲集に比較しても表題的内容がぎっしりと詰まっている、

ヒットの頃にはヴィヴァルディがオペラ作曲家であったというプロフィールはあまり知られなかったのだが、現在では全曲録音などもぼちぼちと出ていて、こうした表題的な意味もより詳細に想像できるようになって来ている。音楽に歌詞が付く価値はやはり大きい。

然しその様な解説がなくても春夏秋冬の各々三楽章のその場面は分かる。今回のヤンセンの演奏はどちらかというとヴァイオリンの技術的面をより洗練させて音楽化する傾向が強く、敢えて表題的に合わせた演奏はしなかった。それでも春の鳥の鳴き声の模倣でも若いコンツェルトマイスターリンが応えてもやはり全然その歌の巧妙さが違う。そして舞曲的な扱いも巧い。顕著なのは夏の嵐なのだが、やはりそれはあまりにも激しく最早46歳なのだが元気があり過ぎる。それ程しなやかではないのでどうかと思っていたら、成程ドライヴ感が可也強く、音楽的にそこまでやる必要があるのかどうかとは感じた。それは平素からより大きな会場で弾いているからではないかとも思う。

その様な演奏なので、秋におけるワイン祭りで酔っぱらって落ちていく雰囲気も決して強調されることはない。それでもここぞという技巧が挟まれる時には鮮やかに弾き切る。そうなると余計に狩りにおけるホルンの歌などのしっかりした音楽要素が浮かび上がる。冬などにおいても三楽章など表題から離れるほどに音楽的な面白さが浮かび上がるために見事な出来となり、熱狂的な反応となった。

ヴァイオリンの演奏はソロ演奏から協奏的なものまで様々な演奏を聴いてきたが、やはりこれだけの音で中会場でこのクラスの演奏家が弾くと全然異なることを感じ入った。同じように素晴らしいホールで数年前にチューリッヒでモーツァルトの協奏曲を聴いた時はこれ程に素晴らしくはなかった。楽曲による差も大きかったのだろうが、本人の演奏も明らかによく鳴っていた。(続く)



参照:
音楽後進国ドイツの野暮天ぶり 2017-08-01 | 雑感
玄人らしい嫌らしい人 2019-01-18 | 音
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拙いシェンク演出よりも

2024-10-08 | 文化一般
「ばらの騎士」のお勉強を少しした。間に合うか?先ずは2015年のバーデンバーデンでのベルリナーフィルハーモニカーによる初の演奏上演に関しての自らの記録とそれを受けての2017年2月のミュンヘンでの上演の記録に目を通す。今回ベルリンでメータ師指揮で成功したハラー演出の先ず一幕の音を聴いてみて、共通した話題とその差異を審査する。

伝統的交響楽団でこの曲を最初に指揮したラトルの言葉「微妙で髭剃り刃の裏に潜んでいるような和声のキチガイじみた移り行き」を想う。そこに痛いほど気付くのは、メータ指揮の管弦楽の上に声をあてがっていくようなベルリンの座付き楽団のアンサムブルで、評判の良かったマルシャリンを歌ったニールントの不器用な歌唱ゆえだ。指揮の上手さは決してバラバラにならないような立派な音の赤絨毯を広げているので、その上で如何に絶妙に歌えるかどうかにかかっている。オクタビアンの若い人も良くなく、オックス役のグロイスべックが取り分け素晴らしい。

そしてペトレンコ指揮での上演の記録には、チェレスタの時報からの後の変ロ長調の下りに言及されている。今回録音を聴いて気になるのはそこの流れである。メータ指揮の方がその全体の一体感がある。恐らくハラーの演出がシェンクの演出よりもドラマテユルギーに優れているに違いない。そういう演出に拠る演奏実践の変化が今回最も注目するところとなる。

そこで同じクッパ―演出のザルツブルクのヴィデオを流すと演奏が甚だしく酷い。メスト指揮ヴィーナーフィルハーモニカーはコロナ期間に「エレクトラ」を聴いたがこれ程酷くはなかった。なるほど上でラトル指揮の上演が素晴らしいと思ったのはヴィーナーの水準がお話しにならなかったからだろう。要するに声との絡みにおいて楽劇とは名乗りながらこれ程までにレティタティーヴォ的にまるで現代のハースの音楽劇場作品のような精妙さで書かれていることに気が付いたからである。そのような楽曲を演奏するような状況にはヴィーナーがなかったというのが上のザルツブルクでの上演だった。

