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経済の最新情勢から、世界の裏側、そして大人の為のアニメ紹介まで、体当たりで挑むエンタテーメント・ブログ。

「良い映画」と「悪い映画」・・・私的映画感

2016-08-29 11:08:00 | 映画
 
『君の名は。』の感動が冷めやらないので・・・もうちょっと・・・。








■ ハリウッド映画って面白い? ■

先日の『君の名は。』の記事で、「間違い無く今年公開される実写も含めた映画の中ではNo.1確定でしょう。構成からシナリオに至るまで、この映画を超える作品は、今のハリウッドでは作れない。」と書きました。

「日本のアニメ映画とハリウッド映画を比べるなんて・・・」と思われた方も多いかと・・。確かにハリウッドの諸作は映像も脚本も完成度が高く、エンタテーメント性が極めて高い。全世界の人達をワクワクさせる魅力に溢れています。

しかし、最近のハリウッド映画やディズニー映画は「完成度」は高いのですが、「新しい驚き」に乏しい様に感じます。どこかで見た事のあるストーリーを派手なアクションで強引に見せているだけに感じられます。

■ CGの完成度や演出の技術に頼り過ぎる『ズートピア』 ■




評判のディズニー映画『ズートピア』をDVDで観ましたが、これ、典型的な刑事物(エディー・マーフィーが出てきそうなヤツ)の動物版リメークって感じでした。だから『ズートピア』はストーリーが先読み出来てしまいますし、「出来過ぎ」ていて・・・感動に至らない。(技術や演出のテクニックには感動するのですが)

「人種差別問題を動物に置き換えている」という何となく取って付けた様なテーマは在りますが、実際にはCGによって動物をイキイキと描く事を目的にしています。極論すると「CGならではの映画を作る」事が目的であって、ストーリーや感動というものが技術に従属しています。

アメリカ社会の人種問題は根深く、それに起因する貧困も現実的な問題です。これを正面から描く事は難しいのですが、動物にしてオブラートに包む手法はアメリカのアニメの伝統的な手法です。

それを完成度高くやっただけ・・・なのですが、製作者が人種問題を本当に告発する意図を持って映画を製作しているかと言えば・・・その「ヤバさ」を私は感じません。「動物のアニメーションを作る」という目的が先に存在し、動物アニメの隠れたテーマである人種問題を後からくっ付けた感がしてならないのです。

ある種の「偽善」ですが、アメリカ社会のダブルスタンダードを良く表しています。だからこのアニメは気持ち悪い・・(と言うより、ディズニーアニメ全体が気持ち悪い。)

実はウォルト・ディズニーは白人至上主義者の批判を浴びる事が多かった。実際に彼の作品の中の黒人やインディアンの表現は差別的ですし、職場でも彼が黒人や女性を軽視していたとの話は沢山あります。

近年のディズニーアニメは時代の流れに従って、マイノリティーや外人の扱いには神経質です。「ポカポンタス」や「リロ&スティッチ」の様に「白人至上主義」のレッテルを払拭する為の映画を作ったり、「ムーラン」の様に中国をマーケットに取り込む為の作品を作ったりしています。

ディズニーは巨大なメディア企業であり、そのマーケティングは徹底しています。「夢の様なストーリー」はマーケッティングの結果であり、だからこそ作品がヒットします。ディズニーアニメは個人のクリエーターの作品では無く、大衆向けの「完璧な商品」なのです。

「何分に1回観客を笑わせれば良いか」「涙を誘うシーンはどのタイミングで入れれば良いか」など、綿密に研究して映画造りに反映させています。

これはハリウッド映画全般に言えます。投資家から資金を集め、世界レベルでヒットさせて投資家に還元する目的で作られる映画・・・私達は映画を観て「感動している」のでは無く「強引に感動させられている」のです。

(中には『セッション』の様な「私的」な映画も有り、それらは素晴らしいのですが)

■ 『君の名は。』にみなぎる「個人のテーマと新しい物語」を追求する意思 ■

これまで極私的製作を続けていた新海誠ですが、『君の名は。』は大規模な劇場公開作品なので、これまでの様な「自分の為」の製作は許されず、「多くの人に受け入れられる物語」が要求されます。

