『トレーニングディ』のアントワーン・フークア監督の作品だから、見に行く。家族愛を描くボクシングもの、というパッケージングはあまりにありきたりでそこには食指はそそられないけど、彼ならどんな素材からでも凄い映画に仕立てられるはずだから、見た。
そして、期待は裏切られない。最初の防衛戦が凄い迫力だ。無敗のチャンピオンがもう負ける、寸前までいく。映画を見ながら、彼は必ず負けるのではないか、と確信する。(ストーリーをまるで知らないまま、見はじめたからこれがこの先どんな展開を見せるのか、まるでわからない。もちろん、映画だからある程度パターンの枠に収まるはずだから、先が読めないというわけではない。
だが、この段階での勝ち負けはわからない。だから、そこにドキドキする。この映画の未来はこの試合の勝ち負けに託されるからだ。そして、奇跡が起こる。『ロッキー』ならここで「エイドリアーン」と叫んで終わる。しかし、この映画はここから始まるし、まだ、始まって30分のところである。2時間の映画が、まさかここで終わるはずもない。
予想外の展開だ。でも、ラストは彼が復活するドラマになることは約束されている。では、興味の焦点はどこに生じるか? これは勝ち負けのお話ではないことは必至だろう。だが、勝たなければ終われないことも必至だ。そういう制約の中でアントワーン・フークアは安易な結末を選ばない。
表面的にはわかりやすい勝利のドラマだ。だけど、妻の死という事実はどうしようもなく、拭えない現実として彼らの前に横たわる。(「彼ら」とは、彼と、母親が死んだ時10歳だった娘のことだ)
ジェイク・ギレンホールは徹底的に体を作った。ボクサーを演じるうえで嘘をついてはならないのはそこだと信じた。世界チャンプとして、スクリーンに立つ。でも、その圧倒的な強さを表現するのではない。その内面の弱さを表現するのが、役者の力だ。心の弱さが妻を死なせ、娘を苦しめる。もちろん、自分自身も再起不能になるし。
正統派のボクシング映画だ。熱くなれる。でも、それだけではない。やはりアントワーン・フークアは信用できる作家だ。