なんてことだ、と思う。思わず笑ってしまうくらいに態変は自由自在にこの芝居を作っている。『自由からの逃走』というタイトルを持つこの作品を、こんなにも自由に作ってしまうフットワークの軽さが今の態変の身上である。
もともと怖いもの知らずの集団だったのだが、昨年の『ファンウンド潜伏記』を経て、完全に開き直ってしまったのではないか。自分たちの不自由を逆手にとって、不自由だからこそやれることを模索続けてきた彼らが、全身全霊を傾けた『ファンウンド潜伏記』を作り得たことで、たががはずれてしまった気がする。
もちろんそれは悪い意味なんかではないことは当然のことだ。自分たちのやれることなんかたかがしれているから、怖い顔して苦しむのではなく、やれることを好き勝手にやってやろうではないか。思いの丈をすべてぶつけて自爆してしまっても後悔しない。そんな開き直りがこの作品をこんなにも軽やかなものにしてしまったのではないか。
これは前作の重さとは対照的だ。この軽やかさがすばらしい。何でもありの世界である。フロムの心理学書を原作にしたらしいこの作品は、世界のあり方を図式的に示してくれる。特にナチスの台頭から逃げ出すという構図は、悲壮なものではなく、それまでの世界のなりたちの繰り返しの歴史を描く部分を受けて、当然のこととして示される。自由を勝ち取るための闘いをあきらめるということではない。大きな歴史のうねりの中で、生き抜いていくための選択が、最終的には自由を勝ち取るための道につながるというのである。なんだかそれってすがすがしいことではないか。
こんなにも自由な作品を知らない。しかもそれを態変の役者達が演じるのである。だからこそ、そこにリアリティーが生じたのだ。エキストラをたくさん舞台上にあげ、ちょっとした人海戦術スペクタクルである。役者であろうとエキストラであろうとその境目もどうでもいい。
これは熱いエネルギーの塊である。上手いとか、下手だとか、この際どうでもいいのだ。小泉さんと福森さんがメフィストとして、作品全体をリードする。この骨格のみを頼りにして、まずはテンポよく人類の歴史をなぞっていく。フランス革命のところでは火を使い野外劇であることのおもしろさもそれなりにしっかりと示す気配りも忘れない。せっかくなのだから、大阪城公園の木々を森に見立てる。借景を使わなくてはもったいないし。そんなところも気に行った。やりたい放題だ。それでいい。
もともと怖いもの知らずの集団だったのだが、昨年の『ファンウンド潜伏記』を経て、完全に開き直ってしまったのではないか。自分たちの不自由を逆手にとって、不自由だからこそやれることを模索続けてきた彼らが、全身全霊を傾けた『ファンウンド潜伏記』を作り得たことで、たががはずれてしまった気がする。
もちろんそれは悪い意味なんかではないことは当然のことだ。自分たちのやれることなんかたかがしれているから、怖い顔して苦しむのではなく、やれることを好き勝手にやってやろうではないか。思いの丈をすべてぶつけて自爆してしまっても後悔しない。そんな開き直りがこの作品をこんなにも軽やかなものにしてしまったのではないか。
これは前作の重さとは対照的だ。この軽やかさがすばらしい。何でもありの世界である。フロムの心理学書を原作にしたらしいこの作品は、世界のあり方を図式的に示してくれる。特にナチスの台頭から逃げ出すという構図は、悲壮なものではなく、それまでの世界のなりたちの繰り返しの歴史を描く部分を受けて、当然のこととして示される。自由を勝ち取るための闘いをあきらめるということではない。大きな歴史のうねりの中で、生き抜いていくための選択が、最終的には自由を勝ち取るための道につながるというのである。なんだかそれってすがすがしいことではないか。
こんなにも自由な作品を知らない。しかもそれを態変の役者達が演じるのである。だからこそ、そこにリアリティーが生じたのだ。エキストラをたくさん舞台上にあげ、ちょっとした人海戦術スペクタクルである。役者であろうとエキストラであろうとその境目もどうでもいい。
これは熱いエネルギーの塊である。上手いとか、下手だとか、この際どうでもいいのだ。小泉さんと福森さんがメフィストとして、作品全体をリードする。この骨格のみを頼りにして、まずはテンポよく人類の歴史をなぞっていく。フランス革命のところでは火を使い野外劇であることのおもしろさもそれなりにしっかりと示す気配りも忘れない。せっかくなのだから、大阪城公園の木々を森に見立てる。借景を使わなくてはもったいないし。そんなところも気に行った。やりたい放題だ。それでいい。