まずその大胆な料金システムに驚く。HEPホール進出第1作にも関わらず、こういう提案をする。収支がどうなったのかはわからないけど、こういうリスクを冒してまでも、面白いことを追求する。それって、これはそれなりの自信作だ、ということなのだろうけど。それにしても、凄い。
もちろん、それだけではない。まず、舞台美術。ラストの屋台崩しも、手が込んでいて結構複雑な装置だったので、大変だったはず。少しもたもたするけど、あっ、と驚く転換なのだ。今まで信じていたものが一瞬で崩れ去っていく瞬間をストレートに表現する。あれだけの高低差のある空間を全部取っ払ってしまう。そして、当然のことだが、お話。こちらも驚くしかない。女子高生のうんこを食べる変態男、という基本設定である。女子高の教室に忍び込んで、トイレから汲みだしたうんこを食べているところに、忘れ物をしたヒロインがやってくる。
キャベツと白菜の区別がつかないヒロインの母親が薬の売人をしているとか、ないわぁ、と思う。笑わせるだけではなく、そこから話を怖い方向へとスライドさせていく。薬を紛失した母親のところに売人の元締めがやってきて、ヒロインを強姦するとか。
過激なお話をくるくる展開させて、どこまでもいく。しかも、うんこを食べるという設定をここまで生かしきらずに見せるのも凄い。生かさないのなら、する必要はない。ただ驚かせたいだけなら、ただの悪趣味だ。自分の中にある変態とどう向き合い、どこにたどりつくのか、これはそんな魂の旅のはずなのである。父の自殺から始まり、ひとりぼっちになった自分が(母は最初からいない)一体自分って何なのかをたどっていく。死者がやってきて、(それは彼にだけ見える。一人目は父、もうひとりが化け物、)何の役にも立たないのに、一緒にいる。
少年の話と女子高生の話が並行して描かれていく。少女の母親は覚せい剤に嵌っていて、売人になった母のミスから、家にかくまうことになったヤクザにレイプされ続け、身籠る。主人公の少年は実はその子供なのだ。という、謎ときが終盤になされるが、彼女の女子高のトイレのうんこを食べていたところを彼女にみつかるシーンは冒頭近くにあり、そこから話は本格的に動き出すのだが、このシーンが実は出逢うはずのなかったふたりの出逢いなのだと、終わる直前になって気付く。だって、彼女は未来の母であり、彼はもっと、未来のその息子なのだから。ということは、これは現実ではなく、イメージシーンであり、そこをスタートラインとするこの作品はすべてが妄想の産物だと考えてもよい。ラストの予定通りの惨劇も、である。天涯孤独の少年の見た幻の旅。ここには何一つ意味がない。無意味の積み重ねの極みを旅する100分間ということか。それを結構シリアスで重いタッチで描くことで人間というものの愚かさ、バカバカしさが見えてくる。
劇場の王様とは、この虚構の世界を旅する彼のことなのだが、ここまで中身のない空疎なことを、こんなにも丁寧に作り上げようとすることで、坂本さんは演劇の可能性の限界へと挑戦する。「こんなもん、何の意味もないじゃん、」と突き放さすのではなく、だからこそ、それをどれだけ丁寧に見せるのかが課題だと考える。先週のカメハウスといい、これといい、若い世代が全力でからっぽの世界にむけて、挑んでいく姿を見せつけられると、改めて彼らの焦り、この時代の混沌を感じずにはいられない。