■ 「現代的」の解釈の違い ■
昨日、現代音楽について素人ながらの文章をアップしました。
本日は調子に乗って、ポッピュラー音楽における現代性について少し考えてみます。
上の映像はマーク・ジョンソンのベース・ディザイアーズのライブ映像です。
ベース・・マーク・ジョンソン
ドラムス・・ピーター・アースキン
ギター(ハゲ)・・ジョン・スコフィールド
ギター(メガネ)・・ビル・フリーゼル
演奏はブルースをモダンに解釈した演奏です。この当時、ジョン・スコフィールドは大人気で、一方、ビル・フリーゼルは変なギタープレイをする新人でした。
ジョン・スコフィールドが最初メロディーを提示していますが、クールなブルースという印象です。その直ぐ後にビル・フリーゼルがソロを取ります。ディストーションとロングトーンを多用した演奏ですが、突発的に熱くなると思えば、響きやスペースを活用した演奏へとシームレスに変化して行きます。ここでのブルースはメロディーやコードで繋がれた一般的な音楽では無く、ブルースのあらゆる演奏スタイルやエッセンスを空に一度投げ上げて、それがバラバラに振って来る感覚に似ています。方法論としては「解体と再構築」という手法ですが、音楽は最早一本の線の上を流れるものでは無く、平行するいくつもの時間軸を移動しながら流落ちてきます。
この、ジョン・スコフィールドとビル・フリーゼルの演奏の違いこそが、「現代音楽」とクラシックやポピュラーミュージックといった「大衆音楽」を隔てる壁だと私は思っています。
私は20年程前に斑尾のニューポート・ジャズ・フェステバルで彼らの演奏を聴きましたが、その当時はビル・フリーゼルが何をやているのか全然理解出来ませんでした。
今から見ると、ビルの演奏にマーク・ジョンソンもピーター・アースキンも全く対応出来ていません。単調なバッキングに徹しています。
■ 新しいセオリーで演奏される音楽 ■
この映像はビル・フリーゼルのリーダーバンドの演奏です。
ギター・・・ビル・フリーゼル
ベース・・・カミーツ・ドリスコ
ドラムス・・ジョーイ・バロン
初期のメンバーにはチェロのハンク・ロバートが居たのですが、彼が抜けた後の方がグループコンセプトは明確です。
注目すべきはベース・ディザイアーズとはベースとドラムスの役割が全く違う事です。
ここでは、スローなテンポの曲が演奏されていますが、ビリの弾くギターは夢の中で遠くから聞こえて来るようなオボロゲな響きです。ドラムスもリズムを刻むと言うよりは、効果音程度の演奏です。それらの、バラバラになりそうな音像の欠片を音楽に纏め上げているのはべースです。ここでのベースはリズムやコードをキープすると同時にメロディーラインに近いものを演奏しています。
こういう演奏を始めたのは、ビル・エバンス・トリオのスコット・ラファエロ(b)ですが、ビリ・フリーゼルがビル・エバンス・トリオのドラムスのポール・モチアンと頻繁に共演していた事は無関係ではありません。
導入部はカリプソ?かな・・・。
ベースもビターも断片化したリズムとメロディーを演奏しており、ドラムも同様です。
こういう演奏は、従来のJAZZの演奏の延長線上にあるのでは無く、むしろ現代音楽的や実験音楽のアプローチです。
■ 現代的な抒情性 ■
ビル・フリーゼルなどもかつてはトンガリ・ミュージッシャンとか、変態ギタリストなどと呼ばれていましたが、今や押しも押され大ミュージッシャンです。
一方で年齢と共にあからさまな実験性は後退し、アコースティックを演奏したり、アメリカのルーツミュージックの再構築的な活動をする様になります。
90年代頃は新しい音楽を作り出すという熱気に満ちていたNYのアンダーグラウンドシーンですが、2000年代に入ると、だいぶ落ち着いた雰囲気になってきます。そして、彼らは音楽の「抒情性」に対する挑戦を始めます。
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初期のビル・フリーゼルバンドに在籍していたハンク・ロバーツはチェリストですが、チェロにピックアップを付け、エフェクターを使ったトリッキーな演奏から、チェロをチョッパー・ベースの様に弾く様な名人芸の持ち主でした。
