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経済の最新情勢から、世界の裏側、そして大人の為のアニメ紹介まで、体当たりで挑むエンタテーメント・ブログ。

かつて『エヴァンゲリオン』であった何か・・・『エヴァンゲリオン』とは何だったのか?

2012-12-03 08:54:00 | アニメ
 



■ 賛否両論の劇場版『エヴァンゲリオン Q』 ■

劇場版の『エヴァンゲリオン Q』が公開されています。

ネットの反応を見ると、賛否両論。
否定的な意見があるので、もしや面白いのではないかと思い、
映画の日に1000円で見て来ました。

■ ポップコーンをBBQ味にしたのは間違いだった ■

映画の日で安い分、ビールとポップコーンを奮発してしまいました。

でも。ポップコーンをBBQ味にしたのは間違いでした。
Mサイズを一人で食べると、次第に飽きてきます。
さらに、BBQ味の粉が上手く混ざらないので、
最後の頃は味が濃くなって舌先がピリピリします。

ポップコーンはやはりプレーンか、キャラメル味に限りますね。

■ 寝てしまった・・・ ■

『エヴァ』の感想はどうした!!と突っ込みが入りそうですが、
・・・・すみません。ビールの酔いが程よく回り、寝てしまいました。
前日、徹夜仕事だったせいでもあるのですが・・・。

■ タネの分かっている手品ほどツマラナイものは無い ■

はっきり言って、ネットにアップされている冒頭シーン以外、
何を見れば良いのか、全く分からない映画です。

そもそも『エヴァンゲリオン』は、オリジナルの劇場版でタネ明かしがされています。

『人類補完計画』とはシンジの主観的な世界の再構築に過ぎない。

新劇場版シリーズは、再構築された後の2順目の世界の物語なのでしょう。
もしかすると、既に世界はシンジによって何度も再構築を繰り返しているのかもしれません。

観客の多くは、そのカラクリを知っていますから、
2順目の世界に対する愛着は薄くなります。

全く新しい世界感とストーリーをTV版で丁寧に積み上げた1順目の世界とは
観客自身の思い入れが違います。

これは、ネタのバレタ手品を、何回も見せられている感覚に似ています。

■ オリジナルは何故あんなにも面白かったのか? ■

新劇場版のツマラナサは、オリジナルの面白の裏返しです。
では、何故オリジナルはあんなに面白かったのか?

それは、全てが新鮮だったからでは無いのでしょうか?

1) 生態兵器としての巨大ロボット
2) 陰謀論を匂わせる世界設定
3) 説明されずに次々に謎を放り出してゆく演出
4) 個性的な女性キャラクター達
5) ゼーレや国家との駆け引きなどを匂わせるだけにしている思わせぶりな演出
6) シンジという、主体性の無い主人公
7) 綾波の包帯姿
8) アスカの超ツンデレの可愛らしさ
9) 科学的ギミックの緻密さと大胆さ

オリジナルのエヴァンゲリオンには、庵野監督と、
当時のガイナックスのクリエーター達のアイデアと創造性が凝縮しています。

とにかく視聴者と翻弄したいという無邪気な想像力に溢れています。
これこそが、創造のエネルギーであり、エヴァの魅力に他なりません。

■ アイドル(偶像)としてのエヴァの再生 ■

新劇場版のツマラナサは、それが「エヴァの残渣」の収拾作業に他ならないからです。

オリジナルの『エヴァンゲリオン』は、放送終了、あるいは映画の公開と共に、
日本文化の中に解き放たれて、拡散してしまいました。

あらゆるアニメ、漫画、小説の中に、エヴァの影響があるとも言えます。
度重なる再生産の中で、エヴァンゲリオンは神格化してゆきます。

幾百、幾千とない模倣が繰り返され、
様々な表現の中に、エヴァ的な何かが描かれてゆきます。

そうして、鳴り物入りでエヴァの新劇場版がスタートします。
最初は単純にビジネス的な理由でTV版を再編集したダイジェストの予定だったと言います。
ところが、TV版の放映から10年以上経っていますから、
ファンは新しいエヴァを見たい。

こうして『エヴァンゲリオン』という偶像の再生が始まりました。
ここでいう「偶像」とはエヴァンゲリオンというロボットでは無く、「作品」そのものです。

■ エヴァの抜け殻と、世界の変革 ■

そこで2作目の「破」からは新キャラを投入し、
そして綾波やアスカにもオリジナルとは異なる演出が加えられます。
オリジナルではあまりに悲劇的な彼女達に、ささやかな幸せがプレゼントされます。
そして、観客は、これが2順目の世界である事に薄々気づきます。

