「韓国人俳優と日本人俳優が共演する劇団を目指して」立ち上げられた。その試みがまず興味深い。まず最初に役者ありきなのである。そこから芝居を立ち上げる。
阿倍野区民センター大ホールで公演する。だが、大ホール自身を使うのではない。なんと舞台だけで賄う。どういう経緯でこういうことが可能になったのかは、わからないけど、なんとも不思議な空間だ。今までも何度か舞台上劇場は体験しているけど、今回は実にシンプル。舞台をちょうど半分に割って、舞台と客席に振り分ける。
2人の韓国人俳優と3人の日本人俳優が、韓国語と日本語で、言葉のキャッチボールをする。わかりあっているように演じるけど、実はお互い十分にはわかってないから、言葉のやりとりなのに、意味やニュアンスが伝わりきらないまま空回りしていく(はず)。しかし、そんなことすらも、わかりきったことで、そこを大前提にしてどんどん芝居は進行していく。コミュニケーション不全が生じるのではない。この芝居では、お互いには、何の障害もなく言葉は完全に伝わりあっているものとして、演じられていく。
大阪で暮す韓国人。日本人と韓国人のカップル。韓国から来た男女。日本の企業で働くこと。そういうさまざまな要因を5人の役者たちが、それぞれいくつかは重なりながらも担うことになる。
一応はシチュエーションコメディのような設定なのだが、文化の差を通して笑わせるのではない。では、何を見せたいのか、というと、日本人俳優と韓国人俳優が一緒になって1本の芝居を作り上げていく過程こそが、この作品で見せたいものなのだ。では、これはそのメイキングなのか、と言われると、もちろん違う。出来上がったものは独立した1本の作品だ。アジアに進出した日本の中小企業で働く韓国人が、文化と習慣の違いを乗り越えて、大阪で暮し、共に会社の危機的状況を乗り越えていく姿が描かれる。
途中で2人の韓国人俳優のよる長いモノローグがはさまれる。そこでは、この芝居のために大阪で1カ月暮して、どうだったかが語られる。ここはドキュメンタリーだ。(もちろん、アドリブではなく、字幕が流れることからもわかるように、すべてセリフなのだが)2人のそれぞれの本音が、劇中で語られていく。役上の言葉ではなく、本人の肉声である。
演じることと、生活することを通して、1本の芝居を作り上げていくこと。国を離れて、長期滞在で、だがそれは、その国のシステムに溶け込んで芝居をするのではなく、お互いが同じ土俵で作る。共通言語で、ではなく、お互いが自分の母語で演じることが大事なのだ。ここで大切なのは、言葉のハンディを一切考慮せず、外国で芝居をするという行為だ。
日本の役者とのコラボでは、きっかけのタイミングだけが、重視されるが、台本はすべて頭に入っているから、相手が何をしゃべっているかは、わかる。しかし、その発する言葉のニュアンスはわからないままコミュニケーションしている。そこに生じる些細な祖語すら呑み込んでいく。そうして提示された芝居にはどんな意味があるのか。
エンタメ作品として、彼らが交わす言葉のキャッチボールはとてもテンポがよく楽しい。日本語と韓国語のちゃんぽんによるリズム感がこの作品のベースとなる。字幕があるから、意味はわかる。しかし、意味以上に音の響きが耳に残る。そこに日韓の役者による芝居の質感の違いが、組み合わさることで、不思議なリズムが生まれるのだ。それがとても面白い。なんだかとても貴重な体験だった。作り手のねらいは見事達成された。素晴らしい第一歩である。
阿倍野区民センター大ホールで公演する。だが、大ホール自身を使うのではない。なんと舞台だけで賄う。どういう経緯でこういうことが可能になったのかは、わからないけど、なんとも不思議な空間だ。今までも何度か舞台上劇場は体験しているけど、今回は実にシンプル。舞台をちょうど半分に割って、舞台と客席に振り分ける。
2人の韓国人俳優と3人の日本人俳優が、韓国語と日本語で、言葉のキャッチボールをする。わかりあっているように演じるけど、実はお互い十分にはわかってないから、言葉のやりとりなのに、意味やニュアンスが伝わりきらないまま空回りしていく(はず)。しかし、そんなことすらも、わかりきったことで、そこを大前提にしてどんどん芝居は進行していく。コミュニケーション不全が生じるのではない。この芝居では、お互いには、何の障害もなく言葉は完全に伝わりあっているものとして、演じられていく。
大阪で暮す韓国人。日本人と韓国人のカップル。韓国から来た男女。日本の企業で働くこと。そういうさまざまな要因を5人の役者たちが、それぞれいくつかは重なりながらも担うことになる。
一応はシチュエーションコメディのような設定なのだが、文化の差を通して笑わせるのではない。では、何を見せたいのか、というと、日本人俳優と韓国人俳優が一緒になって1本の芝居を作り上げていく過程こそが、この作品で見せたいものなのだ。では、これはそのメイキングなのか、と言われると、もちろん違う。出来上がったものは独立した1本の作品だ。アジアに進出した日本の中小企業で働く韓国人が、文化と習慣の違いを乗り越えて、大阪で暮し、共に会社の危機的状況を乗り越えていく姿が描かれる。
途中で2人の韓国人俳優のよる長いモノローグがはさまれる。そこでは、この芝居のために大阪で1カ月暮して、どうだったかが語られる。ここはドキュメンタリーだ。(もちろん、アドリブではなく、字幕が流れることからもわかるように、すべてセリフなのだが)2人のそれぞれの本音が、劇中で語られていく。役上の言葉ではなく、本人の肉声である。
演じることと、生活することを通して、1本の芝居を作り上げていくこと。国を離れて、長期滞在で、だがそれは、その国のシステムに溶け込んで芝居をするのではなく、お互いが同じ土俵で作る。共通言語で、ではなく、お互いが自分の母語で演じることが大事なのだ。ここで大切なのは、言葉のハンディを一切考慮せず、外国で芝居をするという行為だ。
日本の役者とのコラボでは、きっかけのタイミングだけが、重視されるが、台本はすべて頭に入っているから、相手が何をしゃべっているかは、わかる。しかし、その発する言葉のニュアンスはわからないままコミュニケーションしている。そこに生じる些細な祖語すら呑み込んでいく。そうして提示された芝居にはどんな意味があるのか。
エンタメ作品として、彼らが交わす言葉のキャッチボールはとてもテンポがよく楽しい。日本語と韓国語のちゃんぽんによるリズム感がこの作品のベースとなる。字幕があるから、意味はわかる。しかし、意味以上に音の響きが耳に残る。そこに日韓の役者による芝居の質感の違いが、組み合わさることで、不思議なリズムが生まれるのだ。それがとても面白い。なんだかとても貴重な体験だった。作り手のねらいは見事達成された。素晴らしい第一歩である。