彼は「分かり易さ」の道具として「男女入れ替わり」という日本人が好きなベタな設定を選択しています。観客は展開を何となく予想出来きるので物語に入り込み易くなります。

ところが、中盤で物語は「一般的な入れ替わり」を逸脱して、全く違う展開を始めます。観客は不意打ちを食らうと同時にグイグイを物語に引き込まれて行きます。

ここから先は、新海誠の個人テーマである「出会いとすれ違い」がグイグイと前面に押し出されて来ます。新海監督は「個人のテーマ」を捨てていなかったのです。

ただ、「出会いとすれ違い」を「個人レベル」で追及していた旧作と比べ、『君の名は。』は「物語としての強さと普遍性」を獲得しています。

最近、新海監督は「日本昔話し」などの日本に魅力にハマっている様ですが、アイデアの宝庫だと語っています。「物語のステロタイプ」に対する新海監督の理解が深まった事が、「多くの人に受け入れられる良質な物語」の源泉になっているのかも知れません。

■ 『オーロラの彼方へ』という隠れた良作 ■



実は『君の名は。』に似た時空トラベル物の良作が2000年のハリウッド映画に在ります。『オーロラの彼方へ』という題名で日本でも公開されています。

オーロラの影響で30年前の父親と無線で交信する息子(消防士)の話。消防士だった父親は30年前の火災で殉職しています。息子は父親が死んだ火災に疑念を抱き始め、無線の向こうの父親と一緒に事件の核心に迫って行きます。

仕掛ばかりが大掛かりになったハリウッド作品の中で、アイデア一つで勝負した作品として私的には非常に評価の高い作品です。

■ 新しく無い『バケモノの子』と、新しい『おおかみこどもの雨と雪』
 ■


新海監督が今後どの様な作品を作って行くのか未知数ですが、「誰もが分かる映画」の罠には注意が必要です。

新海監督より先に「世間的な知名度」を獲得した細田守監督ですが、彼のバケモノの子』は面白く無い。

何故面白く無いかと言えば、『カラテキッズ』の様な「既成のプロット」を「異世界」という小手先の「変換」で作り直したからで、これは『ズートピア』にワクワク出来ない原因とも同質です。「子供にも分かる映画」を要求された結果とも言えますが、作家性が薄まると作品はたいがい魅力を失います。

その点、同じ細田作品でも『おおかみこどもの雨と雪』は作家性が際立っています。話が難解になったり、演出的に若干破綻してしまっても、「個人の物語、新しい物語」意思によって、その作品の魅力は損なわれる事は有りません。(自己満足にならない最低限の表現力は必要ですが)

同様に『君の名は。』は、「個人の物語、新しい物語」を創造しようとする決意が感じられる、素晴らしい映画だと思います。


■ 『シン・ゴジラ』は「背景」であって「物語」で無い ■

私が否定的な『シン・ゴジラ』ですが、庵野総監督は少なくとも「個人の物語」は捨てていない様です。「エヴァの様な・・・」は「個人の物語」の裏返しかのかも知れません。

しかし、私は『シン・ゴジラ』に否定的です。理由はあの作品が描こうとした「無駄な会議シーンや日本の矛盾」が「背景」であって「物語」で無いから。

「物語」のステロタイプは「神話」に在りますが、どうも人間は「神の与えし試練にひたむきに抵抗する姿」に感動する様に出来ている様です。

『シン・ゴジラ』において神の与えし試練はゴジラですが、どうも物語的には試練は「無駄な会議や、歪んだ日米関係」にも在る様です。

この両方を敵として戦う姿を描こうとした事で、両方が消化不良を起こしてしまった・・・そんな映画なのだと思います。

『場版パトレーバー』や『エヴァンゲリオン』が成功した理由は、「上の事情」をあまり描かなかった事にあります。「上が言っているから・・・」みたいな表現で、その部分は視聴者の想像に任せています。

「上の事情」をメインに描こうとするならば、それはそれで「ポリティカル・フィクション」として成り立つのですが、その場合は現場サイドを描かない事が重要になります。「上の争い」と「下の争い」は異質ですから、それを同列で描くと陳腐になってしまうのでしょう。

絶賛する声が多いので、私程度が酷評しても興行成績には影響しないと思いますので、あえて言うならば、「シン・ゴジラ」は「製作会議のホワイトボードに書かれたプロット」がそのまま映像化されただけであって、その後に続くべき「脚本」や「物語」がスッポリと抜け落ちています。

要は「シン・ゴジラ」は「物語」としての体を成していない・・・。大勢の俳優陣と、ゴジラの迫力ある映像で何となく誤魔化されていますが、特撮シーンがショボイバージョンを想像すれば、あの映画の問題点は容易に理解出来るかと思います。


ただ、庵野監督の映画らしく「使徒」は登場します。それはラストに映るゴジラの尻尾の人型の物では無く、怪しい日本語で脳内を直接浸食して来る「イシハラサトミ」。こいつは手強い・・・。