それなら今回ミラノでの演奏はどうなるか?それはやはり演出の精妙さに影響されるのではないかというのが現時点での観測だ ― それほどシェンク演出は拙かった。指揮者メストはカラヤン指揮の最後のザルツブルクの「ばらの騎士」の稽古からの影響を受けている。然し以前のカラヤン指揮の練習に影響を受けたクライバーのような立派な影響を受けなかったのは言うまでもない。

何時もの様にたとえ古い方の映像でもカラヤン指揮の録音からお勉強することは殆どない。それは上のようなテクスチャーを音として確認できないからであり、これが今回のミラノの公演でもしかすると記念碑的な演奏が為されるかもしれないという期待である。

その意味から再度のクッパ―の演出を比較する重要性が高まった。なるほどスカラ座へはデビューであり、そこまで徹底した演奏は不可能なことは承知であるが、座付き楽団としての持ち味はそのアンサムブルから上の様な繋がりを上手に演奏できるのではないかと思っている。もう少し、二幕三幕の音楽を考えながらその期待値を探ってみたい。



参照:
苦みの余韻の芸術 2017-02-11 | 音
伯林の薔薇への期待の相違 2015-03-29 | 音
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拓かれる新エポック

2024-10-07 | 
承前)前プログラムから記録としてきた。そして今回の演奏会で可也重要なことがあった。それはプログラムに「楽章間での拍手を控えるよう」にと明記してあったことだ。これは初めて見た。なるほど最近は楽章間での拍手が復活してきていてトレンドにさえなっているからだが、それ以前はマナーとされていたことである。

これはとても興味深く、必ずしも主催者のアルテオパーの見解とは思われなく、楽団の指揮者の意向と考える方が自然かもしれない。抑々19世紀の演奏会における浪漫派からの流れでは一興行内での継続した時間の流れの演出が大きな意味を為した。然し、それ以前の古典は音楽においては必要ならばアタッカと称して三楽章と四楽章を続けて演奏する指示を譜面化した。ベートーヴェンの運命交響曲に有名だ。

これは今回のプログラミングにおいてブラームスのドッペルコンツェルトそして後半のマルティヌーにおいても意味があった。逆にブラームスでは楽章間に拍手が入るようなそこまでの熱演とはならなかった。

大きな理由は二人のソリスツの音量による。特にチェロのガベッタは40歳のようだが小柄で地声も高くとても可愛らしい女性である。そしてその楽器もハビスロィティンガー財団からストラドのドブレスッジア1717年を都合されているにも拘らず、合奏用に1730年製のマテオゴフリラーのものを使っていて、音も鳴らないが特に低い方よりも上の方に輝きがあり軽い音の楽器である。ブラームスにおいても大会場ではバスも鳴らない。所謂胴声のするブラームスでないことは肯定的だったのだが、合わせたフランクのヴァイオリンもグアルネリで中域に寄っている。背後の交響楽団も全く弾けていなかったのだが、これでは会場が盛り上がらない。

それで販促の写真に弓をこちらに向けている表情が写されていて、それが本人の好印象とは異なっていて残念に感じると同時に、やはり写真だけでも攻撃的な印象を与える戦略だったのだと理解した。

音楽的には、ヴィルデ・フランクのベルリンのブラッハー門下でクロンベルクではチュマチェンコに習うなど、可也引っ掛かる弓遣いに対して、チェロもそれほどつるつるとさせることもなくとても上手に処理していて、先入観での南米出身のぺラペラさは最小だった。

そうした純器楽的興味がこのプログラミングにおけるコンセプトの軸に深く関わっている。最後の曲においてもその奇想冗談曲と内容が対象化していて、ブラームスの新古典主義こそがまさしくその対照性の創作であり、マルティヌーも交響曲に取り分けノルマンディー上陸などの時局を含めた時代の気分を閉じ込めてある。

そうした表現は決して人工知能的な再現では不可能なものであって、創造や創作行為が如何に歴史的なコンセンサスの上に培われていて伝統になっているかということをそこに再確認することになる。時代の趨勢ということもあるが、そうしたエポックによって、初めて歴史的な推移が確認されるところであり、それによってまた新たなエピックが生じる。それは必ずしも進歩主義的なイデオロギーとは異にする科学的な視点でしかない。



参照:
春以来のクロンベルク 2024-10-05 | 音
ワクワクの集積オペラ 2020-12-16 | 音
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べットカヴァーの朝