ハンク・ロバート自身は「歌」が好きな様で、彼のオリジナルアルバムには、素朴ながら心に染み入る歌が初期の頃から録音されています。
そんな彼の2008年のアルバムを見つけました。ギターはフランスでジャゴ・ラインハルト賞を受賞した事もあるマルク・デュプレ、ドラムスはティム・バーンとの共演で頭角を現したジム・ブラック。
ノイズ・ミュージックをやらせたら凄まじいメンバーが、ここでは抒情的なプレイに徹しています。しかし、その演奏は一筋縄ではありません。2000年代以降の実験音楽シーンは音楽の「構造」の解体から、抒情性やメロディーというものに興味が移っている様です。
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ビル・フリーゼルとハンク・ロバーツが同じステージに立っている最近の映像を見つけました。もうすっかりオジイチャンって感じですね。アメリカン・ルーツミュージックへのチャレンジの様です。いわゆるクラシック系の現代音楽に比べ、フリーミュージックはポピュラーミュージックに軸足を残しているだけに、聴き易いですね。
この映像の一番面白い所は、9分くらいからビル・フリーゼルがソロを取り出し、10分くらいからドラムのビートが変化する所で、バイオリンの3人が演奏から抜ける所です。完全にフリー・フォームの演奏になているのですが、こうなるとクラシック畑の演奏家はコミュニケーションの手段を失います。ギターとチェロとドラムスが楽しげに演奏を繰り広げる一方で、バイオリンの3人は半ばあきれ顔に見えます。ここにも「断然」が存在するのかも知れません。
素晴らしいのは、こういう音楽を大衆の前で演奏する場があり、それに真剣に耳を傾ける人達が居るという環境があるという事。アメリカではソーホー当たりのカフェでも演奏する場が沢山ある様ですし、学生達はこういった新しい音楽に敏感です。
■ 現代音楽とは、探究心そのものである ■
私自身はクラシック系の現代音楽はそれ程詳しい訳では無いのですが、1980年代の後半以降、NYアンダーグランドシーンを中心に、フリーミュージックと呼ばれるJAZZやROCKをベースとした「現代音楽」が好きでした。
これらのミュージッシャンのCDは決して多くは売れません。彼らはいくつものユニットを持っているので、比較的多作でクラブなどでの演奏機会も多く、それで生計を立てています。
結果的に私達は彼らの様々な音楽的チャレンジを聴く機会に恵まれました。
お金にならない点ではクラシック系の現代音楽家達と似た境遇ですが、彼らには聴衆の前で演奏する機会が多く与えられています。
NYのロアー・イーストにあるニッティング・ファクトリーなどのライブ・ハウスが彼らに演奏の場を与え、DATのライブ音源を積極的にCDとしてリリースして来ました。
そう言った意味においてはクラシック系の現代音楽よりは、世間との接点が多く残されているのがフリーミュージックです。(分類する事に意味を持たないジャンルですが)
■ 消費される音楽の対局にある音楽 ■
現代音楽にしろ、フリーミュージックにしろ、現代の音楽産業のメーンストリームからは遠く離れています。
大量に生産され、消費されてゆく音楽とは別の世界がそこには存在します。
「売れる事」にしか価値を見出さない資本主義的現代において、「売れない」現代音楽家達の活動は一種の自己満足に過ぎないかもしれませんが、そこに「響く音」には、確かな価値が存在すると私は確信しています。
クラシックやJAZZやROCKは古典芸能の世界になっていますが、その外側では新たな音や響きが日々生み出されています。それを容易に入手できる現代の技術に感謝せずにはいられません。
今回はネットの映像を拝借しましたが、私はなるべくCDを購入しています。それは、素晴らしい音楽へのお布施だからです。