生まれたときから、歴史に残る傑作、というものを初めて見た。こんなにも端正で、ストレートに、人間の本質に迫る作品はない。たくさん芝居は見ているし、映画や、小説も読んでいるけど、こんな気分にさせられることはない。見た瞬間は感情的になって、「これは、すごい、今年のベストワンだ!」なんて、思うことはよくあるけど、冷静に「これは、歴史に残る作品だな、」なんて思うことはめったにない。というか、そんなことを今まで一度も思ったことはなかった。
セクシャリティの問題を入口にして、(見る前は、そこがメインテーマだと、思ったが、そうじゃなかった!)そこに留まらず、心の底から、自分って(人間って)何なのかを問いかける。自分の心も体も、どうなっているのか、わからない。自分の性癖というものを、どう認めたらいいのか、わからない。自分が同性愛者であることをカミングアウトできたなら、どれだけ楽になれるか、と思う。しかし、それは不可能だ。しかし、それは、その事実を認めたくない、とか、隠したい、からではない。自分でもわからないからである。心に正直になるなら、反対に迷うしかない。女性は愛せない。女の子と付き合ってわかった。男性のほうが好き、なようだ。しかし、それがホモセクシャルである、という事実にはつながらない。わからない、としかいいようがない。子供の時、好きだった男の子がいた。でも、それは友情で愛ではない。というか、幼い子供にはそんなことどうでもいい。一緒にいたい。そうすると、お互い楽しい。誰もが感じることだ。なのに、心ない大人がからかう。おまえら、ホモか? と。そうすることで、二人の仲は気まずくなった。友情にひびが入る。ささいな、ことか? 子供時代の思い出か? でも、あれから10年以上過ぎてもまだ、それを引きずっている。悪気なんかなかった、とその大人は言う。でも、納得いかない。その一言がすべてを壊した。
人間にとって、愛は大事。しかし、セックスは必ずしも必要ではない。そう断言できたなら楽だろう。20歳である。自らの性癖で悩む。自分で自分がわからない。
男同士の友情はある。それが純粋な愛情になってもいい。そこにセックスがなくてもいい。ホモセクシャルというくくり方で差別と偏見の目で見られてしまうこと。だが、人はひとりひとりが違うように、その性癖も同じように違う。マイノリティを受け付けない世の中の在り方、それが問い質される。
この作品はある家族の小さな物語である。お父さんとお母さん、そして一人息子。しかし、これは世界の物語でもある。僕たちが生きるこの大きな世界。
上田一軒の演出も的確だ。堂々と正攻法で描かれるのだが、ドキドキさせられる。戯曲の持つ力を信じて、生かす。7人のキャストのアンサンブルも見事。まるで良質の新劇を見ている気分にさせられる。ここには小細工は一切ない。ひとりひとりが、自分の最大限の演技を見せる。そうしなくては、この作品を損なうからだ。極度の緊張を強いられる。ピリピリする。
緒方晋が怖い。福谷圭祐が、抑えた感情をぶつけてくる。主人公を演じた池之上頼嗣が溢れ出る内面を不器用に押し隠すぎこちなさ。悪意のない岸本奈津枝の悪意。純粋な想いが悪意のように噴出する橋爪未萌里。や乃えいじはおどおどするばかり。林英世はなんとかしてこの場を収めようとする。そんなそれぞれの想いが、ラストに向けて突き進む。90分。どこにたどりつくのか、息をつめて見つめる。
古典として永遠に残る作品の持つ普遍性は時代を経ても変わらない人間の本質に触れるものであることだ。この作品が描くのも、そこである。人間の本質的なものを描こうとした。今までも、『トバスアタマ』『エダニク』とエポックとなる傑作を書いてきた横山拓也の到達点を示す日本演劇史に残る作品だ。