金沢からやってきた劇団で、今回初めて見る。どんな世界を見せてくれるのかとても楽しみだった。普通の会話劇ではない。まるで一篇の美しい詩を見ているような作品だった。象徴的なパフォーマンスを、「これは何を意味するのか」と緊張しながら、目撃する。
こういうパフォーマンスで大事なのはストーリーではない。そんなことは重々わかっているのだけど、演劇としてこれを提示するというのならば、なんらかの動線が欲しい。それが意味につながるとき、感動にもつながるはずなのだ。提示されるイメージの連鎖は刺激的で美しい。それだけに、そこにほんの少しでもいいから「物語」としての要素が添加されるとうれしいし、見やすくなったはずなのだ。
しかし、そうはしない。しかも、役者の身体からも意味が感じられないから、なかなか作り手の想いが伝わらない。なんとももどかしい。ものすごく長い間(マ)と沈黙に耐えきれなくなるギリギリまでひっぱってくれる。見ていて辛くなるほどだ。でも、この緊張感も受け止める側の感動にはつながらない。とても美しい映像を提示する。沈黙と大音響、映像と静止するパフォーマー。彼らの動きも含めて絵画的な65分間は十分刺激的で素晴らしいとは思う。だから、それだけにもどかしいのだ。
全体的に単調で、そこもきっと作り手側の意図なのだろう。この居心地の悪さもそうだ。わからないでもないのだが、見ていて、なんとも辛い。もっと緩急があったほうが感情の高まりが感動につながったはず。クライマックスの『春と修羅』の朗読シーンはとてもいい。その後の静かなシーンとの対比もいい。だけど、そこがあと少しでもドラマ性をもっていたなら、と惜しまれる。宮沢賢治と震災の記憶というモチーフを通して何を見せるか、何を伝えるか、空間を生かすことも含めて、観客への歩み寄りが欲しい。