ピカビア通信

アート、食べ物、音楽、映画、写真などについての雑記。

日本史

2006年11月05日 | Weblog
今巷を賑わせている高校の履修問題、古い人は、日本
史世界史って必修じゃあなかったの、と素朴に思って
いるのではないか。
勿論、私もその一人。
いつからそういうことになったのか。

高校時代、日本史で赤点をもらった身としては、もし
日本史が無かったらさぞ嬉しかったことだろう。
しかし、今思うと、もう少し基本的なことを身に付け
てれば、興味のある事柄の時代背景というものを、い
ちいち調べなくても分かったろうに、と思う。
すべからくこんなもので、義務で勉強してるという、
興味と勉強の時期が一致しない不幸。
勉強全般は、大体、あの時ちゃんとやってればという、
後悔先に立たず的表現が一番お似合いの世界だ。
単に、努力が足りなかっただけのことなのだが、もう
一度あそこからやり直したいという思いは、年ととも
に増してくるものなのだ。

話は戻って今問題になっていることだが、全ての関係
者は反確信犯(確信犯を、本来の無罪と確信している
という意味で使うなら)であろうと思っている。
誰もがうすうす感付いていたことではないだろうか。
社会の総意、つまりより偏差値の高い大学に入る、に
沿っただけのことなのではないかと。
受験科目に無いのなら、当然の帰結だ。
しかし不思議なのは、何ゆえ今頃になって問題化した
のか。

この問題の本質は、勉強とは何のためにするのか、と
いうことだろう。
大学に入るためだったら、予備校化するのは当然だし、
そうでなければ、単に決められてるから、といった理
由しか考えられないのが現状ではないか。
若い内にいろんなものを学び、基礎作りをすることに
よって、物事を多角的に捉える目を養う。
たとえ直接的に役に立たない学問でも、それをやるこ
とによって思考力が鍛えられる。
そうすることによって人間として成長できる。
などと、もっともらしい理由は挙げられるが、確信を
持って言うほどの自信がないところが弱いところだ。
それに、今の高校生は、大人の姿を見て、所詮こんな
ものかというある現実が見えてしまっているのかもし
れない。
結局、現場は大変だろうな、というありきたりの感想
しか出てこない。
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