ここから物語が完全なオリジナリティーを獲得できたならば、
『Q』は失敗しなかったはずです。

ところが『Q』では、エヴァンゲリオンの本質を変革せずに、
それを取り巻く世界を安直に変革してしまった・・・。

オリジナルの『エヴァンゲリオン』の発表から20年近くが経っています。
その間にアニメやオタク文化を巡る状況は大きく変化しています。

エヴァでは新鮮であった「異質な言葉」や「難しい専門用語」は、
今では「中二病」の象徴の様な扱いになっています。

そして、エヴァ世代では、日影者であったオタクは、
大手を振って、お日様の下を闊歩し、
エヴァ的な何かは、日本のそこら中に転がっています。

新劇場版は、安易に現代の「エヴァ的な何か」を収集し、
ラフに繋げ合わせて、現代的なCGで化粧しただけの作品です。

それはかつてエヴァであった物ではありますが、
決して現代のエヴァではありません。

そこに創造の熱意も、葛藤も存在しないのです。

■ まどか☆マギカにあって、エヴァに無いもの ■

エヴァ後に出現した作品で、エヴァを越えうるのは、
多分『魔法少女まどか☆マギカ』だけでしょう。

それ以外にも秀作のアニメは多数作られていますが、
エヴァで静止した世界を、次のステップに進ませる力は
『魔法少女まどか☆マギカ』だけが持ち得ます。

エヴァのシンジは、未だにエヴァのコクピットで逡巡し続けます。
それこそがシンジのシンジたる由縁だからです。
だから、シンジがシンジである為には成長すらも拒絶されます。
まさに、劇場版『Q』はこの事に自覚的です。

エヴァンゲリオンという作品は、シンジを主人公とする限り、
無限のループの外側に出る事が出来ないのです。

一方、「まどか」は、世界を変革する事を望みます。
今よりも少しでもマシな世界を彼女は選択したのです。
それは、世界お理(ことわり)の変革を意味し、
そして、自身の犠牲と消失を意味します。

世界の再構成という意味において「エヴァ」と「まどか☆マギカ」は類似の作品です。
少女や少年を犠牲にする世界も共通しています。

ところが、その犠牲を肯定的に受け入れる「まどか」と、
あくまでも「拒絶」するシンジの差は限りなく大きい。

そして、現在を生きる若者達は、「まどか」の選択に明らかにシンパシーを感じています。

■ 失うものすら失った世代 ■

「エヴァ世代」と「まどか世代」の差は何なのでしょう。

「エヴァ世代」が戦っていたのは、バブル後の世界の閉塞感だったのかも知れません。
日本はバブルという狂乱から、一瞬にして醒めます。
そこに残されたのは、社会に対する不信感です。
社会とは、これ程までに脆弱で、バブルの様に実体が無いものだと多くに人が感じていました。

何か、「巨大な力に翻弄される人類」といエヴァ的テーマは
当時の時代の空気とシンクロします。

一方「まぎか世代」は、失うものすら失った世代です。
バブルなどという、気楽な幻想も知らず、
生まれた時から、抑圧された世界を生きています。
彼らにとって社会とは極めて現実的な世界に感じられています。
そこでは、若者らしい気楽な夢も封印されています。

そんな「まどか世代」にとって、次の時代を我が力で掴み取ろうとする「まどか」の選択は、
神々しいまでの輝きを持て見えるのかも知れません。

若者わらしい反発や反抗が、自分達の立場をさらに不利にする事に自覚的な彼らは、
「エヴァ的」な物の先に絶望しか無い事を、潜在的に感じ取っています。

そして未来は自分で掴まなければならない事にも気づいています。
しかし、現実はそれ程甘くないので、
彼らの多くは、自分の枠の中から踏み出せません。

「まどか」は、最終話になるまで、魔法少女になる事を決断出来ません。
それは決断を先延ばしする現代の若者の姿でもあります。
しかし、「まどか」は決断し、一歩先の世界を目指します。
そして、それを多くの若者が、「正しい選択」として捉えているのです。

■ さらばエヴァンゲリオン ■

既に世の中は、エヴァンゲリオンを求めていないのでしょう。
スクリーンに映し出される苦界の情景は、
既に、私達の現実の世界であり、目新しものでは無くなっています。

今、私達に求められているのは「エヴァ的世界」の繰り返しからの脱却です。

選挙で多くの人達が、エヴァ的反復を無意識に選択しようとしています。
しかし、そこにゼーレの陰謀があるならば、
私達は、世界の瓦解を目にする事になるのかも知れません。

その時、「まどか」の役を果たすのが誰なのか?
少なくとも、滋賀県知事では無い事は確かでは・・・。