2024-10-06 | 生活
朝が冷えた。しっかりベットカヴァーを掛けていたので夜中に目覚めることはなかった。それでも走りに出かけるにはそれなりの気持ちが必要だった。摂氏6度ではパンツを脱ぐことなく走った。左足で殆ど蹴れなくて苦しかった。日曜日の朝は4度でもっとも冷える。

寒くて時間もなかったので配送されたボンドで接着したところはまだ確認していない。仮テープを剥がしていない。然し、エンジンのVべルト付近はなんとかなりそうだ。エンジン音はカム音が目立つようになっているが、もう数週間の数千キロはもって欲しい。

ポストに自動車保険屋からの通知が入っていた。来年度の計算評価と思ったら、5週間ほど待った裁定の知らせで、事故原因は不明として50%に下げるとある。相手の車の後部に当てているので、その辺りが限界かもしれない。先ずは当方の警察からの最終裁定が未確認だったということだろう。それで先方が証拠を出せなかったとすれば、こちらも車輛の傷みからの原因調査は困難だ。半々ならば法廷に持ち出してもそれ以上の判決は難しいだろう。

すると、賠償額と保証掛け金の割引なしの情報を求めて、新車への乗り換えで保険会社も即変更可能になるので、その辺りを調整していくしかないだろう。少なくとも先方もなにがしかの自己返済が必要になる。レンタカー屋にとっても経済的な損失はなくなるだろうか。

さて、今週末はハリー・クッパ―演出「ばらの騎士」のザルツブルクでの映像を流す。メスト指揮ヴィーナーフィルハーモニカーでミュンヘンでのペトレンコ指揮とも大分異なるのは分かる。先ずはざっとコンセプトを確認して、聴きどころなどを再想像しなければいけない。

そして、ルツェルンのスーパーで購入してきたメルローを開けて、往路で何を物色するべきか考える。何時もの薄焼きステーキとジャガイモの初めて購入したサプライズと称するかぼちゃ、それらはまたリースリング煮凝りの付け合わせにオーブンにかけられるので、どのように別けるかが考えものである。つまりリースリングも一本開けることになる。

ボンドと一緒に配送されたバスタオルは重量が書いていなかったので予想通り若干薄く9キロが8キロしかない。新品で使うには寧ろ扱いやすく、どちらかというと客用に使える。ホックに吊れる引っかけがあるのも悪くはない。価格が安くなっていなかったら文句が出たが、一枚12ユーロなら良しで、アマゾンのオリジナルより大きくて安い。

また同時発注の42時間燃焼の蝋燭も大きさが前回より小ぶりでちょうど使いやすいと思う。一本3.5ユーロであるから一時間当たり8セントである。更にオリーヴやヒマワリ油からのヴィーガンな製品なので安全に健康的に気持ちよく使えるだろう。

こうしたなんでもないことが心の安然にも繋がる。なにも特別なお香を燻らす必要もなく、高価な壺も必要がないのである。快適なバスタオルと使い易そうな蝋燭だけで十分なのだ。



参照:
節約しながらの快眠 2023-01-05 | 生活
何処に見出すのであろうか 2024-08-29 | 文化一般
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春以来のクロンベルク

2024-10-05 | 
クロンベルクの「四季」、二部構成の音楽会だった。一部はヴィヴァルディの同曲を中心に据えて、その前にシニトケのコンツェルトグロッソ6番が演奏された。当初のプログラム配置などとは最終迄定まらなかったようだ。一つにはHR2でのラディオ収録の関係もあったと思う。小まめにマイク設置をしていた。二部はバッハのニ短調のドッペルコンツェルト、そして曲目変更のギナステラの弦楽のための協奏曲、最後にピアツォラの「四季」となった。

先ずは誰がどの曲を演奏するかは一部予想するしかなかった。なぜならば二人のヴァイオリニストのジャニー・ヤンセンは今シーズンからアカデミーの指導にあたり、ギドン・クレメルの演奏は春にはアカデミー生と合わせていたからだ。更に、二人のヴァイオリニストが何を弾くかも分からなかった。

予想通りだったのはヤンセンのヴィヴァルディとクレメルのシュニトケとピアツォラだったか。もしかと思っていた共演がバッハで実った。然し結果は予想通りで、第二ヴァイオリンにクレメルが弾くと、到底第一ヴァイオリンを模倣するだけの音が出なかった。協奏曲としても音が消えてしまう。楽団はクレメルの楽団なのだが、ダイナミックスはヤンセンの弾き振りに合わせる。興味深かったのは楽団の中で最も若そうなリガの女性で、オランダでも学んだようだ。彼女がヤンセンに吹っ掛けられるのだが、勿論匹敵するような音も出ない。同じ様に音が出なくてもやはりクレメルは一鎖を聴かせる。演奏者同士でなくてもついつい耳を傾けたくなる。特にバッハの演奏は日本での最初のリサイタルでも独奏をしていたので懐かしかった。

