これを現実の風景として見るとなんだか少しいびつで、ありえないな、と思うが、今僕らが生きるこの世界を、少し歪ませるとこんなにも不気味なものに見える可能性は十分ある。
家族4人はばらばらで、同じ家で暮らしているはずなのに、全く心が通い合っていない。表面的には普通にも見えるが、ひとりひとりはとても異常だ。
兄は、いきなり米軍兵士となって中東の戦場に行く。家族を守るために戦争に行く、と彼は言うが平和日本の中で彼が苛立ちを覚え、そのエネルギーの持っていき場所として外人部隊に入るなんていう唐突な展開をあまりにあっけなく見せる。
弟は、正しいことを言ったために担任の先生から睨まれる。ただ彼はいじめにあうのではない。先生から「俺が彼からいじめられている」なんて言われてしまうのだ。彼は両親に無断でピアノ教室に通う。そこで才能を発揮する。だがそんなことはこのお話の中で埋もれてしまう。
父は、いきなりリストラされ、それを家族に言えないまま、毎日仕事に行くフリをしてハローワークに通い、図書館で時間を過ごす。公園の炊き出しの列に加わる。
母は、家事をこなし、家族のために働いているのに、誰にも構ってもらえない孤独な日々を過ごしている。
こんなふうにバラバラな4人がひとつ屋根のもとで暮らす。いっしょのご飯を食べていても会話らしい会話はない。ことさら強調してデフォルメしているのではない。だが、これは明らかに異常だ。黒沢清は故意にこういう空間を作ろうとしたのではない。彼にとっては普通の風景としてこの家族を描いたらこんなことになったというだけなのだ。そして、4人の行き着く先はこんな生活さえ日常として飲み込んでしまうあたりまえの毎日である。何も起きない。
映画の終盤、あの怒涛の一夜のシーンですらこの映画の日常は飲み込んでいく。そこに何かがあったのではない。何もないことの恐怖がここにはまずあるのだ。様々な事象すらすべて飲み込む。僕はそのことに圧倒されたのだろう。
家族4人はばらばらで、同じ家で暮らしているはずなのに、全く心が通い合っていない。表面的には普通にも見えるが、ひとりひとりはとても異常だ。
兄は、いきなり米軍兵士となって中東の戦場に行く。家族を守るために戦争に行く、と彼は言うが平和日本の中で彼が苛立ちを覚え、そのエネルギーの持っていき場所として外人部隊に入るなんていう唐突な展開をあまりにあっけなく見せる。
弟は、正しいことを言ったために担任の先生から睨まれる。ただ彼はいじめにあうのではない。先生から「俺が彼からいじめられている」なんて言われてしまうのだ。彼は両親に無断でピアノ教室に通う。そこで才能を発揮する。だがそんなことはこのお話の中で埋もれてしまう。
父は、いきなりリストラされ、それを家族に言えないまま、毎日仕事に行くフリをしてハローワークに通い、図書館で時間を過ごす。公園の炊き出しの列に加わる。
母は、家事をこなし、家族のために働いているのに、誰にも構ってもらえない孤独な日々を過ごしている。
こんなふうにバラバラな4人がひとつ屋根のもとで暮らす。いっしょのご飯を食べていても会話らしい会話はない。ことさら強調してデフォルメしているのではない。だが、これは明らかに異常だ。黒沢清は故意にこういう空間を作ろうとしたのではない。彼にとっては普通の風景としてこの家族を描いたらこんなことになったというだけなのだ。そして、4人の行き着く先はこんな生活さえ日常として飲み込んでしまうあたりまえの毎日である。何も起きない。
映画の終盤、あの怒涛の一夜のシーンですらこの映画の日常は飲み込んでいく。そこに何かがあったのではない。何もないことの恐怖がここにはまずあるのだ。様々な事象すらすべて飲み込む。僕はそのことに圧倒されたのだろう。