08年2月から、ある時は個別の短編として、またあるときは2本をセットにして、2年間にわたってさまざまな形で公演されてきた3本の短編が一挙上演される。隅地さんと阿比留さんのデュオが提示するなんだか少しおかしくて、よくはわからないけど、心魅かれていく空間は、従来のコンテンポラリーダンスとは一線を画する。(まぁ、コンテンポラリーってジャンルなんかではないはずだが)
2人は一緒にいるのに、別々の方向を向いていて、でも、やはり2人セットでこの空間にきちんとおさまっている。3つの作品には、連作であるはずなのに、目に見える共通項はない。「百という数。ひとつ足りない。ひとつ余る。三つの数に因むダンス」というコピーを手掛かりにしてこの作品を見つめていくことになる。もちろん殊更それに拘ることはないだろう。そこから読み解けるものよりも、この不思議な感覚を体感することのほうが、ずっと大切なことだと思うからだ。
それにしても、このなんとも言い難い浮遊感って、何だろう。なんだか一風変わった日常感覚がある。ここにいるのにこの世界からほんの少し隔たった感じ。コミカルなのに、笑えるのではなく、えっ?って感じ。その意外性は作為的ではなく、なんだかとても自然で、あたりまえのことのようなのだ。
『百ねずみ』の二匹の男女のねずみたち。二匹はまるで別々のことをしている。でも、それは同じことでもある。新聞を読む男。ベッドの上で美容体操かなんかをしてる女。それは2人が入れ替わって、女が新聞を読み、男が体操をするから、というわけではない。
『九十九かみ』の目を閉ざしてウエディングドレスでやってくる女と、彼女をエスコートするポケットに女性用の肌色のスポーツ・パンティーを忍ばせたスーツ姿の男。後半はこのパンティーを介したダンスとなる。
『百一み』は黒の道着を着た男と白の柔道着を着た女のダンス。衣装との落差がおかしい。その後、男が黒のタキシード。女は真っ赤なドレスで華麗に踊る。二人のソロからスタートし、最後には二人で華麗に踊る。
日常の営みと背中合わせにある生活をダンスに表現する。動きの少ないものから、少しずつ大きな動きを見せ、最後には華やかなデュエットを見せる。休憩10分をはさんで1時間30分に及ぶ長編である。何度となく衣装替えもあり目を楽しませてくれる。
2人は一緒にいるのに、別々の方向を向いていて、でも、やはり2人セットでこの空間にきちんとおさまっている。3つの作品には、連作であるはずなのに、目に見える共通項はない。「百という数。ひとつ足りない。ひとつ余る。三つの数に因むダンス」というコピーを手掛かりにしてこの作品を見つめていくことになる。もちろん殊更それに拘ることはないだろう。そこから読み解けるものよりも、この不思議な感覚を体感することのほうが、ずっと大切なことだと思うからだ。
それにしても、このなんとも言い難い浮遊感って、何だろう。なんだか一風変わった日常感覚がある。ここにいるのにこの世界からほんの少し隔たった感じ。コミカルなのに、笑えるのではなく、えっ?って感じ。その意外性は作為的ではなく、なんだかとても自然で、あたりまえのことのようなのだ。
『百ねずみ』の二匹の男女のねずみたち。二匹はまるで別々のことをしている。でも、それは同じことでもある。新聞を読む男。ベッドの上で美容体操かなんかをしてる女。それは2人が入れ替わって、女が新聞を読み、男が体操をするから、というわけではない。
『九十九かみ』の目を閉ざしてウエディングドレスでやってくる女と、彼女をエスコートするポケットに女性用の肌色のスポーツ・パンティーを忍ばせたスーツ姿の男。後半はこのパンティーを介したダンスとなる。
『百一み』は黒の道着を着た男と白の柔道着を着た女のダンス。衣装との落差がおかしい。その後、男が黒のタキシード。女は真っ赤なドレスで華麗に踊る。二人のソロからスタートし、最後には二人で華麗に踊る。
日常の営みと背中合わせにある生活をダンスに表現する。動きの少ないものから、少しずつ大きな動きを見せ、最後には華やかなデュエットを見せる。休憩10分をはさんで1時間30分に及ぶ長編である。何度となく衣装替えもあり目を楽しませてくれる。