一部一曲目にはクレメルが、1977年に日本初演した「ショスタコービッチの想い出」のシニトケの1993年の作品が演奏された。前年の夏に亡くなり、その年内には創作されていた曲である。個人的には録音テープに合わせての演奏は初めての経験だった。その印象がその後の作曲家同席の演奏会やオペラの独初演などのその作風への認識の基礎になっていた。

そしてそこでピアノと指揮を受け持ったのが昨年日本でも大きな話題になったフィンランドのピアニストのオリ・ムストーネンだった。これがまた激しく、蓋を取ったその楽器からダイレクトな打鍵が楽器の共鳴を許さなかった。日本ではクラシックな曲を弾いたかで「まるで玩具のピアノ」と評された音響であった。聴衆が違和感を持ったのもよく分かったのだが、少なくとも十数年前にペトレンコ指揮でハムブルクで演奏したベートーヴェンはそれなりに素晴らしかった。ベルリンでペトレンコが客演指揮で合わせたフォークトとは比較にならない音楽性であった。

この作品のシリーズはコンツェルトグロッソと称して指揮者ロジェストヴィンスキーに献呈されたがバロック音楽をモデルとしたソロ楽器群と楽団の協奏曲である。そこに楽器の組み合わせによる若しくは楽器の特徴による奏法や音響の面白さがその音楽となっている。当然チェンバロ風の鋭い響きや叩いたりはたたいたりするようなタッチが要求されるところである。

そのあまりにもの素晴らしい響きに対応すべく、クレメルが前々回聴いた1990年代にも劣らない明晰な音を奏していた。それが聴けただけでもこの会に出かけた価値があった。そしてこれ程のピアノを弾ける奏者は本当に貴重で新しい音楽を得意とするピアニストにも必ずしも期待できない音楽性である。(続く)



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セーターに腕を通した 2024-10-03 | 暦
内容的にもぎっしり 2024-09-27 | 文化一般
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奇想曲の深い苦み

2024-10-04 | 
承前)マルティヌーを聴くのが今回の狙いであった。なぜならば六曲も交響曲が存在してもその手本となるルッセルなどと同様にそれ程演奏されることがない。後年はバーゼルに在住していたようだが、そこのパウルザッハー財団の関係で知られるぐらいである。

その意味からも取り分け指揮者フルサの功績は大きく、作曲家の故郷での師匠でもあったスークの作品での指揮と並んで、十八番とされるものだろう。そもそもマルティヌーがパリに移動するのも故郷でのスメタナなどの影響からの逃避とされている。しかし同時に同地の六人組やそして所謂ネオクラシズムとは異なる作風として交響曲も存在している。少なくとも今回のアメリカ亡命中にノルマンディー上陸を受けての創作とされるその曲においても明らかに動機の繰り返しや重ね方によるミニマルな書法が、そして最も肝心なチェコのフレージングによって為されるところだろう。

そしてそれには直接は関係ないのだが三楽章におけるヴィオラ群のアリアが、第一ヴァイオリンの後ろから響いて、独特の楽器配置の効果を発揮する ― 反対にコントラバスとチェロの前に反対方向に向けられた第二ヴァイオリン群の音響的、音楽的な弱さはこの楽団の特徴にさえなっている。言葉を換えるとチェロ、ヴィオラ、第一ヴァイオリンにおける連携ともなる。

そこで、最も音楽表現となるのはそのアーティキュレーションであり、若干呟くようなその語尾の語感が第二ヴァイオリンに引き継がれているような感じもした。明らかにスメタナの曲などとは異なる語感に溢れている。楽器のミニマル的な受け渡しも重要となる。そしてスークの義理の父親であったドヴォルジャークのレクイエムの動機が使われて、英雄交響曲の様に動機が展開する。

そして通常はアンコールに演奏されるドヴォザーク作曲「カプリチオーソ風スケルツォ」は指揮者に言わせるとあまり演奏されない重要な曲となる。個人的にもメータ指揮イスラエルフィルの日本公演で聴いた記憶があり、勿論アンコールである。しかし今回は一夜の三曲目の最後に持って来た。交響曲七番を書いた時期の作品で14分ほどの小曲乍ら、母親を亡くした翌年の作品である。

