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映画・演劇のレビュー

空の駅舎『空を覗にいく』

2006-11-28 20:35:30 | 演劇
 山間に佇む研修センターを舞台にした教師たちによるディスカッション劇。タイトルに込められたコンセプトと内容は作っているうちに、最初の予定から少しずれてしまったようだ。それくらいに教師を巡る現実は強烈で作、演出の中村賢司さんが考えていた「都会では失われた完全な静寂を求めて郊外に行く」というガイドラインは霞んでしまっている。

 しかし、この芝居を見終えた後、我々が本当に求めていたものは何なのか、と改めて考えた時、彼が最初に提示しようとしたものが、しっかり蘇ってくる。それは、学校という場所こそが、本当は『空を覗に行く』ための場所だったのかもしれないということなのだ。

 今回のシンプルな美術は素晴らしい。舞台は研修センターのロビー。丸く刳り抜かれた天井の屋根の向こうには空が広がっている。しかし、空はその屋根の圧迫感のむこうに小さく見えているだけである。空中に浮かぶその屋根で隔てられたむこうとこちら。空間がテーマをよく代弁している。それはチラシのデザインとも通ずる。森の中央に穴がありそこに空が覗いている。

 とても力のこもった作品である。そしてこれは今あるリアルの感触を見事に切り取る芝居となっている。

芝居は3部構成をとっている。第1章は、さりげない。「この研修はいったい何?」と思わせる。とりあえずはミステリー仕立ての導入部。7人の教師がどういう意図でここに集められたのか。何のための研修なのか。よく分からない。学期中の3日間の宿泊研修なんていうリアリティーのない設定。この状況を前提にして、彼らが与えられたプログラムをとりあえずこなす姿が描かれる。最初のシーンでは、「生徒へのセクハラはどの状況から生じるのか」ということが討議されている様子が描かれる。

 第二章はその日の夜。三、三、五、五集まってきた彼らの一見本音トークが始まる。しかし、ここで語られるものはあまりにストレートすぎてちょっと付いていけないなと思った。教師たちが、こんなことを考えているのではないかということを一応描いてあるが芝居じみててリアリティーが感じられない。彼らの悩みがナマに描かれるのだが、そんなの普通は喋らないよ、と思い見ていた。しかし、わざとこういう会話をさせていたことが後で分かる。本来なら言葉にしないことを喋らせることで誰もが考える教師像を明示して、教師を巡る状況を観客にしっかり示す。教師のイメージから観客を芝居の世界に引き込む。

 そこから芝居は大きく展開していく。第3章は翌朝の研修。文部科学省の実験的な研修サンプルとして彼らがここに集められたことが分かる。次年度から民間校長として赴任することが決まっている男がこの研修を仕切っていたこと。また、この研修をリードしていた男は現場経験なしで最初から管理職として採用されたエリートで、今後現場で生徒と関わらずに教師を管理することで学校経営に携わることなどが明らかになる。

 しかし、芝居はこういう謎解きが目的ではない。とりあえず、教育現場を通して、今という時代を描こうとするのだ。管理的で融通が利かず、他者の目に振り回され自分たちを締め付ける。自由が利かなくなり、どんどんつまらなくなる。そんな世界の最先端の縮図として教育現場を取り上げたのである。生徒不在の教育改革。生徒のわがままをどんどん受け入れるシステム。等々。教育を巡る問題を通して今世界で起きている不穏な空気、これから起こりうるものへの警鐘を描こうとしているのである。

 エピローグでは校長研修に現場の教師を講師として呼ぶというあきれたエピソードが描かれる。現場にいるはずの人がお勉強として現場を学ぶ不条理。それをシニカルにではなくあっさり見せる。末期的な教育現場をこういう形で描くことで、この静かな芝居は幕を閉じる。

 中村さんのスタンスは現場の声を伝えることにはなく、断片的に捉えた現実をきちんと見せ、その混沌としたものを通して、何かが壊れていく様を見せることにある。しかし、そこには壊してはならない大切なものがある。教育はサービス業ではない。ビジネスライクに生徒に快適な空間を提供して楽しく知識を身に付けて頂く、ものでは絶対ない。

 我々の生きるこの世界は、何かがおかしくなってきている。この芝居は、《学校はどうあるべきなのか。そのためには教師はどうあるべきか》を描いているように見えるが実はそこにとどまらないのは明白だ。それは糸口にすぎない。

 ここに描かれる7人の教師たちはそれぞれが自分の信念を持ち現場に立っている。自信がない人や、やる気がないように見えるものも確かにいる。しかし、一人一人が個性を持ち、悩み、考えてる。そんな人たちの集まりが学校の面白さを作っていたのではないか。そんな学校というものを、均一化され、事務処理しかできない<有能>な教師たちしかいない場所にしていいものなのか。

 様々な矛盾を孕んだ教育現場に対してこの芝居は敢えて答えを出さないことで、とても雄弁に答えている。そして、それは教育現場の話にとどまらず、この世界すべてに通するのは先にも述べた通りである。

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2 コメント

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ありがたいです (hirose)
2006-12-03 08:47:41
反論ありがとうございます。仰る事よく分かります。ただあの芝居は教育問題だけを扱ったものではないと思うんです。それは入り口に過ぎません。あそこにいる教師たちは決して立派な人たちではない。ただ悩み苦しんでる。そんな彼らを通して、各人が自分の場所で自分たちの問題と向き合うことが大事だと思うのです。芝居は答えなんか出せません。答えは僕らが出すんです。
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反論 (Unknown)
2006-11-29 20:28:45
私は全く逆にそらぞらしさを感じました。それは教師のコミュニティにだけ成立する世界を巧妙に切り取ろうとする意志です。いじめに怯える子ども、不登校……。それに向き合う姿を語らず、揺れを感じれば許される居心地の悪さです。悩んでいることで正当化される公務員の甘さです。理想を語りつつ現場に生かせないから、ヤンキー先生や夜回り先生がもてはやされるのです。

向き合うのは、民間校長の向こうにある意識です。教師、文部科学省、政府、そして国民。あくまで教師コミュニティから抜け出せないことがこの芝居の居心地の悪さです。
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