アンコールでこの曲が何度演奏されてもその本質は分からない。ドヴォルジャークの多くの曲にある吹奏楽などの機会音楽的な通俗性が、年上のブラームスによってジムロック出版社でのデビューまでに養われていた。そしてこの曲によってもその心情が匠に描かれている。三部形式のロンドながらあまりにもの対照的な動機の扱いからその垣間見える風景はとても渋い。まさしくこういう曲のイントネーションのつけ方、そしてアーティキュレーションこそはチェコ語でなければ通じないようだ。お見事というしかない。

そして今回の一夜のプログラムにブラームス作曲ドッペルコンツェルトを最初にもって来た。そのドッペルコンツェルトこそはマルティヌー作のコンツェルトグロッソに通じるものであり、まさしく歴史的なエポックを垂直に眺めている。

ペトレンコ指揮ベルリナーフィルハーモニカーが七番交響曲を米国ツアーで演奏するのもそしてスークのルネッサンスへと取り上げて来ていたのも決して偶然ではない。それは時代が欲しているものである。(続く



参照:
複雑系の大波をサーフィン 2024-05-31 | 生活
反面教師的大名演 2024-08-04 | 音
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セーターに腕を通した

2024-10-03 | 
祝日早々に一走りした。クロムベルク往復で234km走っていた。室内楽に走れる距離でもある。その影響か気温摂氏13度ゆえかエンジン音がおかしく、ギアーの入りも違った。吹きが悪い。エンジンオイルの警告も出ていたのでカツカツになったのかと思ったが下限の線ぐらいだった。調べてみるとVベルトのプーリーが喧しくなっている。七年前にプーリーが壊れて、交換したことがあった。その節は張力をかける装置が壊れたのでより問題があった。今回は触ってみると一番上の方向転換のプーリーが少し動く。それが吹き飛んでしまうとベルトが外れて仕舞い、走行不可能となる。前回は応急で自分でかけ直して支店まで持ち込んだ。直接の原因はフランクフルト往復の最高速220kmを超える走行だと分かる。その為に試したのでもある。異音まではしないのだが、時間の問題である。ミラノ往復で無事かどうかだけだ。先ずはエンジンオイルを150㏄足して様子を見る。そのまま順調ならば更に150㏄程継ぎ足す。

新車のハイブリッドならこういうジェネレーターはベルトに掛かっていないのだろう。油圧とかコムプレッサー類はやはりVベルトを使っているのだろうか。結局ベルトが一番静粛性が高いのか。そもそも始動の弾み車も必要無くなる。壊れるところも大分異なるのだろう。

今回初めてフランクフルトによらずに会場を往復した。復路でアウトバーン乗り換えでバーゼル方面を乗り越して市内に向かってしまったが、往路もラッシュ時でも渋滞は少しだけだった。駐車場は皆が入るようになったので以前よりも込みだしたが、先払いで料金を払えるようになったので、帰りが早くなった。色々と問題はあるが小編成の出しものには態々フランクフルト市内に行く必要はなくなった。ここでもっとやって欲しい。

内容はとても高く、ヘッセンの放送局の収録としてもとても価値のある録音が出来たであろう。録音上も修正の必要なことがあったのだが、会場の音響とか大きさでの聴衆からのフィードバックなどやはり他とは異なる雰囲気がある。11月24日の放送で、シニトケの生誕90周年となるらしい。

この二三回は走るのに長袖を羽織るようになっている。室内でも初めてセーターの袖を通した。暖房無しで何週間保てるか。こうなると早急に窓拭き二日の日程が必要だ。

冬支度同様二回の演奏会の記憶を整理すると同時にミラノ行きの準備にかかる。週末でキャンセル全額返還の期限となる。最新の情報でも順調に舞台稽古が進んでいる様であり、形式上のキャンセルはない。劇場の特殊事情はあり得るがペトレンコ側からの積極的なキャンセルはあり得ない。たとえそうだとしても出かけるつもりでいたが、これで宿代の156ユーロが先ず引き落とされる。

車と国境の問題がなければ旅行日はコモ湖まで出かけてゆっくり食事をしたい。一食半と朝食二回分をピクニック準備しておけば、昼一回分で調整可能か。コモかミラノ市内で一食摂れば事足りる筈だ。宿のチェックインを16時と考えているので、国境の内外で一食は問題がない。やはり何時もの様にジャガイモサラダかとなってしまう。スーパーには出かけるので、イタリア的な総菜も検討する。



参照:
新車に乗り移れない理由 2017-07-12 | テクニック
拒絶する強い意志 2024-04-19 | 雑感
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